From the Darkness


 湿った粒子を重ね重ねて積もる大気。微かな呼吸に震える空気が肌に刺さる。
「貴様……」
 警戒する瞳。驚愕は在っても臆する事無く見返す紫紺に、虚空を思わせる白い瞳が写り込む。
 男が笑った。口を歪めた其れを笑みと呼ぶなら、恐らく、酷く愉しそうに。
「漸く、逢えたなァ」
 黒い死覇装。白い柄布に巻かれた黒の大刀。吹き込む夜風に微かに揺らめく姿は、ベッドの上に横たわる少年の――霊体の筈だった。
 だが、
「一護の……内なる虚、か?」
 黒い眼球に、虚ろに空いた白い瞳。確認しても意味の無い其れは、事実。視線の先で、其れは詰まらなそうに眼を眇めた。
「なァ、刀構えてどうする気だ?」
 無意識に力を込めた、斬魄刀の鞘に添えた左手。動きを見抜かれ、ルキアは僅かに身を引いた。
「あァ……それとも逃げんのか?」
 狭い部屋。日常生活で、少年一人が使うには十分な広さでも、闘いの場には不十分。壁を隔てた先には、少年の妹達も眠っている。チャッピーに身体を任せ、死神化していたのは幸いだった。少なくとも、巻き込むものが少なくて済む。
「貴様、何をしに来た?」
「オイオイ、誤解してんなよ。俺は別にアンタと争いに出て来た訳じゃねえ」
 やや頭を傾けて言う姿が、月光を背に浮かび上がる。
「ただ、忠告ってヤツをしに来ただけだ」
「何――?」
「ああ……」
 呟いたと思った瞬間、男の姿が意識の外に消えた。
「……っ!?」
「――王には、俺を抑えても滅す事は出来ない」
 一瞬で詰まった間合い。左腕で壁に押し付けられ、瞳を覗き込んでそう告げられる。空いた右手は袖白雪の柄尻を押さえ、牽制の為の抜刀も防がれた。
「知ってんだろ? 反逆者の存在ってヤツは、王の宿命だ。王が強ければ玉座は守られ、弱ければ奪われる。餓鬼でも分かる簡単な図式さ」
 ま、一護は解ってねえがな。脳ミソの甘ったるさにゃ呆れるぜ。
 嘲笑う口調に、紫紺の両眼に怒りが灯った。
「貴様が言いたいのはそれだけか?」
 訝しげな眼を睨み、ルキアは言葉に力を込めた。
「一護は、貴様などには敗けない」
「へえ……随分自信があるじゃねえか。けどな。王が強いからってのなら、それは錯覚だ。あのヤローは弱い」
「違う。――奴が、黒崎一護だからだ」
 単に強い力を持つだけの者であれば、心から信頼などしなかった。
「貴様は、思い違いをしている」
 向けられる霊圧は、圧倒されるほど強い。だが、恐ろしくは無い。
「君臨する者は、何よりも先に己自身を治める事が出来なければならない。貴様は確かに純粋だよ。迷いが無い。だから時に、一護を圧倒する程強い。そして、永遠にそのままだ」
 強さの基準は一つではない。力だけでは計れないものがある。
「誰も、時には迷うものだ。己を弱いと知るものだ。思い知らねば気付けぬ事も、後悔せねば分からぬ事もある。多分、愚かだろうな」
 それを、これまでずっと思い知ってきた。
「だが……だからこそ、己を正す事が出来る。律する事が出来る。先へと踏み出す事が出来る。強くなる事が出来る。何かを変える事が出来る」
 それを、一護が教えてくれた。
「――貴様には、それが出来ない」
 静かな宣告。低い声で告げられた言葉に、虚無の瞳の奥で何かが変わった。
「一護は、私の世界を変えた。私の運命を、変えてくれた。一護は――……っ」
 唐突に伸びた手が、勢いのままに細い首を掴んだ。爪先が宙に浮き、気道と動脈が一度に圧迫される。ルキアは、咳き込む事すら出来ずに口を開けた。
「何だ? 王がどうしたって? 聞こえねえなァ」
 吊り上がった口。訝しげに言う声は、酷く愉しげに揺れていた。
 両手が宙を彷徨い、その隙に袖白雪が鞘ごと抜かれて放り出される。鬼道も縛道も、放つ術が無い。高く吊り上げられ、視界に映る天井が霞む。
 ――意識を失う寸前で、掴む手が解かれた。
 唐突な解放に、ルキアは落下し、墜落するように崩れ落ちる。受け身も取れず、強かに身体を打ち付けた。
「っぅ……!」
 生理的な涙を浮かべ、咳き込みながら呼吸を整える。這うように身を起こし、充血した眼で、己を見下ろす瞳を睨み付ける。観察するような視線と、無感動な表情。
 恐らくは、この男の考え一つでルキアの命運も決まる。だが、その瞳の奥で何を考えているのか、まるで測れなかった。今更のように圧し掛かる霊圧に、ルキアはただ、自分に近付く相手を見詰めるしかない。
 氷のように冷たい掌は、触れるだけで痛みを感じる。
 壁に身体が押し付けられる感触に、閉じそうになる瞼を押し上げた。無様な姿を見せるなど御免だと、己の矜持が囁く。
 ぞろりと、湿ったものが首筋を這った。奇妙に温度の無い舌が、赤く跡の付いた首を舐め上げる。
 驚愕と戦慄が走り、だが、上げかけた声は塞がれる。開いた口内に突き込まれた中指と薬指。咄嗟に噛もうとして、ルキアの脳裏に其の身体の持ち主が反射で浮かんだ。
 目の前の男は、一護であって、一護でない。それでも傷付ける決心が付かず、ルキアは咽喉の奥で呻いた。

 長い指を半ば咥え込むようにして、それでも睨み付ける紫紺の強さ。其れを、僅かに顔を離して確かめる。期待通りでも、予想外でも、己に返す反応がこの上なく愉しい。黒崎一護という名の男と同じ姿の、虚ろで深い瞳の持ち主を嫌悪しているだろうに、疵付ける事が出来ない。――それが、分かり過ぎるほどに良く分かる。
 黒い髪をかき上げて、普段は隠れて見えない耳朶を噛んだ。くぐもった声と、反射で動いた舌が二本の指に絡む。引き剥がそうと左手首を掴んだ両手の指に力が入るが、爪を突き立てるまでは出来ない様が滑稽だった。
「オイ。どうかしたか? なァ?」
 耳元で問い掛けながら、押し込んだ指では舌を抑える。怒りと困惑で震える霊圧がこんなにも心地良いのは初めてだと、声には出さずに独り嗤う。
 もう一度、耳の端を強く噛む。今度は有るか無しかの音がして、きめ細かな皮膚に赤い血の粒が滲み出た。軽く切っただけでも滴る血を、丁寧に舐め取って嚥下する。
 開け放した窓から射し込む月の影。歪めた貌の中で、唯一鋭さを失わない瞳が紫に光る。弱い筈なのに、力を込めれば呆気無く消えてしまうだろうに、その存在に触れるのが愉しくて仕方が無い。
 更に嗤って、血を流し続ける場所を咥えた時――意識の奥で、抵抗を感じた。
 ――ちっ。
 舌打ちをした。徐々に強くなる抵抗。だが今は、抗う時では無い。

 始まりと同様、前触れの無い終わり。突然指を抜き取られ、その勢いで思わず咳き込む。口の端から流れた唾液を乱暴に拭くルキアに、一護の姿をしたものが告げた。
「俺を、忘れるんじゃねえぞ」
 視覚を通して、黒と虚無の瞳に侵食されそうだ。
「コイツの奥底で、牙を研いでる俺を忘れるな」
 嗤って、糸が切れたように倒れ込んだ身体を受け止める。体格の違う少年を何とか支えようと身を捩り、身体を抱くように抱え直した瞬間、腕を掴まれた。
「…いち、……――っ!?」
 黒い眼球。白い瞳。
 にやりと笑って見上げた貌に、悲鳴を殺した。
「なっ……」
「何だ? 俺が消えたと思ったか?」
「っ……離せっ!」
「御免だね」
 力の強さに、右手の下で腕の骨が軋む。顎の下を掴まれ、後頭部が壁に打ち付けられた強い衝撃。一瞬飛びかけた意識を必死に手繰り寄せ、呻き声を上げようとしたルキアは、自身が感じている感覚に総毛立った。
 眼前に在った目と視線がぶつかる。唇には奇妙に冷えた湿った感触。
「っ……!」
 逃れようとする唇の間に、強引に舌が割り込んだ。口付けなどという生易しいものでは無い。容赦無く圧し掛かる霊圧が重い。空気を求める本能的な動きも、抑えられて遊ばれる。
 行為を理解し、しかし行為の意味が分からない。拒否の言葉も抵抗も、全て捩じ伏せられていく。
 長いのか短いのか不明瞭な、一方的な交情。情が在ったかすら定かではない其れから解き放たれると、ルキアは激しく呼吸を繰り返した。混乱する頭の中で、言うべき言葉を掴めない。空気を求める咽喉では、放つ声が作れない。
 暫し嗤って眺めていた男は、音も無くルキアに身を寄せた。
「信じるなんて、無駄な事は止めとけよ。王は…アンタの一護は消える。――…諦めな」
 耳元で、脳裏に貼り付くような声で囁いて、ゆっくりと身体がルキアの上に沈み込む。霊圧の収束。漣のような感覚を、暫くの間、彼女は茫然と追い掛けた。
 ややあって、己に凭れるように伏せた身体を床に下ろす。のろのろと力を込め、顔が見えるように仰向けに返す。落ちた瞼と、消耗してはいるが普段通りの霊圧。
「一護……」
 安堵で何故か、声が震えた。
「貴様は、敗けない。――なあ、そうだろう?」
 横たわる身体を覗き込む。
「一護……私は、貴様を信じている……」
 ――信じさせてくれ……。
 掌を固く握り締め、掛けた言葉に応えは無い。

 薄い雲が空を横切る。静か過ぎる月が、僅かに翳った。










書きながら、何かの限界に挑戦してる気がしてました…(をい)
あの…ちなみに裏は書けませんので…!!


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