Lost Soul
戦った。強くなった。敗けないように。護れるように。
強さには限りが無くて、何処までも続く空のように果てが無い。そう思って。いつか手を伸ばせば、全てを掴めると思った。
信じて、それだけを思って進んだ。その筈だった。
なのに――、
壁を砕いた先には何も無く、全て砕いたこの手の中に、欲しいものは欠片も残らなかった。
束の間の深い眠り。そして、疲れるだけの浅い眠りを延々と繰り返す。ぼんやりと目を開き、時計に焦点を合わせる。蛍光の文字盤と時針。夜明けにも早過ぎる時刻を読み取って、寝返りを打った。
最早、眠る事すら辛い。
今となっては思い出すしかないあの頃。虚退治に走り回って、疲れ切って倒れるように深い眠りについて。眠いながらも渋々起きた朝は、何故、あんなに明るかったんだろう。
何一つ、変わっていない。彼女が現れるその前と、世界は同じように動いている。家族も友人もクラスメートも。街も人も、季節の移ろいも。世界の作りでさえ、恐らくは変わっていない。
何一つ変わらない。だから――…彼女が居ない。
それは、日常に入った亀裂。
最初は僅かな戸惑いと違和感だった。そして、普通だと言い聞かせて、無理矢理に前を向くたび目に入る日々。見えるのはどれも、慣れ親しみ過ぎた非日常との違い。
のろのろと昇った太陽。急かすような目覚ましのアラームを乱暴に解除し、一日を始める。日々が、終わる気配の無い繰り返し。延々と、出口の無い螺旋に嵌り込む。
通学路。朝日の眩しさに目を背ける。学校へ近付き、自分を追い越して行く生徒の後姿の中に、彼女を探す。
忘れたくないと言ったのは自分。嘘にしたくないと願ったのは自分。
なのに、見たいと願う姿は何処にも無い。聞きたい声も、皮膚に融けそうな程に馴染んだ気配も。
軽やかな足音。視界を横切る影。光の中に、揺れる影に、有り得ない幻影を見る。
馬鹿馬鹿しい、と笑い。疎ましい、と嫌悪する。
一方で、過去を綺麗な思い出にしてしまう周囲。誰もが、寂しい、と小さく振り向き、感情を落として未来に進む。それだけで終わらせてしまえる連中。
今にも呑み込まれそうな自分だけが、世界から弾かれていた。
おはよう、とそれぞれの調子で声を掛ける友人達。こちらを見遣る表情の奥に潜む、気遣うような、元気付けるような気配。気付かない振りをして、普段通りを装って、全てを拒む。
こんな遣り取りに慣れてしまって、善意に返す嘘と誤魔化しに抵抗も感じなくなった自分を、彼女は何と言うだろう。
授業に身が入る事も無く、文字の板書を単なる模様のように視覚から追い出す。傍らの窓から、空をカタツムリよりも鈍く移動する太陽の影を睨む。カーテンを翻す風の形と色が見えたら、異なる世界の空も見えるだろうか。
現実逃避。瞳は見えないものを追って、耳は望む声を探す。この世界に存在しない事が解り切っていて、それでも求めるから果てが無い。
望まないのに別れを選んで、理性で判断して力を封じた。
死神。死神代行。斬魄刀。虚。尸魂界。
キーワードのように浮かぶ単語が連想ゲームのように繋がって。消えてしまった、俺のもう一つの世界を作り出す。
力を封じた俺は只の人間で、今は人間としてこの世界で生きるだけ。
人間でも死神でも、例え虚でも、自分で道を選んだのなら後悔はしなかった。だけど一つだけ、必要な存在が隣に居ない。
多分、あの時、欠けてはならないものが欠けてしまった。
注意を向ける振りすらしていなかった授業が終わり、意識から完全に外していたクラスメートが帰宅を始める。遊びの誘いを当たり障りなく断るのも、向けられる話題を適当に流すのも、何度目なのか数える気になれない。機械的と言うより反射的に出来るようになったそれらの芸当。
不自然では無いタイミングで教室を出て、流れを外れて階段を昇る。重く軋む扉を開けて、夕日が舐める屋上に立った。空を染める夕焼けと似ているらしい俺の髪色。今この瞬間も同じなら、俺の色は随分と禍々しいと思う。
傾いた日は、安心する程あっさりと落ちた。中天に、昼間から青空の下に居た月が白く浮かぶ。後ろに満月の影を背負った細い月は、早い時間に沈む。だから今夜は、晴れていれば星夜。曇れば闇夜。地上は年中真昼。
「――……ルキア……」
遠慮するように、誰も俺に向かって口にしない名前。
変わり映えの無い日常も、目まぐるしい日々も、全て鮮やかだったのは彼女が居たから。死神で、尸魂界の住人で。違う世界に居るもの同士なのに、それでも心から信頼出来て…――。
強くなった筈だった。
死神の力。虚の力。全てを越える力を手に入れた。
それでも、手に入れる為に必要なのは力じゃなくて。二人を隔てるのは己の無力などでは無くて。
いつしか踏み越えていた境界。近付く為に手に入れた力が、欲しいものから己の存在自体を遠ざける。
そしてまた、力を封じ、魂魄を肉体に縛る鎖。幾重にも絡む重さ。
意識の底で身を捩って、その強度を確かめた。今の自分に、切れるだろうか。解けるだろうか。さり気なさを装った繰り返しは最早癖になり、徐々に一つの目的に向かう。
今は確かに人間。けれど、肉体を脱ぎ捨てた俺は、死神とは似て非なるもの。
いつの間にか、遠ざかってしまった。違う存在になってしまった。
だけど、
――最初に、俺を死神にしたのは誰だ?
自分を人間じゃないものにしたのは、彼女。失った力を手にしようと思ったのは彼女の為。暴走する力を支配しようとしたのも、強さを望んだのも、全ては護る為。
なのに、失くさなければならなかった。手放さなければならなかった。
世界が変わって、違う世界に入り込んで。こんな場所まで来て、戻れなくなってしまった。
――……何で?
西空の上で、沈みかける月。色の無い細さ。
最後に、彼女は何と言っただろう。何て事の無い挨拶に、いつも通りに短く一言で返した。返せるように、耐えていた。
翻した姿が扉の奥に消えて、音も無く扉が融けていく瞬間まで、振り向く筈の無い背中に願っていた。もしも振り向いたら、戻って来たら、一体何と言うつもりだったのか。
振り向く事も、戻る事も無い。分かり切っていても、縋るように待っていた。
――……何でだ?
待つ必要など無かった。耐える必要など無かったのに。
離したくないなら、逃さないようにすれば良かった。違うのなら、同じものにしてしまえば良かったんだ。
「ルキア……」
気付けば、それは酷く容易く、この上なく愉しい事に思えた。
右手が、胸のある箇所に爪を立てる。
例えば、俺と同じ場所に。最初の日、全てが始まった日に、俺達が交わったように。
――同じように、穴を開けてしまえばいい。
早々と、月が沈んだ。
暗い屋上で、掌で代行証を弄ぶ。使う術も無く、何も聞こえず、それでも手放す気になれなかった道具。
軽く力を入れて握っても、違和感以上の感覚は無い。肉体と魂魄を縛る鎖はきつく、執拗で、簡単には解けない。多分、無理に抜けようとすれば魂魄自体が損傷する。以後、決して死神化しようなどとは考えるなと、力を封じた時に言い渡された理由の一つ。
だけど、それは今更。
既に取り返しのつかない程に変容してしまった俺に、魂魄が傷付くのを躊躇う理由は無い。
屋上に巡らされたフェンスに軽くよじ登り、向こう側に張り出した、コンクリートの縁に下りる。肉体に入ったままでこんな場所に立つのは初めてで、吹く風にバランスを保とうとする身体が珍しかった。
星が見えそうで見えない。星が存在する意味を見出せない空を眺めた。
教室にも、屋上にも、校庭にも。学校だけでなく街のあちこちに彼女との記憶が在って、それが思い出でしかない現実。それを自覚させられる繰り返しに、倦んでいる。
だからもう、抜け出そう。
握り込んだ代行証に力を込め、魂魄を縛る鎖に意識を注ぐ。強い抵抗と激痛が感覚を貫いて、それでも歯を食いしばって力を呼ぶ。
声にならない絶叫を上げて、全てを断ち切った。――そして、
「……――――ッ!!」
材質の不明な代行証が完全に握り潰されるのと、身体が軽くなったのは同時。締め付ける痛みが引くのを感じながら、瞼を上げる。
視線の下を、ぐらりと、傾いだ身体が俺をすり抜けていった。
それはすぐに、中空に立つ俺の視界の端から消える。遮るものも支えるものも無い。只、成す術無く堕ちて行く。魂の抜けた、単なる器。
やけに間を置いて、遥か下で、異様な音が響いた。
今、風が下から吹き上げれば血の匂いがするだろう。もしかすると、直視するのも難しい有様になっているかもしれない。
用済みになった肉体には一瞥もくれず、只、嗤った。
これで戻る術も、戻る必要も無くなった。人間だからと、戻される心配も無い。重要なのはそれだけ。
久々の感覚に身体を慣らし、思い切って宙を踏み切ると、夜景が眼下を流れて行く。
死覇装。背には黒い大刀。懐かしさは在っても、全身を巡る力に違和感は無い。
まずは、適当に死神を見付けて、尸魂界への道を開けさせる。例え道が通れず断界に行ったとしても、それだけの事。必ず尸魂界に辿り行き、瀞霊廷に侵入して、そして――、
「ルキア…――」
二人が出会った時。俺の世界はあの時変わって、変わる前には戻らない。時は戻せないのに、戻そうとするから不自然になる。
逆流させた時を押し流して、停滞した世界を回転させる。
不要なものは全て棄てて、必要なものだけ手に入れる。決して邪魔はさせない。誰であっても、何であっても。
「…――ルキア」
オマエは、俺のものだ。
だからこの手に、取り戻す。
…シリアスを通り越して一護が壊れました(…)でもまあ、イチルキなら有りだと思っています。