Lost in Lust- IV


 ゆっくりと、妙に規則的な足音が扉の向こうから響く。授業中独特の静けさが漂う校舎内で、その場所は一際静かだった。
 足音が途切れ、彼が見守る先で、やや重たげな扉が押し開けられる。その場所から見えるのは恐らく、空を二分する青空と薄曇り。眩しい程ではない明るさと、フェンスの他に遮蔽物の無い開放感が広がる屋上。数歩進んで彼の視界に現れた人影は、両腕で抱えたものをコンクリートの上に下ろした。
 目を閉じて、四肢の力を抜いた華奢な身体。抱いて上って来たそれを非常口の壁に寄り掛からせるのは良く知る相手。その横で、扉が緩慢な動作で閉まっていく。妙に響く音を立てて扉が閉まるのと、存在を知らせるように彼が声を掛けたのは同時だった。
「黒崎」
「……何だ。テメーがサボリってのは珍しいな。どういう風の吹き回しだよ? 石田」
 驚く様子は無い。只、少しばかり鬱陶しそうに返す。大して親密という訳では無い相手に対しての、いつも通り反応。――だが、それに得体の知れなさを感じたのは、石田にとっては初めての事だった。
 戸惑いを隠して、冷静に問う。
「君は一体、それをどうするつもりだ?」
「それ、ってのは」
「そこに在る、朽木さんの義骸だよ」
 言われて、一護はちらりと視線を傍らに落とす。今しがた彼が連れて来た制服姿のルキアが、壁に背を預ける形で座っていた。
「今、朽木さんは死神化してる。義骸にはチャッピーが入っていた筈だろう?」
「そーだな。で、それがどうかしたのかよ?」
 平然と問い返す彼に、石田は僅かに眉を顰めた。
「真面目に答えろ」
「下で見付けたから持って来たんだよ。ルキアが戻って来た時、近くに無ぇと困るだろ」
「それなら、質問の仕方を変えようか」
 おもむろに視線を寄越した一護の方へ、石田は一歩近付いた。
「君は、朽木さんに何をしたんだ?」
 ざわりと、妙に湿り気を帯びた風が吹き抜ける。
「どういう意味だか分かんねえな。つーか、回りくどい会話は止めろよ。面倒臭ぇ」
「本当に分からないのか?」
「だから面倒な言い回しは止めろっつってんだろ。言いたい事があんならハッキリ言いやが――」
「朽木さんに纏わり付いてる霊圧は君のものか?」
 断ち切るような石田の言葉に、沈黙が落ちた。
「……答えないのなら、肯定という意味に取るけど」
「………」
 無言が、時間の流れを緩慢にさせる。
「答えろ、黒崎。君は…――」
 だが、言い募ろうとした瞬間――前触れ無く、響くような霊圧が遠方に現れた。
「なっ…虚……!?」
 突風のように吹き付けた霊圧の感覚。久々とも言える大きな気配を辿って、石田は絶句する。一体や二体では無い。
「何だ、この数は!?」
 大量の虚に襲われた事は、そう遠くない過去に何度もある。だが、戦いが終わってこの方、複数の虚が同時に出現する事は稀だった。そもそも、現世に現われて魂を喰らうような通常の虚は、基本的に群れたりはしない。
「くそ……っ!」
 だが、異常を察して身を翻した彼とは対照的に、一護は無表情で立っていた。一旦立ち止まり、僅かに逡巡した石田も、結局、再び声を掛ける事無く屋上を後にする。勢い良く開け放たれた扉の向こうで階段を駆け降りる音が響き、彼が自らに課した役目を果たしに行ったと知れた。
 それが出来るだけの霊力と能力を、滅却師である彼は持っている。
 対する己を顧みて、忌々しいとすら思えた事実。今もそうである筈が――しかし、一護は妙に静かな表情でフェンスの向こうに目を遣った。微かに笑みを浮かべる瞳の奥で、琥珀色の影が揺れる。

    ※

 衝撃も、音も、大きくは無かった。
 吹き荒れる霊圧も、目に映る景色すらも何処か遠い。千切れ飛び、また砕け散るのは髑髏を模した白い仮面。
「………あ」
 思考が自らの目にする事実と噛み合わず、ルキアは茫然と声を落とした。
 動かない。否、動けなかったのは間違い無く彼女だった。そして今も、彼女は動いていない。軽過ぎる身体。力の入れ方が分からぬまま、その場に只座っている。だが、眼前で成す術無く消されていくのは虚の方。
 そう、絡めて引き千切られ、斬り裂かれ、押し砕かれて、逃れる間もなく消されていく。――彼女を取り巻く霊圧に。
 それは、酷く覚えの有る感覚だった。何処か赤を思わせる、
 ――…黒い、霊圧。
「一護…――?」
 呟く言葉に応えは無い。
 曖昧な現実感。何かに引かれるように、ふわりと浮かぶように立ち上がる。
 立ち上った炎が納まるように、収束していく霊圧。彼女の中に融けていく黒い色。唯一の場所を目指して舞い上がった彼女の後ろで、恐らくは悲鳴であろう声を上げ、最後の虚が消滅した。
 それすらも、ルキアにとっては現実から遥かに遠い。


 夢の間際を揺蕩うように、ぼんやりと流れた束の間。ふと気が付くと、彼女は学校の屋上に立っていた。
「ルキア」
 掛けられた声に、のろのろと視線を上げる。
「一護……」
 授業中の筈なのに、何故此処に居るのか。一体何をしているのか。そんな問いを発するよりも先に、近付いてきた彼の腕が伸ばされる。
「ルキア」
 再び名を呼ばれた時には、一護の腕の中に居た。
 頼りなく、曖昧だった彼女の感覚に、急速に実感が戻って来る。思わず、自らを抱き締める慣れた気配へ縋り付いた。
「いち…ご……」
「知ってる」
 何から言えば良いのかを迷うルキア。それを制して、訊くより先に答えが返る。
「え……?」
「けど、オマエは大丈夫だ」
「一護。何を…――」
「虚にも、他のヤツにも、絶対にオマエを傷付けさせない」
 掌が、ルキアの頬を滑った。
「――俺が、護るから」
 護る。
 何度も聞いた科白。誰にでも言う気かと呆れるほど、彼女も繰り返し聞いた言葉。だがそれを、彼がこんな憑かれたような瞳で告げた事があっただろうか。
「一護?」
 戸惑う紫紺の双眸を、僅かに笑むようにして一護は見下ろす。
「なあ、ルキア。見ただろ? 虚が何体居ても、どんなに強くても、オマエに触れたり出来ねぇんだ。近付く事もさせねぇ。全部俺が消してやる」
 だから大丈夫だと、繰り返す。
 酷く優しく紡がれる言葉。脳に注ぎ込まれる意味を追い掛けて、ルキアはふと瞬いた。
「では……いや…だが、貴様は」
 一護は、霊力を封じられた筈。魂魄に負担をかけぬよう、段階を置いて。溢れていたものが引いて行くように、徐々に表から消えていくように。
 他でも無い彼女が、それを確かめている。なのに、
「何故――貴様の、力は……?」
「ルキア。オマエも知ってんだろ」
 さらりと、指先が黒髪を弄んだ。
「俺はもう、死神じゃねぇ」
「っ、それは……っ」
「大した霊力も無ぇし、斬魄刀も無ぇから、ルキアと一緒に戦えない」
 無感動に告げられる事実も、確かにルキアは知っている。――しかし、
「けど俺は、オマエを護れるんだ」
 相容れない、もう一つの事実。
「オマエを護るのは、俺だ」
 身を屈めた彼の吐息が、耳許に掛かる。
「……だからオマエは、俺の傍に居てくれるだろ?」
 ――……ッ、
 響く声に、一瞬、気が遠くなった気がした。
 膝から崩れそうになったルキアを抱え上げ、一護はフェンスに背を向ける。壊れ物を扱うように下ろす先には、一つの身体。
 器に収まるように、肉体の中に沈んで行く霊体。見守る一護の視線の先で、深く息を吐いてから、彼女は義骸の瞼を押し上げた。
「一護……」
「少し顔色悪いな。疲れたか?」
「いや…平気だ」
 答え、差し出された手を無意識に取って立ち上がる。そのまま腕を軽く引かれ、たたらを踏んだ所を抱き止められた。
 屋上だと、妙に遠く聞こえるチャイムの音。今更のように、校舎内のざわめきを聴覚が拾う。
「一護。次の授業は?」
「……違う」
「え?」
「アレ、本鈴だ。もう次の授業始まってる」
「なっ…では早く……ッ」
「いいだろ別に。次の授業、越智さんだし」
 ウルセー事言わねぇしな、あの人。
 言いながら、一護は離れようとした腕を更に引く。
「ちょっ、いち――」
「ルキア」
「――……っ!」
 非難しようと上げた視線が予想外に熱を帯びた瞳とぶつかって、掛けられた声が含んだ色に動揺する。継ぐべき言葉を見失った時点で、それは恐らく彼女の敗け。
 静けさが、やけに耳に付く。
 黒髪を撫で下ろした手。頬を滑った親指が、彼女の唇をふと掠めた。淡紅色の形をなぞるように、ゆっくりと触れる。
「――…何処にも行くなよ? ルキア……」
 薄く開けた瞼の隙間から、茶色の双眸が彼女のそれを絡め取る。
 ゆっくりと近付く色に――ルキアは堪らず両目を閉じた。











…もしかして、ここで切ったらR-15の意味が無いですか?(…)


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