Fall into the Sky


 傘を叩く音。端から流れを作って落ちてきて、風に押されて吹き込んでくる。地面に落ちて、水溜りで跳ねて上がる小さな飛沫。古くなった傘の柄を伝って、冷たい水が右手に届いた。
 朝から何処か暗かった空は、午後遅くなってから雨を落とし始めた。一気に冷えた大気に、体温が追い付かない気がする。
 ――…寒い。
 身体が、とか。気温が、とか。そんな事じゃ無い。
 只、酷く寒かった。
 夕方の暗さ。雨の冷たさ。妙に耳に響く周囲の音。普段は意識しないそんなものが、こんな時は意識を静かに侵していく。
 左手を、強く握った。皮膚に喰い込む爪の感触で、流されそうな意識を繋ぐ。
 記憶を忘れたい訳じゃ無く、只、押し流された思考が何処へ行くのかが怖かった。
 何処かに穴でも空いているのか、柄から流れ落ちる水滴は止まらない。傘を持った右手に絡んで、手の中に溜まって滴り落ちる。
「……やっぱ、いつもの傘持ってくりゃよかったな」
 朝、遅刻しそうな時間に飛び出そうとして空の暗さに驚いた。天気予報と降水確率を知らせる遊子の声に、咄嗟に掴んで出て来た黒い傘。親父の古いヤツか、医院の置き傘が家の方の傘立てに紛れ込んだのか。これと言って特徴の無い、それでも見覚えの無い傘。
 握った柄の感触に違和感が在って、それで余計に落ち付かなかった。
 ――只でさえ、こんな日だってのに。
 自然と、眉間に皺が寄った。
 そう、一年に何度か。忘れそうになった頃に、こんな日が来る。
 雨だから。夜に近いから。寒いから。――多分、そんな事は理由じゃない。雨が降っているのも暗いのも、凍えそうな程に寒いのも。全部が全部俺自身の問題で。だから逆に、俺にはどうしようも無かった。
 降らせ方を知らない雨を、止ませる方法なんて分からない。
 また、足元で、アスファルトに溜まった水が跳ねた。
 ――遠い。
 学校から家。近くはなくとも遠いとは思わない距離が、やけに果てしなかった。歩みを進めるうちに、このまま何処にも辿り着かないような、そんな心許無い気分になる。
 馬鹿馬鹿しい。
 きっと、そうだろう。だけど、そう感じるのは事実。
 こんな夜は、静かに俺を狂わせようとする雨音を、息を潜めてやり過ごす。
 雨に止めと願うのは、意味が無いからもう止めた。
 多分、もう――……、
「一護」
 麻痺しそうな聴覚に、やけにはっきり声が響いた。
「…………ルキア」
 白い傘。コンビニなんかで売ってる安いヤツを、何故かルキアは良く使う。買って貰った傘は、使うのが勿体無いからと言って。
 俺のものより小さめな傘をさしたルキアは、空いた左手にもう一本持っていた。紺色の、いつも使う俺の傘。
「何、してんだ?」
「いや……貴様の傘が在ったものだから、てっきり忘れて行ったのかと……」
 持っていたのか。と、今朝は俺より早く家を出て、俺より先に教室を後にしたルキアは呟く。制服を着替えて、それだけで出て来たらしい。長袖のワンピースに薄手のカーディガンを羽織っただけの姿は、少し寒そうだった。
「……ルキア、オマエ……」
「まあ、傘があるなら良い。貴様が風邪を引くのでは、と遊子が心配していたからな。早く帰って…――」
「ルキア」
 踵を返そうとした瞬間、呼び止めた。
「傘」
 怪訝そうに見返す双眸を、一瞬見詰めて少し逸らした。
「コレ、朝、間違えて持って出たヤツで――少し、壊れてんだよ」
 だから、と続ける俺に納得した顔をして、ルキアは傘を差し出した。
「世話の焼ける奴だな」
「ウルセー」
「まあ、無駄足にならずに済んだから良しとしよう」
 偉そうに言って、そのまま身を翻して歩き始めたルキアを追う。少しだけ早足で進むと、直ぐに距離は縮まった。
 俺より少し低い位置で、くるくると気紛れに回る白い傘。その隣に並んで、無意識に歩調を合わせる。
 ――あ、
 ふと、気付いた。
 慣れた傘。慣れた道。雨脚は少し強くて、気温は昨日よりも随分低い。
 ――……戻った。
 普段の感覚。
 分らなくなっていた確かさが、いつの間にか戻っている。
「ルキア……」
「何だ?」
 傘の端が僅かに上がって、大きな瞳がちらりと見えた。
「…――ありがとな」
「……ああ」
 いつも通りの声に混じった、いつもと違う響きを、多分コイツは気付いてる。だから、そのまま無言で家路についた。


「――昨夜は随分降っていたが、今日は晴れたな」
「最高気温22度だとよ。気温差激し過ぎるっつーの」
「まあ、春なのだから仕方あるまい」
 昨日の暗さが嘘のように晴れた空。季節を間違えたのかと思う程、青い色が鮮やかだった。
 土曜日。集合場所に指定された駅の方へと向かう道の途中。何となく立ち止まって、大きな樹影を見上げる。
「あー…流石に全部散っちまったな。桜」
「うむ。先週ならば未だ見頃だったのだが……。しかし、浅野が悔しがるな。以前から散々、今日は皆で花見だと騒いでいたというのに」
「まあ、いいんじゃねえの? 啓吾のヤローはどうせ花見をネタに騒ぎたいだけだしな」
 花見が無理でも、多分他に何か見付けるだろう。寧ろアレは、葉桜になっていても花見を決行しそうなテンションだったが。
「……私は別にそれでも構わぬが……しかし、毛虫が居るのではないか?」
「ま、そうだわな」
「毛虫自体はどうでもいいのだが。中にはかぶれる種類も居るというのが問題だな……」
「木に近付かなきゃいいだろ。そもそも、桜の周りで花見すんのは、桜の木自体には良く無い事らしいぞ」
「――では、我々は離れて眺めるだけにしておくか」
「おお」
 陽射しだけなら暑いくらいの天気。空を見上げて、会話が途切れる。
 僅かな沈黙。そして、ふと、俺の腕時計を覗いたルキアが声を上げた。
「おい、一護。早く行かねば遅刻する」
 急ぐぞ。と、そう言って、ルキアの手が俺の手を引いた。
 ――………!
 ほんの僅かな間。強く絡んで、直ぐに外れた手。
 勢い良く駆け出して行く背中を、僅かに遅れて追い掛ける。
 吹く風が、花を落とした枝を揺らして雲の無い空へ散って行く。

 一瞬――そのまま、何処へでも行けそうな気がした。











アニメのEDがイチルキだった…! という事で記念に一作。
動画サイトで一回しか見てませんが、あのEDのイメージで。



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