Lost in Lust- VI


 朝。濃い緑の葉陰の合間から朝の光が射す。湿気と温い熱を含んだ風。
 賑やかな通学路。生徒を教室へと急かすチャイム。
「おはよう、一護。朽木さんも」
「おう」
「おはようございます」
 駆け込んでくるクラスメート。交わされる挨拶。平和そのものの姿で日々が訪れる。
「朽木さん!」
「井上」
「あ、あのね……ちょっといいかな!?」
 教室のドアの所で入れ違いのように出て行こうとする井上に引き止められ、ルキアは小首を傾げた。
「それは構わぬが、もう予鈴が鳴っておるぞ?」
「えっと、あの……すぐ、だから!」
「――ルキア」
 不意に、ルキアの手から鞄が取り上げられる。見上げた瞳に映ったのは、オレンジ色。
「一護……」
「早く終わらせて戻れよ。あんま遅いと遅刻扱いになんぞ」
 ホラ、と促されて、
「あ、じゃ……ちょっと行ってきます!」
 戸惑ったように笑ってから、井上と、彼女に手を引かれたルキアの二人が廊下の端の方へと小走りで去っていく。慌ただしいわねぇ、と、天然の親友を笑って見送る幼馴染の声を耳で拾いながら、一護は視線を転じた。
 ふざけ合ったり、笑ったり、話したりと賑やかな教室。その中で、普段から冷静な滅却師のクラスメートは、席に着いたまま文庫本を読んでいる。我関せずといった様子は、少なくとも普段通りに見えた。
「……………」
 日常を穏やかに包む、平凡さと平穏さ。
 伝令神機は鳴らない。
 夏に近付いていく空は、奇妙に静けさを保っていた。

     ※

「――あの、ゴメンね。イキナリで」
「気にするな。以前、約束していたのに行けなかったのは私の所為なのだし」
「え、そ、そんな事無いよ! あれは体調悪かったんだし、休まなきゃ!」
「しかし、私と二人で良いのか? 有沢や他の者も……」
「あ、えっと……たつきちゃん達は部活だったりで用事があるし、朽木さんと二人だけって中々無いでしょ?」
 だから! と力を込める、栗色の髪のクラスメート。
 放課後。制服姿で鞄を持って、少しだけ遠出。霊術院時代にも、ましてや護挺隊に入隊してからも殆ど縁の無かった普通の事。それが当たり前に出来てしまう不思議に、ルキアは微笑む。
「それで、何処へ行くのだ?」
「えっとね、ショッピングモールなんだけど、可愛い小物が沢山売ってるお店ができたの。あ、あと、カフェもあるんだよ! フルーツのトッピングがすっごく綺麗でね――……」
 矢継ぎ早に説明していく彼女に、ルキアは落ち付けと小さく笑う。それに照れたような笑顔が返って、二人の間は吹く風もふわりと柔らかい。
「楽しみだ」
「うん!」
 任せといて! と意気込む彼女が、ちらりと気遣わしげに鞄の中の携帯電話に目を遣ったのには、ルキアは気付かなかった。


 ――同時刻。
「おや? 珍しいヒトがいらっしゃったモンっスねぇ」
 店先に応対に出た店主は、そこに居た客の姿を帽子の影から興味深げに見やった。
 目の前には、何だかんだで見慣れてしまった制服姿。だが、それを着る人間と縁が無い訳では無いにしろ、親しいと称するには語弊がある。特に彼とは。
「何か、ウチに御用ですかね? 石田サン」
 相変わらずのように見える商店主に向かって、訪問者は短く言った。
「聞きたい事があります。黒崎と――朽木さんの事について」
「黒崎サンと、朽木サンっスか? そりゃまた随分と……」
 ――今更な。
 突き放したようにも聞こえる。だが、ある意味では完全な事実だった。一護の力を封じる事に決まった時点で、靜霊挺の大部分の者の中では、既に彼の存在は過去に分類されている。必然的に、あの二人の関係性も。
 だからこそ、石田も特に反論はしなかった。――只、
「今更かどうかは、話を聞いてから判断して貰えますか?」
「……そっスか。そんじゃあ、奥へどうぞ」
 いつに無く鋭い雰囲気に、浦原はゆっくりと頷いた。
 店の奥。卓袱台と座布団。熱い番茶の注がれた湯呑み。レトロ、と洒落て言い換えるには少し野暮ったい室内で、石田はやや神経質に眼鏡を押し上げる。
 目の前には一介の商店主のフリをした元十二番隊隊長と、黒猫のフリをしている元隠密機動総司令官。
「で、アタシらへのご用件は?」
「その前に、まずは、この街の異変について知っている事を教えて下さい」
「――さて、異変、とおっしゃいますと」
 湯呑みの湯気の向こう側で空とぼける店主を、石田は眼鏡の奥から睨んだ。
「貴方達も気付いてる筈だ。虚が消えてる。ここ一週間は、気配が全く感じられない」
 断言。直截な言い方をする彼に、浦原は一瞬だけ意外そうな視線を投げる。傍らで、黒い尻尾がひょいと動いた。
「はあ……ですが、それだけじゃあ別に異変とは……」
「空座以外では出現してます。確かに頻度は少ないけど、重霊地の空座町が異常だったとすれば通常の範囲内だ」
「ですから、それがアナタの考え過ぎだという可能性は――……って、まあ、その可能性が残っていると考えていれば、そもそもアナタは此処にはいらっしゃいませんか」
「ええ。尤も、あなた方や尸魂界が何かをした所為でこうなっている可能性も有る訳ですけどね」
 冷めた声音は駆け引きだ。気付いて、浦原は湯呑みを置いて軽く扇子を開いた。
「石田サ…――」
「まあ、大方はお主の察しておる通りじゃの、石田。慎重な言い方をすれば、空座町での虚の出現率が極端に低下しておる。大雑把に言えば、影も形も無い。しかも儂らの知る限り、尸魂界はこの街に対しても虚に対しても何もしておらん。――つまり、原因は他に在るという訳じゃ」
 二対の視線が、三つ目の座布団――正確には、その上に乗った黒猫に集まる。
「夜一サン」
「喜助。此処でつまらぬ探り合いをしておった処で意味は無い。虚が現世に少ないのは良い事じゃが、それが全く居らぬ、となれば誰がどう見たとて不自然じゃからの」
「尸魂界はこの事実を把握しているんですか?」
「いや。不思議な事に、未だ報告は行っておらぬようじゃの。……空座町担当の死神は、実質的に朽木ルキアの筈じゃが」
 意味有り気に答え、全く体重を感じさせない動きで卓袱台の上に猫姿の夜一が乗る。
「処で、逆に好奇心から訊くのじゃが、お主はこの事態をどう見ておる? 石田」
「……虚自体が減ってる訳じゃない、と思います。人が居る以上、そんな事は残念ながら有り得ませんから」
「ふむ。まあ、道理じゃな」
 人はいつか死ぬものだ。そして此方の何かに未練を残した人間の魂魄は、容易に現世に絡め取られる。本人が意図したにしろ、しなかったにしろ。
「空座町は重霊地。しかも霊力の高い人間が多いときてる。今はある程度落ち着いているけど、虚が引き寄せられ易い場所と言っても良い筈です。なのに――居ない」
 ゆっくりと、石田は慎重に考えを纏めるように息を継ぐ。
「普通に考えれば、虚がこの街に入れない、または居られない何らかの理由がある。もしくは敢えて虚がこの街を避けている。それとも、既に消されたかのどれかです」
「――で、お主はどれじゃと思う?」
「どれも、ですよ」
「何やらややこしいの」
「いえ、順を追えば単純です。最初に、この街に居る虚が全て消された。――いつかはご存知でしょう? 虚の姿が完全に消える前、極端に出現数が跳ね上がった時があった」
「……一週間と、少しばかり前っスね」
「その後、虚がこの街に近付く訳にはいかない、ましてや居る訳にはいかない理由が出来たんです。暫くの間は何度も虚の霊圧を感じましたが、何故かすぐに気配が消える。そして最終的には、近付く気配さえ感じなくなった」
 ぱちん、と卓袱台の向こうで扇子が鳴り、それが再びゆっくりと開いていく音がする。
「虚には大きく分けて二つの傾向があります。特定の人間を襲う虚と、無作為に人間を襲う虚。この場合、特定の人間を襲う虚には、ある意味で自由がありません。狙うべき人間――自分が最も求める人間が居る場所に現れる他、選択肢は無い。それは意図と言うより本能だ」
 一つ一つを、確かめるように継いでいく。
「ですが、もう一方。無作為に人間を襲う虚は、逆に場所や人に拘る理由は全く無い。この地の霊力の高さは虚を引き寄せはしますが、その点に拘泥しなければ避ける事は容易です」
 つまり、
「虚が全く居ないとすれば、必然的にそのどちらもが空座町に居ないという事になります」
「どのような理由からじゃ?」
「――…恐れているから、ではないでしょうか?」
「虚は人や死神を恐れたりはせぬがの」
「ええ。僕もそう思いますよ」
 視線を、目前の一人と一匹に交互に投げる。
「先の破面との戦いで実感しました。彼らは滅却師も死神も、ましてや人も恐れない。それでも例外が有ります。虚は本能そのもの。だからこそ、自らよりも圧倒的に強いモノを恐れる。特に、虚に根源的な恐怖を与える事が出来るのは――…」
「――虚」
「……!?」
 唐突に、飛び込んだ声。
「そう言いてぇんだろ?」
「――…く、黒崎……ッ」
 無造作に開けられた引き戸。そこに軽く手を掛けた人影。見慣れた高校の制服と、オレンジの髪。
「オモテ開いてたぜ、浦原さん。店に人居ないってのに、随分無用心なんじゃねえの?」
「これはまた、お久し振りな上に随分唐突なお越しですねぇ。いつの間にいらっしゃったんです? 黒崎サン」
「いつでもいいだろ。別に。それとも、聞かれちゃマズイ話でもしてたのか?」
「まあ、一般的向けな話では無いッスねえ」
「そりゃ悪かったな」
 上っ面の笑顔に形式だけの言葉を返す。そして一護は再び、視線を部屋の奥に向けた。
「よう……奇遇だな、石田」
「……そのようだね。朽木さんはどうしたんだい? 黒崎」
 咄嗟の動揺を消した、さり気なさを装った科白。それに、普段と同じ口調と――異常なまでに冷ややかな瞳が応じる。
「――って事は、やっぱ井上もてめえとグルか」
「何を――…」
 言い掛けた瞬間、言葉の続きを携帯の着信音が遮った。











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