Lost in Lust


 微睡みを透かして、賑やかな朝のざわめきを聞いた。
 ぱたぱたと忙しい足音。キッチンと繋がったリビングから出て、階段を上がって来た軽い音が、部屋の傍で不意に密やかになる。遠慮がちにドアが開いて、少女の声がそっと掛かった。
「ルキアちゃん? 寝てる……?」
 遊子だ、と声から彼女は気付くが、倦怠感が圧し掛かる身体は思うようにいかない。
「あたし達、学校行って来るから。ゆっくり休んでてね?」
 反応を返さない彼女に、それでも小さく告げてから、音を立てないようにドアが閉まる。足音が遠ざかるのを追い掛けて、ルキアは音と声から分かる階下の様子を頭の中にぼんやりと浮かべた。
 普段ならばその中に居る筈の月曜の朝。だが、ルキアが居るのは自室のベッドの上。
 体調が戻っていないから。という理由で彼女が学校を休む事に、家人の誰も反対しなかった。ここ最近、疲れているのか様子がおかしい、と周囲に見えていた事と、とかく無理をしがちな生真面目な性格を知っているからだろう。
 何より、
「……ルキア」
 彼女がそうする事を、彼が望んだ。
「寝てんのか?」
 音も無く部屋に滑り込み、瞼を閉じたルキアの前髪を漉く。声を聞かずとも、その手の感触だけで相手を分かってしまいそうな事に、彼女は僅かに眉を顰めた。嫌悪感を向けるのは、自分自身。
「なあ……?」
「――…いち、ご……」
 強いて目を開け、不明瞭な焦点をオレンジの髪に合わせる。制服姿の彼が、ルキアを見下ろしていた。
「起こしたか?」
「いや……」
「学校には、親父が連絡するってさ。あと……頼んどいたから、死神の仕事とか気にせずに休んどけ」
 繰り返し声を出すのが億劫で、頷く事で答えを返す。
 一護は、日曜から、否、土曜から何かにつけては彼女の傍に居た。父親や妹達にからかわれ、不機嫌そうにはしても離れる事が無い。
 恐らくは微笑ましく見えているだろうそれらが――深く落ちた濃い影の存在を周囲から完全に隠していた。
 黒髪を撫でていた手が、前触れも無く頬の上を滑って止まる。
 彼女を見つめる茶色の虹彩に異なる色が浮かんで、覆い被さるように影が近付いた。
「ルキア……」
 唇が触れる瞬間、囁かれた名前。微かな痛みと共にそれを聞き、目を閉じる。己に向けられる全てを拒否する資格も、拒み通せる自信も彼女には無かった。
 身の程知らずに望んだ結果がこれだとすれば、全ての咎は己に在る。
「今日は、早目に帰るから」
「……ああ」
 だからせめて、濁ってしまった欲望が、これ以上彼を蝕まぬように。
「ちゃんと、待ってろよ?」
「大丈夫だ……」
 繰り返し覗く一護の不安を、ルキアは飽きずに取り払う。見上げる先で僅かに浮かんだ明るい表情に、何より彼女が安堵した。
 閉じたドア。下りて行く足音。賑やかな遣り取りと、玄関の開閉音。医院の診療準備を始める気配がある一方で、家の中には無音が響く。
 ――…静かだな……。
 そう思って――彼女の意識は速やかに落ちた。

    ※

 ホームルームが終わった途端、教室は賑やかになる。部活へ急ぐ者。友人と集まってその後の予定を話し合う者。のんびりと帰り支度をする者。
 その中で、一護は誰にも自分へ話し掛ける間を与えずに、教室を速やかに後にした。頭にあるのは、早く家へ帰る事。だが、
「黒崎」
「……石田?」
 廊下の途中で呼び止められ、その呼び止めた相手の意外さに、彼は怪訝な顔をした。
「何だよ、一体」
「今朝、朽木さんは体調不良で休みだって聞いたけど」
「それがどうかしたか? つーか、休みなのは教室で見てりゃ分かるだろ。それに、虚退治は浦原さんにも頼んどいたし、そもそも担当の死神だかが居るんだから問題無ぇよ」
「別に。そういう意味じゃない」
「だったら何だ」
「……黒崎。朽木さんは…――」
「黒崎くん!」
 唐突に廊下に響いた声。振り向くと、栗色の髪のクラスメートが走って来る所だった。
「井上さん?」
「え、あ、石田君……!」
 柱の死角になって見えなかったのか、声を掛けられて初めて、一護が立ち止まっている理由を知って彼女は慌てる。
「どうした、井上?」
「あっ、いいよ! 石田君の用事が終わってからで!」
「僕は別に構わないよ」
「何か用か?」
「えっと……あのね、黒崎君。今日、朽木さんのお見舞い行ってもいいかな?」
「見舞い……?」
「今日、ホントは放課後に皆で駅前のケーキ屋さんの新作ケーキ食べに行く予定だったんだけど、朽木さんお休みだから。だから、ケーキは無理でもクッキーとか買って行ってあげたいなぁって。あ、勿論、迷惑にならないようにするから――」
「悪ぃけど」
 答えは、井上の言葉を打ち消したのかと思うような強さで返った。
 何処か彼らしくない調子に、思わず驚いた表情を見せた井上と、ほんの僅かに眉を顰めた石田。
 だが一瞬後には、ぶっきらぼうだが気遣うような、いつもの彼の様子に戻っていた。
「遠慮してくれねえか? 今日も、アイツが大丈夫だって学校来ようとしたのを無理やり休ませたんだ。井上達が来ると、多分、気を遣って無理しちまう」
「あ…そ、そっか! そうだよね! 朽木さんって頑張り屋さんだから、体調悪くても仕事とか勉強頑張ってたんだもんね。ゴメンね、気が付かなくって」
「イヤ、折角言ってくれたのに、悪いな」
「ううん! 大した事じゃないよ! 朽木さんに、ゆっくり休んで、早く元気になってねって伝えといて」
「ああ……じゃあな」
 話を切り上げ、一護は二人にそれ以上の関心を払う事無く足早に立ち去る。何となく並んで見送る形になって、ふと井上は気が付いた。
「あれ? そう言えば石田君、黒崎君に話あったんじゃ……」
「いや、いいんだ」
 彼が素直に答えるとは思えないしね。
 呟く声に、井上は首を傾げる。
「何か気になる事があるの? あ、前に黒崎君の霊圧が不安定だって言ってたけど……。ホラ、あたしだと、もう、そういうのは殆ど分からなくて。この間も、石田君に教えて貰わなかったら、朽木さんが屋上に居るの分からないくらいだったし」
「僕も、それが気になってたんだけどね」
「え、じゃあ……」
「安定してるよ――と言うより、落ち付いてしまってる。妙にね。静か過ぎるくらいだ」
 予想とは真逆の答えに驚く彼女から視線を外し、石田は一護の去った方向を見た。
「霊圧が不安定だったり、乱れるならまだ分かる。性格的な問題だけどね」
「でも、黒崎君は前も不安定なのとそうじゃないのを繰り返してたし……」
「そうだけど、彼の場合、いきなり霊圧が安定するのには共通の要因が有った筈だろう?」
「要因……」
 復唱するが、考える間も無く、井上の脳裏にも一人の少女の姿が浮かぶ。
「だから、さっきも彼に朽木さんの事を訊こうとしたんだが……。でも、井上さんにでさえあの様子だから、僕なんかじゃ何も聞き出せなかっただろうね」
「黒崎君と朽木さんに、何かあったって事?」
「……いや」
 否定とも肯定ともつかない調子で応じ、
「と言うより、何かあるなら悪い方向の事だろうと思ってたからね、僕は」
 霊圧が乱れたんなら、わざわざ本人に訊こうとは思わないよ。周りに迷惑が掛かるレベルになるならともかく。
 冷静な口調。だが井上は、聞いた言葉の裏にあるものに思い到った。
「――でも、じゃあ…石田君は、黒崎君の霊圧が安定した理由を、良い事だとも思ってない……って事?」
 予想外な言葉と、心配そうな井上の表情。はっとして、石田は彼女を見直した。
「いや、これ以上、推測だけで何か言うのは止めておこう」
「だけど……」
「井上さん。君から見て、今日の黒崎は――いつも通り、だったんじゃないかい?」
「いつも通りって言うか…朽木さんが休みだから、それはずっと気にしてたみたいだったけど」
「だったら、気にしなくても良いよ。僕の思い違いかもしれないから」
 それはつまり、思い違いであって欲しい、という言葉だった。

    ※

「あ、お帰りなさい。お兄ちゃん」
「……ルキアは?」
「あのさ。帰って来て、他に言う事無いワケ、一兄?」
「ただいまって言っただろうが、さっき」
 他に何を言えってんだよ。
「べっつにー?」
「オイ……」
「ルキアちゃんなら部屋だよ?」
 不機嫌な兄を宥めるように、遊子がキッチンエリアから顔を出した。
「あのね、結局起きなかったみたいなの。用意してたお粥もそのままだったし……。さっき覗いた時も寝てたから、お兄ちゃんも上では静かにしてね?」
「分かった」
 答えて、リビングのドアを閉める。
 ゆっくりと階段を上りながら、その先の気配を無意識に探った。
 代行証を返還した時、同時に霊力を抑える処置をされた。元から大して分かっていた訳では無いが、それでも僅かずつ曖昧になっていく感覚。虚と遭遇する事が減ると同時に、戦いから遠ざかっていくのを実感する。
 まだ死神が見えるのか――を、確かめるのが恐ろしくて、繰り返し授業を抜け出すルキアを追えなかった日々。
 ――……けど、
 妹達の部屋。ドアを押し開け、薄く夕日が差し込む室内を見る。
 ベッドの上で、瞼を閉じて、静かに呼吸を繰り返すルキア。家を出た時と同じように、変わらずその場で待っている彼女の髪をさらりと撫でて、彼は静かに笑った。
 ――ルキアはもう、何処にも行かない。











こんな感じで懲りずに続きます。


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