一歩入って、立ち止まる。少しだけ、いつもと違う気がした。
「――…ああ、乱菊さん。いらっしゃい」
「こんばんは。……どうしたの?」
「あ、すみません。今、こっちにずれるんで」
灰皿にライター、煙草の箱。それにグラスを滑るように移動させ、修兵はいつもの席へ座り直す。
「マスター、今日は白にするわ。軽めでお願い」
空いたばかりのスツールに滑り込んで、乱菊は視線を巡らせた。僅かに浮かぶ、訝し気な表情。
「どうかしたんスか? 乱菊さん」
「何で修兵がこっちに座ってたの?」
「ああ、それですか」
「さっきまで、他のお客さんがいてね」
「初めての人?」
「来たのは常連さんと一緒だったんだけどね」
「それで、いつもの席が占領されてたんで」
「ふーん」
「あ、マスター。俺、チーズね。ブルーチーズとかも入れて」
「いいけど、珍しいね」
「っていうか、ワイン飲む時はそういうチーズ食べないんじゃなかったの?」
「いや、何かいろんな種類のが欲しくなったんで」
「修兵さん、早速影響受けたんだ」
「ま、そんな感じで」
「ちょっと、何の話よ」
「あー、だから、さっきまで居た人ですよ」
「女の人なんだけど、自分のお店持ちたいって言っててね。この辺にも、その下見で来たらしいんだけど」
「お店って?」
「チーズの専門店っスよ」
「ああ、それでなの」
漸く腑に落ちて、乱菊は頷く。
「でも、あんたがよくそれだけで影響されたわね」
「乱菊さんも、居れば分かったと思いますよ」
「何よ。美人だったの?」
「どっちかと言うと、綺麗な人だったかな」
さらりとした言葉は、カウンター向こうから。
「っつーか、格好良いって感じで。行動とか雰囲気が」
「そんな所は乱菊さんとも似てるよね。タイプはちょっと違うけど」
「あー、あと多分、乱菊さんと同じか、少し上くらいの年じゃないスか?」
「どう反応するべきかしらね、それは」
「え、じゃあ、何歳か教えてくれてもいいっスよ? それか職業」
「一切お断りよ。悪いけど」
冗談交じりの口調に、乱菊は語尾に笑顔を繋げてあっさり返した。
「ねえ。そのお店って、やっぱりチーズだけいろいろ置くの?」
「あ、でも、カウンター作って、グラスワインなんかと一緒に出したりもしたいって言ってましたよ」
「多分、カフェやバーの要素を足した感じなのかな。流行ってるとは言っても、やっぱりチーズの種類って余り知られて無いからね。お客さんにワインに合うチーズを薦めて、実際に食べて貰ったりすればいいんじゃないかって」
「へえ…凄い。出来たら行きたいかも」
「やっぱそう思います?」
「思うわよ。じゃあ、ココのワインとチーズの立場、逆転させた感じなのね」
「まあ、ワイン自体を売っては無いけどね。でも彼女、チーズだけじゃなくてワインもかなり詳しかったよ。その点を言えば、僕はチーズは勉強不足かな」
「やっぱ、ワインの知識の方が需要高いっスからね」
「日本だと、チーズだけがどうっていうの、あんまり聞かないわよね。最近はデパートなんかで専門のコーナーがあったりもするけど」
「中国とかでも結構ブームになってるって聞いたんスけどね。チーズ」
「うーん。だけど全体的には、知名度の高いチーズが売れてるんじゃないのかな」
「……ねえ、マスター。ココはチーズの種類増やしたりしないの?」
「ウチでは、メインになるのはワインだから」
ふと思い付いた乱菊の言葉を、やんわりと否定する。
「だから、やっぱりチーズはワインを楽しむ為のものかな。彼女も、ワインの他に珈琲や紅茶なんかも出したいし、チーズもいろいろ手を加えたりしたいけど、余り要素を詰め込み過ぎても駄目だからって……そういうものだと思うよ。何事でも、やるとなると拘りたいと思ってくるし。でも、ある程度までにしないと手が回らなくなるからね」
「あー、でもやっぱ、外から見ててもそういう方がいいって。押さえるべき所を押さえてる感じで」
「と言うか、マスターのセリフがやけにカッコいいんだけど」
「あれ? そうかな?」
「そうよ。かなり」
「あ、じゃあ俺はどうなんですか? 乱菊さん」
「あんたは何も言って無いに等しいでしょ、修兵」
「微妙に酷いっスよ、それ」
「――…それじゃあ、どうぞ、乱菊さん。イタリアワインだよ」
笑って、彼女の前にワイングラスが差し出される。
「ありがと。あ、マスター。ついでに修兵のチーズ、少し多目にしてくれる? あたしも食べたいから」
「それならパンも付けようか。薄目にスライスしたのを、軽く焼いて」
「勿論よ。それでお願い」
「ちょっ…何で勝手に決まってんスか……!」
「何よ修兵。あんたまさか、ダメだとでも言うつもり?」
「や、あの…――」
「まさか言わないわよね、そんなコト。言わないでしょう? ハイ決定」
言葉を濁す修兵をそのまま押し切って、乱菊はカウンターの向こうに目を移す。
「ねえ。やっぱりマスターも、今日はちょっと影響されたりした?」
「と言うよりも……」
二人の遣り取りに浮かんだ笑みを微かに消して、答えが返った。
「初心を思い出したかな。少しね」