Down in the Deep


 覚醒して、認識したのは青い空。緩い風に反し、流れるように縦に動く雲。半ば無意識に視線を上向けて、彼女は漸く違和感に気付いた。
 上に、ビルが在る。
「…………!」
 思うと同時に感覚が戻り、意識が焦点を結んだ。
 ――此処は、
 思わず身体を起こそうとして、途端に強い力で引き戻される。
「っ! ……貴、様」
 乱れて身体に纏わり付いただけの死覇装ごと、伸びた腕が絡め取る。己を抱き込めるようにした相手の白銀の髪色に、ルキアは意図して表情を眩ませた。
 情事の後の気だるい感覚が抜け切らない身体を、強いて動かす。色の乏しい建物と、奇妙に平穏な青空。広いように見えて閉ざされた世界には、音が響く事無く融け消えるような印象が有った。何も居ない。それどころか、何も無い、と思えるような。
「離せ」
 言い放つ声も、揺蕩う大気に吸い込まれる。だが、間違い無く聞こえている筈の男からは、無言だけが返った。言葉を紡ぐ事なく、男の唇が落ちて来る。
「っ、止め……!」
 胸元に、首筋に、象牙色の肌を異様な青い舌でなぞって気紛れに吸い付く。
「止めろ! 今日はもう…――」
『じゃあ、何で帰らねえ?』
 腕を付いて半身を起こそうとするルキアを上目遣いに見て、漸く男が口を開いた。黒い眼に在る薄い琥珀の双眸が、紫紺色のそれと絡む。
『用が済んだんなら、帰りゃいいじゃねェか』
 別に、俺は構わねぇぜ?
 言いながら、良く知る相手に似た男は、ルキアの背中へ掌を滑らせる。温度の無い手が触れた箇所だけ、皮膚の奥がじわりと熱を持つような気がして、彼女は顔を背けた。
 眠って、目覚めたと思った。だから此処から消えている筈が、ルキアが居るのは自室のベッドの上では無い。ビルが在って、空が在る。そして空間を構成する全てが重力から離反したかのような奇妙な世界。
 どうしてか彼女が紛れ込んだ場所。名を持たぬ男の棲み処。
「今から戻る。だから退け」
『……厭だね』
 言い捨てて、男の手が明らかな意図を持って動き出す。異なる皮膚の温度差で、じわじわと焼けていきそうな感覚。冷たい筈の温度を寒いと思わなくなった己自身に、ルキアは今更気が付いた。
 ――私は……、
『どうせなら、居ろよ。此処に』
 唐突に、耳元を掠めるように息が掛かった。
『アンタだって、戻りたく無ぇんだろ?』
 問い掛けでは無い声は、答えを待たない。
『知ってるぜ? 見てるからな、俺は』
 一護の中から。
 そう、思い出させる言葉。飽きずに繰り返される事実から、彼女は逃げようも無い。
『アイツを人間と信じさせて、人としての居場所を護ってやる。そう、テメエ自身で仕向けときながら、一護を向こうに戻す度にアンタは此処にやって来る。――そうだろ?』
 ゆるゆると耳朶を噛み、合間に言葉を鼓膜に吹き込む。
『代行証を取り上げて、死神から遠ざけた。それで、今日は何をしてやった? 誰と居る一護を見送った? 学校の奴らか? それとも家の連中か?』
 背けられた顔を強引に上向け、男は至近からルキアを覗いた。
『やりたくも無ぇ事をして、現実から逃避する。なあ……そんな事を繰り返してんのは疲れねぇか?』
「――何が言いたい」
 睨んだ先で、口元が笑みの形に歪んだ。
『そうだな……アンタの躰は、王より俺に慣れてるって話だ』
「貴さ――…っ!」
 白い指先になぞられた身体が反射で跳ねる。咄嗟に、唇を噛んで声を抑えた。
「……っぅ」
『俺が、手に入れたモンを手放すと思うなよ?』
「私、は、貴様のものなどでは…――っ」
『じゃあ、アンタのモノにしてみるか? 俺を』
 意外な言葉に、ほんの一時思考が乱れる。
「…――何、を言って……」
『あァ…まあ、ゆっくり考えりゃいい。向こうに戻ってから、なァ?』
 そう言いながら、手が、唇が、彼女を逃がさぬように追い詰め始める。頭の奥が痺れるような感覚を覚えて、堪らずルキアも男の唇に噛み付いた。そうして、琥珀の虹彩からは目を逸らす。
 例えそれが気休めでも、其処に映る自分を見たくはなかった。

 朝日の眩しさに、薄ぼんやりと目を開ける。徐々に浮かび上がって、完全に覚醒した時には起床時間を一時間も過ぎていた。
 普通に起きる分には問題は無い。だが、朝食を作る遊子を手伝う為、いつも彼女と同じくらい早く起きていたルキアは、目覚ましの音にも気付かなかった自分に愕然とした。
 遊子は何でも無いように笑って、夏梨は珍しいと驚いて、一心は疲れているのではと大げさに心配する。そんな反応に、有り難くて申し訳ないと反省した。
 その程度の、他愛無い事の筈だった。
 だが、
「――…朽木さん、大丈夫?」
「え……」
「授業、終わっちゃったよ?」
 井上に遠慮がちに揺り起こされた場所は、夕暮れの屋上。
「えっと、あたし、さっきまで部活だったんだけどね。教室に戻ったら朽木さんの荷物が残ったままだったから。で、石田君から朽木さんの霊圧が屋上にあるって聞いて」
 探しに来たのだと、説明する言葉をゆっくりと咀嚼し、漸く気付いた。
「っ…私は、眠っていたのか? と言うか、授業は……!」
「あっ、先生には朽木さんは保健室ですって言っといたから大丈夫! それより、疲れてるんじゃないかな? ホラあの、代行証、だっけ。アレを黒崎君が返しちゃってから、死神の仕事はほとんど朽木さんがやってたでしょ?」
「それは……しかし……」
 確かに、午後の最初の授業が始まる直前にルキアの伝令神機が鳴った。物言いたげな一護の視線に気付かぬ振りをして、移動教室へ向かう流れから抜け出し、チャッピーに義骸を任せて死神化したのは覚えている。
「虚を倒して、休憩時間に屋上でチャッピーと入れ替わる筈だったのだが」
 義骸に戻ってからの記憶が、無い。否、戻って、義骸の中から周囲を眺めたような気はする。だが、
「……あれから、眠っていたのか? 私は……」
 何故だかそれを信じられない気分で、ルキアは呟いた。

 良く分からない時間の存在に、ルキアが気付いたのはそれ以降。
 周囲からは、眠っていると認識されている。少なくとも、目を閉じて、力を抜いて、規則的な静かな呼吸をしている姿ではあるらしい。しかし、彼女自身に自覚が無かった。
 眠ったという自覚も無ければ、そもそも、眠いという感覚さえ無い。にも関わらず、唐突なそれがルキアを捉え、次に気付いた時には目覚めていて、合間に流れた時間の長さに驚愕する。その繰り返し。
 長かったり、短かったりもする時の挟間。
 魂魄からも切り離された意識だけが時と時との間に出来た淵に落ち込んで、何処か違う場所へ行ってしまった。そう言うのが一番近い。
 それでも、何処へも行った気がしない時もあれば、慣れてしまった場所に居る時もある。
「…――貴様の仕業か?」
 口にした筈の呟きは、上手く声帯に乗らないまま不明瞭に消えた。相変わらずルキアに絡んで離す気配の無い腕の持ち主は、白い死覇装を肌蹴たままで傍らに居る。
『何か言ったか?』
「別に……」
 口を噤んだルキアに、男は面白く無さそうな顔をする。そのまま無言で、横たわったまま死覇装をかき合せようとした彼女の手を抑え込んだ。
「止めろ。……眠い」
『いいぜ? 寝てろよ』
「貴様は寝ている女を無理に抱くのか? 碌でも無い趣味だな」
『――躰が無理なら意識に刻む。そういうのも良くねえか?』
 意外な科白。
「……下らぬな」
 独占欲かと訊こうとし、それこそ下らぬ問いだと思い直した。
 形ばかりは一護と同じで、何もかもが違う内なる虚。望む答えを得たとして、ルキアにとっては気休め程の意味も無い。
 それでも、
 一護に似た、全くの別人では無い男に、執着されるのは心地良い。
 ――……一番下らぬのは、私だな。
 自嘲して、熱を帯びた微睡みの中、彼女はふと考える。此処に居て、眠いと思い、眠ったと思う。そして、目覚めても自分は此処に居る。
 ――可笑しな話だ。
 段々と、戻り方が分からなくなっている気がした。











リクエストの、「短編の白一護×ルキア(→一護)の続き」です。
R-15にする程の事かという気もしますが、続きも有るので念の為。要は基準が分かりません(待)



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