Down in the Deep- II


 白い天井と、明かりの消えた照明。それらが判る明度。布団の感触。
 ――……部屋か。
 ひとつひとつを確かめて、戻って来れたと安堵しながら、戻って来てしまったと息を吐いた。
 何となく、彼方の余韻を引き摺っている気がする身体。力を抜いたまま、ルキアは首だけ僅かに動かし、
「………っ!」
 思わず、呼吸を止めた。
 壁際の床に蹲る人影。遊子の小物やぬいぐるみが乗る棚が作った陰の中から、視線が彼女に注がれている。憑かれたような。一つのものしか見ていないような。眼差しから始めて魂の端まで絡め取られてしまいそうな、異様な感覚。
 期せずして視線が合った瞬間、不明瞭な影の中で、見えない筈の双眸だけがくっきりと浮かび上がった気がした。
 ――アレ、は……、
 咄嗟に感じたのは、得体の知れないモノへの恐怖と警戒。――だが、
「……ルキア」
 立ち上がり、陰の奥から抜け出したものが、見知った人の形を取った。
「い、ち……ご?」
 ぼんやりと色の判る明るさの中、それはオレンジの髪を僅かに揺らして近付いてくる。一連の動きを見開いた目で見詰めるルキアに、彼は眉間の皺を僅かに増やした。
「何だよ。どうかしたのか?」
「あ、いや……」
 彼女に聞こえたのは、普通過ぎる程に普通の声。見えたのは、いつも通りの彼の態度。一瞬だけ、自身を捉えた感覚とのギャップに、ルキアは逆に動揺する。
 恐らくは、その様子に眉を顰めて、一護はルキアをベッドの傍らから見下ろした。
「オマエ、どっか具合でも悪いのか?」
「……え?」
「昨日結局、晩飯食べなかっただろ。幾ら起こしても起きねえし。よっぽど疲れてんじゃねえかって、親父なんかも心配してたぞ」
「夕御飯……」
 ぼんやりと、窓に目を遣った。眠っていた自分に遠慮したのか、引かれたままになったカーテンの先は明るい。それは、夜の街灯でも夕方の黄色い明かりでも無く、
「朝……?」
「ってか、もうすぐ昼だ」
 今日、学校休みで良かったな。と告げる一護は、改めて見れば私服で、身を起こして見下ろした自分は制服姿。剥ぎ取った掛け布団の下では、プリーツのスカートに、くっきりと不自然な折れ皺が付いてしまっている。
「確か……夕方、学校から家に戻って、それから……」
 学校で、遊びに行こうと誘う友人達の中に一護一人を押し込んで、ルキアだけが先に戻った。丁度、外出か仕事中だった家人には会う事も無く、静かな家の中を何となく歩いた。その後――、
「俺のベッドで勝手に寝てたんだよ、オマエ。覚えてねえのか?」
「ああ、いや……そうだったかな」
「オイ……」
「すまぬ。まだ少し、頭が起きておらぬようだ。シャワーを浴びて来る」
 ベッドから滑り降り、一瞬ふらつくような感覚を耐えて妹達と共有のクローゼットに向かう。背中に感じるのは、一護の視線。
「飯、温めといてやるから。髪乾かして来いよ?」
「ああ」
 科白の中身を聞き流すようにして、のろのろと思考を回転させた。
 ――何なのだろう。
 それ程長く、彼方に居たつもりは無い。そもそも、一護が起きている時にはあの場所には行けないのだと、それまでの経験で知っていた。幾らルキアが長く眠ったとしても、一護が起きていれば意味はない。そして、
 ――何だったのだ? アレは。
 一護だと、何故判らなかったのか。何故、違うモノに見えたのか。それがルキアには解らなかった。先程の、動いて喋っていた一護は普通だった。だからこそ、余計に解らない。
 ――それとも、単に疲れているのか?
 体調が悪いとか、疲れが溜まっているという自覚は無かった。ならば、精神的なものかもしれない。
 ――眠りも、精神を休める事にはなっておらぬからな。
 逃避しているのだと、知っていた。
 死神では無く、戦士でも無い、普通の人間としての生活を取り戻してやる事。一護の為にやっている事は、間違い無く彼の未来の為になる。なのに、彼女はそれを何処かで悔やんでいて、離れて行く一護を見るのが辛かった。
 だから、忘れたかったのだ。そして何より、現実を暴いて放り出す、一護に似たあの男を黙らせたかった。
 灼け付く程の熱を帯びた琥珀色を思い出す。罠に掛かって、絡め取られたのはどちらだろう。
 最初から分かっていたのに、気付けば深みに嵌っている。このまま、他の誰にも気付かれずに沈んで行くのかと、ルキアは他人事のように考えた。
 ――いっそ、それでも良いかもしれぬな……。
 皺になった衣類を、次々と脱衣所の籠の中に放り込む。スカートは相当根気良くアイロンをかけねばならないだろうと考えながら、浴室のドアを開けた。
 最後に使われてから一晩経ってしまった浴室の中には、温度が無い。冷たい床に眉を顰め、シャワーに手を伸ばそうとして、すぐ横の鏡に目が行った。
 鮮やかな、赤。
「っ…――!?」
 思わず胸に手を遣って、自身の身体を見下ろした。ルキアの身体に――胸元を中心に、鏡に写ったのと同じものが在る。
 欝血痕。あの男が舐めて、吸い付いて、飽きずに残した情事の痕が彼女の皮膚に浮いていた。此方側に残っていた筈の、義骸の上に。
「な…ぜ……」
 ――そんな、莫迦な。
 有り得ない。混乱する思考の中で、彼女が真っ先に思ったのはそれだった。何故なら、こんな事はこれまで無かった。第一、あの場所に居る時のルキアは魂魄ですら無い。あれはきっと魂魄では無く、
 ――意識……?
 躰が無理なら、意識に刻む。
 いつか、男は確かにそう言った。
 胸の中心。まるで穴を穿つかのように、執拗に付いた赤い痕。思い返せば彼が必ず印を残していたその場所が、痛々しい程に鮮やかな色を置いている。
 ――まさか、本当に……彼奴が?
 鏡の中を改めて見れば、強張った顔をした自分の上半身には無数にそんな痕が残っていた。私服は、首周りが広く開いていなければ問題無い。制服でも、リボンタイをきっちり留めれば無理無く隠せる。
 そう思う。だが、
 ――もし、見られたら……。
 不特定多数の仮定の筈が、彼女の脳裏に浮かぶのは一人。
「一護……」
 全て、自分の意思でやっている事。にも関わらず、今更のように後悔する己を、ルキアは心の底から嫌悪した。


「――髪、ちゃんと乾かしたか?」
「ああ……それより、皆は?」
「出掛けてる。あ、スカートはそっちに掛けとけよ。後でアイロン出してやるから」
「分かった」
 何度も確かめて、絶対に見えないと確信した筈なのに、思わずワンピースの胸元に目を遣ってしまいそうになる。それで、出来るだけ不自然にならぬように、ルキアは一護の視線に背を向けた。
 ちらりと見えたダイニングのテーブルには、食事の準備が出来ていた。昼前でもあるからだろうが、恐らくは昨日の夕食だった焼き魚や味噌汁が並んでいる。
 食欲が無いのと、作ってくれた遊子に申し訳ないと思うのとで、ルキアはこっそり吐息を零す。だが、意識が逸れた僅かな間に、唯一の気配が後ろに来ていた。
「――なあ。髪、まだ濡れてんじゃねえの?」
「か、乾かしたぞ、ちゃんと。第一、少しくらい濡れていても問題は無――」
 言いながら襟足の辺りに伸ばしたルキアの手首が、唐突に掴まれる。強く握り込む指に驚いて振り向くと、真っ直ぐに見下ろす一護と目が合った。
 温度の無い双眸。意図的な穏やかさと無表情の中間。戸惑うルキアを見詰めながら、やけに静かな声音で一護が訊いた、
「オマエ、誰に付けられたんだ? キスマーク」
「な……っ」
「胸元とか、鎖骨の辺とか。一応見えねえトコだったけど」
「き、貴様、いつ見て…――」
「前から、付けてたよな? 薄かったから、気が付かなかったかもしれねえけど」
「それはっ、別に」
「自分じゃ付けらんねぇだろ? そんなトコ」
 握った右手首を強引に引き寄せ、左の肩を掴む。ルキアを真正面に向き直らせて、一護は紫紺の色を覗き込んだ。
「なあ……誰とヤった?」
「っ、何を莫迦な……それに、こんなものは……!」
 知らぬ、と続けようとして一瞬迷う。何故義骸に有るのかは確かに知らない。だが、同じ場所に跡を付けた相手ならば知っている。
「それは? 何だ?」
「……そのような事は私が訊きたい。とにかく、昨日の朝は無かった。体育の授業の時もだ。そうでなければ何かしら言われている。だから私は」
「じゃあ、気付いてたのは俺だけか」
「――…何、を……」
「何を、だと? ホントに知らなかったのか? 昨日とか今日とかじゃねえ。オマエ、ずっと付けてたんだよ。最近じゃ毎日だ。前の日のが消えたと思ったら別の場所に付いてる。見てりゃ分かるさ。オマエ、俺のTシャツ着たりするし、首にも付いてる事あったしな。有り得ねえだろ。あんな痕付けといて、何でオマエは平気な顔してたんだ?」
 言い募る一護に掴まれた、右手と肩が軋むように痛む。顔を歪めて堪えながら、ルキアは必死で首を振った。
「知らぬ! そのような事……ずっと付いていたなどという事が在る筈無いだろう! 嘘だと思うのなら、他の者に訊いて…――」
「なら、今日のは流石に見えるだろ?」
 ――……!?
 唐突に、ルキアは気付いた。
 つい先程まで制服を着ていて、今は襟ぐりの浅いワンピース。ならば、一護に見えた筈が無い。
「貴様――…何か、やったのか?」
「何か? ヤったのは他の誰かだろうが。まあ、消したのは俺だけどな」
「消し、た?」
「上から、見えねえように消してやった。――こうやって」
 言いながら、持ち上げた細い手首の内側。脈の部分に唇を寄せる。ルキアが軽い痛みを感じた次の瞬間、其処には赤い色が付いていた。
 ――彼奴の、癖……。
 心臓と、脈。鼓動を刻む箇所に、あの男は必ず刻む。最初の時も、其処に痕を残された。
「貴様、昨日は、何を……」
「オマエの直ぐ後に戻った。その後、朝方、部屋に連れてくまで傍に居たぜ? オマエは全然起きなかったけどな」
 表情は、静かだった。しかし、灼け付くような眼差しが、
「一護……貴様……」
 ――何故、貴様が奴を思い出させる……?
「ルキア」
 眇めた一護の双眸が、ルキアの脳裏で『あの男』に重なった。
「何で、俺がオマエを離さなきゃならないんだ?」
「……え」
「何で、俺から逃げるんだ?」
 分かれているようで、不可分のモノ。それが、一護に影響を与えているのか。
 ――それとも、まさか、一護の方が奴に…――。
『逃がさねぇ』
 奇妙に響く声が、聞こえた気がした。
「い、……」
「別に、俺は死神のままで構わねえ。なのに何で、オマエは人間に戻そうとするんだ?」
『俺から、逃げられると思うなよ?』
「貴様は……」
 ――どちらだ?
「ルキア」
 ――私の目の前に居るのは、
「貴様、は……」
『なァ、言っただろ?』
「オマエを」
『手に入れたモンを』
「手放す気は無ぇんだよ。俺は」
 聴覚にか、脳裏にか、重なり合って響く声。
 ルキアは、男の言葉を思い出した。
 意識に、刻む。
 ――あれは、まさか……私だけでは無くて――、
「一護……?」
 偽りの眠り。現実からの逃避。諦めようとする一方で、貪欲に求める。せめぎ合う挟間で、彼女が迷い込んだ先。
 それは、決して見えない筈だった。真実は、誰にも見えてはいなかった。
 只一人を除いては。
 ずっと、彼女に刻んだ痕を見せる事で、其処に棲む男は教えていた。全てでは無く、少しだけ。一護にだけ、分かるように。僅かずつ、狂わせるように。
 そして恐らく――全てを変えるのには、それだけで十分だった。
「ルキア」
 一護の手が、首筋を滑る。
「まだ他に、痕が有るだろ?」
 消させろと、熱を帯びた眼が告げる。
「なあ」
『ルキア』
「俺が、嫌いか?」
『好きだろ? 俺が』
「……………ああ」
 どうしてか、ルキアの目から涙が溢れた。
「――…好きだよ、一護」

 きつく、熱い体温に包まれる。
 それを感じて、ぼんやりと思った。
 こうなる前に、逃げるより先に、本心を告げる事が出来ていたなら――未来は何か、変わっただろうか。











久々に原作っぽいダークな白一護で。
というか、若干設定が分かり難いような…イヤ、毎回そうなのか…?(をい)
リクエスト作品がR指定というのもどうなんだと思いつつ、結局そのまま突っ走りました。
…15歳以下の方だったらどうしよう(…)



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