Black Swallowtail


 初夏の黒揚羽。視界を横切り、舞い飛ぶ影。
 思わず、呼吸を止めた。
「何だ、アゲハチョウか」
 何の気無い一護の声で、我に返る。
「ああ……もう、夏だからな」
 咄嗟に感じた狼狽えは誤魔化せただろうか。
 鮮やかな夕焼け。世界を染め上げた色が目に痛い。横に並び立つ夕日色の髪。漆黒の装束。
 西の空を背にして、黒い蝶は街へと降りて行く。いつの間にか見慣れてしまった景色を見下ろす高台。長く影を後ろに引いて、ルキアはそれを見送った。
 あの日、自分は蝶を追って街の中へと舞い降りた。其処に何が待ち受けているか知る由も無く。
 ルキア。と不意に呼ばれ、鼓動が波打つ。ぞんざいな返答でそれを隠すと、いつも通りの口調が続いた。
「虚も倒した事だし、さっさと帰ろうぜ」
「ああ」
 駆け出そうと身を翻し――しかし、ルキアは足を止めた。
「ルキア?」
「――…あ、いや。ゴタゴタしていたので忘れておったが、そういえば今日は浦原の処に寄る事になっていたのだった。これからついでに行って来る。一護、済まぬが先に帰っていてくれ」
「何だ? あのゲタ帽子に用があんのか?」
「ああ。……少し、補充せねばならぬ物もあるしな」
「また妙なモン買って来るんじゃねえだろうな」
「なっ、妙な物とは何だ、妙な物とは!」
「あー…ホラ、オマエが欲しがってた何とかってウサギの義魂丸とか」
「失敬な! チャッピーは妙な物では無いわ! ――って、それより、貴様の身体を放っておいて良いのか? 確か、まだ学校の……」
「っ…ああッ! 畜生、そうだった!」
「ふっ、せいぜい周囲に怪しまれぬように気を付けろよ」
「うるせえ! 先行ってるぞ!」
 言い捨て、駆け去っていく少年。背中に負った大刀の鞘が、日を照り返して眩しく光る。
 沈黙のまま見送って、ルキアは苦しげに瞑目した。
 普段通りの遣り取り。今日の次は明日が来ると、疑い無く信じている子供。直射する眼差しが、知らずにルキアを追い詰める。

 惹かれてはいけない。羨んではならない。全て消えてしまうから。
 幻は自分。夢は過ごした日々全て。いずれ、この世界が私を忘れてしまう。
 枯れ落ちた花。漂白された記憶。それらを前に、成す術は無い。分かり切った未来を知って尚、惑う己は先を知らない蝶よりも愚かだ。

「…………っ」
 小さく開いた口が、言葉を失くして沈黙する。
 僅かな呼気を吐き出して、閉じた唇を静かに噛んだ。
 丸い影を揺らめかせ、沈む夕日が宵を誘う。振り向けば東の空から蒼い夜が広がって、晴れた西空には、きっと一番星が輝き出す。
 だが、どれも自分とは違う世界のもの。
 そう――この世界の、全てに対して思う言葉を口にする資格など、己には無い。

 斜陽。立ち尽くす無力な影を、沈む太陽はただ静かに創り出す。







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