Pale the Blue


 街並みの向こうに、日が落ちた。
 残り火のように燃える西空。夜の気配は東から中天へと色を変え、西の端へと降りて行く。
 冬の日。時刻だけ見れば夜には早い。なのに、黄昏は帳を落とすようにして、速やかに夜闇の気配を伴っていた。
 冷える空気を逃れるように、寄り道もせずに戻った家。玄関を開けると、夕食の支度を始めている妹の気配がした。
「あ、お帰り。一兄」
「お帰りなさい。お兄ちゃん」
 ただいま、といつもの調子で応じ、階段に向かおうとした背中に、当然のように質問が掛かった。
「あれ? ルキアちゃんは?」
「………知らねえけど」
「ええー、何で?」
「イヤ、何でって」
「だって、いっつも一緒に帰って来るのに」
「んな毎日一緒って訳じゃ……大体、アイツにだって自分の付き合いとかあるだろ」
 適当に返す。面白そうに遣り取りを眺める夏梨と、不満そうな遊子を残し、乱暴な足取りで部屋に戻った。
 開いたままのカーテン。閉じた辞書と置いて出た教科書の載った机。ベッドの上には適当な感じで畳まれた布団。硝子窓から射し込む夕日に照らされた部屋は、今朝出掛けた時そのまま。
 ――ホントに帰ってねえのか。
 自分の部屋の様子でルキアの在宅の有無を確信する。良く考えれば妙な話だ。それが普通になっている自分も、多分相当変わっている。だが、最初の居候時代の生活がああだっただけに、部屋に二人居る事に違和感が無い。実際ルキアは、充てがわれた筈の妹達の部屋には寝に行ってるようなものだった。
 だから逆に、一人の部屋は広過ぎてどうしていいか分からなくなる。
 鞄を放り出し、ベッドの上に倒れ込んだ。
 ほんの数か月前、ルキアはこの部屋に現れた。唐突に始まった同居生活。それ以前、ここが自分一人の部屋だった時、どうやって過ごしていたのだろう。
 もう、思い出せない。
 思い出すのは、尸魂界から戻った時。ルキアがもう、この場所に帰って来ないと実感した瞬間。
 あの空虚さが蘇る。それだけで、堪らなく苦しい。
 玄関の扉が開く音が、僅かに振動になって伝わってきた。階下で迎える妹達の声。内容までは分からない、一頻りの賑やかな遣り取りを、疎外されたような気分で聞く。
 階段を昇る足音。近付いてくる気配に、身体を起こした。
「――……ああ、一護」
 ドアを開けると、階段を上がり切ったルキアと目が合う。
「今日は早いのだな。もう帰っていたのか」
 応えは返さず、手を伸ばした。無言で、その腕を掴んだ。
 ドアが閉まる。勢い良く引かれたせいでよろめいたルキアの肩から鞄が滑り、一拍置いて床に落ちる。
「一、護……?」
「――…何処行ってたんだ?」
 片手をドアノブに置いたまま、訊いたのはそんな事。言いたい事が溢れて、零れ落ちた後に辛うじて残った下らない疑問。当惑するルキアの顔をまともに見れない。
 沈黙が響く部屋を、夕日の残照が焼いていく。
「どうかしたのか? 一護」
「……別に」
 戸惑いと憂慮を込めた科白に、返した言葉に意味は無かった。言うべきでは無い言葉、望むべきでは無い事など分かっている。だから結局、言いたい事は何も言えない。
「一護」
 黙り込んでしまった彼の名を、ルキアが呼んだ。
「ついでだから宿題を手伝ってくれ。夕食までは間があるしな」
「………ああ」
 気遣ってくれたのだと分かる。どちらも素直ではないから、こんな遣り取りでしか示せないだけ。それが嬉しく、口に出せない想いの大きさが酷く苦しい。気付いてから、それは日に日に堰き止める事が困難になりつつある。
 ずっと、心の奥に封じ込めて来た。だけど、それも――。
 不自然に逸れた視線の横で、ルキアは落ち着かせるように小さく笑んだ。
「では、着替えたら直ぐに来るから用意しておけ。ああそうだ、下から何か――」
 科白が、唐突に途切れる。不自然な無言が語尾を覆った。
「…………っ」
 ルキアの声を塞いだのは唇。呆然とした後、反射で身を捩った小柄な身体を、離さないように堅く抱く。
 抱かれたまま、静かに弛緩していく身体。微かに睫を震わせ、きつく目を閉じたルキアを、薄く開けた瞼の隙間から確かめる。
 誤魔化しようの無い行為。それは、暗黙の了解で互いが引いた線を断ち切った瞬間。
 静かに離れた唇の距離を埋めるように、抱いた腕に痛いほどに力を込める。
「ルキア……ッ」
 躊躇いがちに背に回される細い腕。一見して小さくとも、刀を握るべくして在る両手。
「何処にも、行くな……」
 平素からは信じられない程、発した声は掠れていた。
 腕の中で、呼吸と共にルキアは言葉を飲み込んで、ほんの僅かに額を胸に押し付ける。
「ルキア……」
 原則に左右された、作られた答えは聞きたくない。
 ――頼む。と、声にならない声で願った。

 容易に口に出来る程、告げた言葉も秘めた想いも軽く無い。どちらもそれが分かっているから、続く言葉は紡がれない。
 地上に比して僅かに明度の高い空。夜が薄く、空の色を落としていく。
 夕闇が覗く部屋の中で、いつまでも、二つの影は重なっていた。








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