The Edge of the World


 白く膜がかかったように、街並が雪に包まれた。朝になれば消えるだろう、冷たいアスファルトに薄く積もった白い色。
 深夜。雪雲が閉ざした空が、街の明かりに重く浮かぶ。
 灰色のビル。やはり白く覆われた屋上で、生者に聞こえぬ悲鳴が上がった。
 節の目立つ巨大な脚が宙に飛んだ。赤黒く飛沫を上げる其れは、骨を思わせる白。骸骨を模した仮面の奥から、痛みと憎悪に濁った叫びが迸る。
 虚の脚を一刀で斬り落とした黒い大刀を肩に載せ、構えるでも無く立つのは死神。特徴的な橙の髪色が何処か霞んで見えるのは、不規則に舞い散る雪の所為か。
 虚空に響く、声帯を擦り合わせるような耳障りな声。
 大きく跳んで、微動だにしない死神へと振り下ろされる虚の脚。蜘蛛を思わせる脚先は、鎌のように鋭い。
 コンクリートを抉る音。転がる脚が、一本、二本。そして、悲鳴。
 動く手段を減らされ、雪を掻いてもがく虚。雪景には似合わぬ醜怪。戦闘ではなく虐殺を想起させる光景を、死神は感情の乏しい瞳で見遣る。
 何もかもが癇に障った。ただ斬るだけでは振り払えない苛立ちを、雑魚を弄んで紛らわせ、そして余計に泥沼に嵌る。
 一際高い悲鳴に、彼の感情がぷつりと切れた。
「うるせぇんだよ……ッ!」
 跳ね上げた霊圧に、大気が止まる。
 振り下ろした刃よりも、その剣圧で仮面が砕ける。爆発のような衝撃が波濤を広げ、響く音が消え去った跡――其処には、何も残っていなかった。
「一護っ!」
 立ち尽くす死神。その傍らに降りた黒い影。小柄な死神の霊圧は、その感覚が彼の皮膚に酷く馴染む。
 一護の口から、少しだけ、安心したような吐息が零れた。
「ルキア……」
「何をしておるのだ、莫迦者!」
 強い口調の奥に、憂慮が混ざる。
「虚を倒す時は一撃で決めろと教えたであろう。今の貴様になら容易な筈だ」
 不安定過ぎる霊圧の揺れで、戦いぶりを察したのだろう。自分を睨む彼女の視線に、彼は気が抜けたように大刀を背負った。
「……ああ…悪ぃ。――それより、そっちはもう倒したのか? 虚」
「当然だ。あんな雑魚如き、大した事は無い」
「そっか……」
「一護? どうしたというのだ、一体」
「イヤ。別に、何でも無ぇよ」
 帰ろうぜ。と促す一護に、ルキアはどうすべきかを僅かに迷う。だが結局、追及せずに頷いた。

  * * *

 ――ふと気付くと、白い世界に立っていた。
 見覚えの無い光景。否、それ以上に強い違和感を感じる光景。
「ビル……?」
 見渡す視線が、規則的に並んだ無機質の長方形を認める。現世で見慣れた建造物。その筈なのに、
「何だ、此処は?」
 延々と、何処までも続くビルだけの街。地上ごと横転したように、完全に遊離した重力と光景。音が乏しい。気配が無い。そして――色が抜けている。
 白いビル。灰色の空。今更のように見下ろした自身は、漆黒の死覇装。
「何故……」
 自分は、部屋に居た筈だ。義骸に入っていた筈。なのに何故、此処にいる?
「何なのだ一体。此処は――」
『――教えてやろうか?』
 背後から聞こえた声に、背筋が粟立った。
「…………っ!」
 唐突に出現した気配。咄嗟に大きく飛び退ると、足元から白いものが舞い上がる。その向こうで、見覚えのある影が嗤う形に口を歪めた。
『よう。久し振りだな……朽木、ルキア』
「貴様、一護の……!」
 内なる虚。白過ぎる肌。白銀の髪。白い死覇装。黒い眼球。
「何故、こんな処に貴様が居る!?」
『オイオイ、心外だな。俺は此処にずっと居たぜ。アンタがコッチに来たんだ』
「何、だと?」
『此処は中だ。アンタにだって在んだろ?』
「中……」
 精神世界。この男が居る世界。即ち此処は、
「一護の――?」
『御名答』
 揶揄するように答え、男は一歩前へと進む。反射的にルキアは退がり、斬魄刀へと意識を遣って、帯刀していない己に今更気付く。
『そんなに警戒すんなよ』
「黙れ」
『何だよ。黙っていいのか?』
 問われ、ルキアは思わず窮す。知りたい事は幾らでも有る。何故、自分が此処に居るのか。不安定な一護の力と精神状態。目の前の男の真意。だが、
「訊けば、貴様は正直に答えるのか?」
『さァ。どうだろうな』
「では、訊くだけ無駄だ」
 突き放したルキアの言葉に、男が咽喉の奥で嗤う。そのまま身を翻して背を向けると、肩越しに告げた。
『知ってるか? 此処はな、雨が降るんだ』
 脈絡の無い科白に、ルキアは眉を顰めた。空が在って、雲が在る。ならば雨が降っても可笑しくは無い。だが、殊更言う意図が分からない。
 訝しげな彼女の様子を無感動に見遣り、男は言葉を投げ付けた。
『……だがなァ。雪が降ったのは初めてなんだよ』
 言われて初めて、ルキアは気付いた。
 先程舞ったもの。そして、足元に、ビルに、この世界の全てに薄く積もっているのは、
「雪……」
 世界が不自然に白過ぎる所為で、分らなかった。
『アンタが連れて来たんだろ?』
 意外な言葉。
「莫迦な事を。自分がどうやって来たかも分からぬというのに。……それに、そもそもこの世界は一護の」
『アンタだよ』
 静かに断言し、男は言い募る。
『アンタが此処に来たからだ』
「それは……――」
 咄嗟に反論しようとして、ルキアは論拠を見失った。
 目に入るのは、雲に覆われた空。薄い明かり。世界を覆う白。降り積もる音すら吸い込んでいくような静けさ。
 一護の空を閉ざす雪雲。もしかすると、自分はそうなっているのかもしれない。
 ふと、そう思った。
 戦いに巻き込んだのも、その所為で傷付けたのも事実。世界を変えてしまった事を、彼は喜んでいたけれど。それでも、自分が傍に居続ける事、共に戦う事は、結局彼の未来の為にはならない。
 分かっていた筈だ。最初から。
『なァ、そうだろ?』
「――…そうかも、しれぬな」
 自嘲。笑みとも呼べぬ笑みを見て、男はすっと目を細めた。
 積もった雪が低く舞う。消えた、とルキアが思った白い姿が、半瞬後に目前に出現する。
 驚愕に、殆ど反射で顔を上げ、視線が男の其れと絡んだ。
「あ、」
 ――白では、無いのか。
 薄く平坦過ぎる明かりと、漆黒の眼球の所為で分からなかった瞳の色。黒の中に在る虹彩は、琥珀。
 色が在る。
 一瞬。ほんの一瞬、気を引かれた。
 次の瞬間、熱過ぎる吐息が声を塞ぐ。

 至近に立って、覗き込むように彼女を眺めた。
 有色。
 象牙色の肌。漆黒の髪。紫紺の瞳。薄紅の唇。桜色の爪。
 この世界では、明らかに異質な鮮やかさ。
 見遣る男と見返す女。互いに色の異なる虹彩を、互いの瞳が映した。思うと同時に、彼女が何かに気付いたように目を見開く。ほんの僅かに開く唇。
 気付けば、其の淡い色に喰い付いていた。

 不自然に低い体温に包まれる。ルキアの頬を滑り、後頭部を包み込む白い指。強引に唇を割った冷たい舌が、ルキアの其れに絡み付く。互いの極端な温度差で、触れる箇所が火傷しそうな程に痛かった。
 唐突過ぎる口付け。深く求めてくる激しさに、ルキアは思わず反射以上の抵抗を忘れる。されるがままに翻弄される彼女を、男は気の済むまで貪ると、最後に口の端から零れた唾液を啜って舐め取った。
 顔を離して見下ろす先。呼吸を乱し、茫然と見上げた彼女の口から奇妙な疑問が零れ出た。
「…………何故?」
『ハッ、理由なんて知るかよ』
 口を歪めて嗤い飛ばす。
『俺は欲しいモノは手に入れる。そして、俺のやりたいようにやるだけだ』
 そうして殊更、相手の瞳を覗き込んだ。
『なあ、アイツは、こーいうコトはしてくれねぇか?』
 わざとらしく尋ねた途端、紫紺の瞳に怒りが閃いた。
 頬に向かって振り上げられた右手を素早く掴む。そのまま捻って両手を後ろで拘束し、彼女の耳許に口を寄せた。
『怒るなよ。事実だろうが』
 囁きへの応えは、無言で返された。
『………っ!?』
 白い皮膚を破って食い込む白い歯。近付いた男の首筋に、彼女は不自然な体勢のまま踵を浮かせて咬み付いていた。
『て、めえ……』
 ごく薄く、肉を抉るようにして歯が走る。
 突き飛ばすようにして身体を離すと、途端に体温が下がった気がした。左の首筋に、ぬるりとした感触がある。
「私を、只の女だと侮るな」
 紫の瞳に燐光が宿る。口の端から血が掠れて、やや紅潮した象牙色の頬に黒ずんだ赤が広がっている。
 ぞくり、と彼の内で何かが震えた。
「貴様が一護の身体を借りていないのならば、私が躊躇する理由は何処にも無い」
『――…クッ…ハハッ…ハハハッ……良いなァ…アンタ。面白ぇよ』
 愉しげに嗤う。己の奥底から突き上げる何か。それは多分、歓喜に近い。
 弱いようで強い。儚いようで強靭。思い通りに翻弄されているかと思えば、思いがけずも翻って牙を剥く。
 ――……欲しい。
 目の前に現れたから、離したくなかった。近付いたから、触れたくなった。――そんな、衝動という名の本能が、明確な欲望へと集約する。
『決めた。俺はアンタを手に入れる』
「不可能だ」
『イヤ、出来るさ。俺は“王”よりも強い』
「では、その『強い』とはどういう意味だ? 生憎、強さというのは一義的なものでは無い。一護は強いぞ。貴様が勝つとは限らんな」
『じゃあ、賭けようぜ? アイツが勝つか、俺が勝つか』
 訝しげなルキアを見詰めて言い募る。
『アイツが勝てば、アンタは好きなようにしな。だが、俺が勝ったらアンタは俺のモノになる』
「詭弁だな。自分に利点の無い賭けを受ける気は無い」
『何だ。ノリが悪ぃな』
「どうとでも言え」
 突き放すルキアに、しかし男は気を悪くした風でも無い。
『まァ、別に俺としちゃあ結果が同じならどうでもいいけどな』
 冷ややかに流して、ルキアは口と頬を乱雑に拭う。掌に付いた、血と呼ぶには毒々しい色を見て、果たして今の自分は霊体なのかという疑問が浮かんだ。何故か、この遣り取りが現実である事だけは無条件に受け入れている。
 不意に、止まっていた大気が大きく動いた。死覇装と髪を揺らすのは、風。そして、
『何だ。帰るのかよ?』
「そのようだな」
 足先と裾から、風に乗って散るようにルキアの身体が消えていく。満開の桜が散り落ちるのに似た光景を、眇めた瞳で男は見遣る。
『また会おうぜ? ルキア』
「断る。私は二度と御免だ」
『ツレない事言うなよ。言った筈だぜ。俺は欲しいモノは手に入れる。ソレが何だろうとな』
 返ったのは無言の視線。そして、一際大きな風に吹かれて、その姿が融け消えた。
 瞬間、雲が割れる。
 止まった時が動くように、灰色の雲が奔り出す。雲間から射し込む光を、世界を覆った白い雪が照り返す。
 光の洪水。一気に落とし込まれた眩しい世界に、男は片手で瞳を庇った。
 雲間が広がり、何処か霞んだ青い空が現れる。同時に、薄く重なる雪がゆるりと融けた。白は色を失くして蒸発し、また、透明な流れを作って落ちて行く。
 琥珀の色から、感情が消えた。
『あーあ、融けちまった』
 速やかに消える雪景を、詰まらなそうに瞳に映した。
 ルキアが居た空間に視線を投げる。
『手放さない為なら、空を雲で覆うのなんざ何でも無ぇよ』
 無明の闇に包まれようが氷に閉ざされようが関係無い。この腕の中に居ないのならば、世界が無いのと同じ事。
 何故なら、彼女が居なければ己は存在しなかった。きっかけは、母鳥を慕う雛に似る。其処から始まり、加速したものは、最早理性では止められない。
『なァ、分かってるか? ――朽木ルキア』
 恐らく、あの女はそんな事など分かっていない。本能を抑え、全てを理性で処理しようとする“王”自身も。
 決して離すなと叫ぶ本能を他の衝動ごと抑え込む。それが、どれだけ愚かな事か。
『気付かせてやるよ』
 だから、
『その時まで、死ぬんじゃねェぞ。一護』
 そう、ルキアを手放したくない想いと、存在する世界が異なる現実の挟間で迷えばいい。軋轢で苦しみ、苦しみ抜いて想いを抑え、手放した瞬間、出来た虚無に呑まれればいい。

『安心して、テメエは消えな。――ルキアは俺が、離さ無ぇ』

 心の中心。世界の最果て。
 其処で、男が独り、空を嗤った。












白一護が出てくると、いきなり長くなるのは何故だろう…。
ルキアが盛大に敗けず嫌いな辺り、剣ルキと通じるものがあるような…イヤ、向こうは殺伐とした話でも結局ほのぼのしてるんですが(そうなんだ…)
取り敢えず、白一護がやたらとやる気になって終わりました。…何故(…)


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