For My Eyes Only
梅雨晴れ。寧ろ、単に梅雨が明けていないだけの夏の日、とも言うべき気温と陽射しが、明け方まで雨に湿っていた地面を焼いていた。
妙に甘い香りは、ツツジと並んだ低い植え込みの梔子の花。半分は茶色に萎れ、半分は満開の濡れたような白。一重では無く、八重に近い花弁が濃い緑の上に点々と在る。
その花を背にし、陽射しの角度の所為で木陰から締め出されたベンチの上に、彼は座っていた。
背もたれの無いベンチ。木製の座面も、熱を含んで快適とは言い難い。
耳に入るのは、平和な喧騒。
がさり、と、背後で枝葉が擦れた。振り向く間もなく、細い指が後ろからするりと首に回る。七月と言うのに何故か温度の低い掌。柔らかく頸動脈に力を込める悪戯な手を、彼は無言で捕まえた。
「――何やってんだ? ルキア」
驚いた様子も無く、寧ろ僅かに笑んでみせるのは彼の待ち人。
「いや、珍しく貴様が隙だらけだったものだから、少し悪戯をな」
「だからって首絞めてどうすんだよ。悪戯すんなら別の事しろ」
「ほう、例えば?」
「そうだな。例えば…――」
見上げるように振り向いたまま、見下ろす彼女を引き寄せる。
珍しくグロスを塗った艶やかな唇をわざと避け、太陽に照らされた肌に柔らかく噛み付く。普段と違い、一つに纏めたのを無造作に捩って後頭部で止められた黒い髪。露わになった白い首筋に赤い痕が鮮やかに付いた。
「こーいう事とか」
「……それではいつもと変わらぬではないか」
「そうか?」
「ああ、『貴様』のいつもとな」
見透かす笑み。ややあって、彼は小さく舌打ちした。
「何だ。バレてんのか」
「当たり前だろう。顔が違うのだ、貴様は」
「同じじゃねぇか」
「いいや、違うな。表情も空気もまるで違う。鏡を見ぬのか? 分かり易過ぎて驚くぞ」
言いながら、ひょいとベンチに乗って、彼の前へと飛び降りる。軽やかな仕草に、ふわりと翻るワンピースの裾。
次いで、控え目な風に揺れた自身のオレンジの前髪が彼の視界に入った。
色は同じ。形も同じ。――それでも分かると彼女は言う。多分、後ろから手を伸ばす前に知っていた。
――解んねぇな……。
胸中で呟き、
「怒らねぇのか?」
前触れ無く、口に出して尋ねた。彼女が振り向く。
「怒る? 何をだ」
「『アイツ』じゃねぇんだぜ。此処に居んのは」
「……怒って欲しいのか?」
「そうじゃねぇけど、此処で約束してたのは『アイツ』だろ」
「それはそうだが。まあ、次に埋め合わせをさせれば良い」
「って事は、俺を追い返さねぇのか」
「そんな事はせぬよ」
答えて、目の前に立った彼女は手を伸ばす。華奢な両手が彼の顔を挟み込み、彼の眼前に紫紺の色が広がって、その奥に、オレンジの髪と茶色の目をした少年の姿が映った。
「貴様は、一護の魂の一部だろう」
内なる虚。魂の表側にまで出て来た異質な存在に、相変わらず恐れ気も無くルキアは触れる。
「だから俺でも良いって事か?」
「貴様が一護の一部だからこそ、だ」
「違うのか」
「私にとってはな」
何処か謎めいた微笑は、少女然とした姿にアンバランスな影を付ける。
それを見るたび、神秘的と言うより悪魔的だという印象を強くした。『一護』がどう思っているかは知らないが。
ぼんやりと考えていると、ルキアの身体が僅かに離れる。彼が引き寄せようと動く前に再び近付き、今度は正面から首の後ろに両手が回った。
薄らと汗が染み出した首に、冷たい感触が落ちて来る。思わず、指でそれを確かめた。
「……何だ、コレ?」
「印だ」
「シルシ?」
細いチェーンを伝った先に、角の丸い長方形。持ち上げれば、アルファベットが刻印された金属製のプレート。
「ドッグタグか……」
「ああ、現世には変わった装飾品があるな。本来は軍の認識票だと言うが。ちなみにそれは、プレートに彫り込む文字も字体も好きに選べたぞ」
告げる声は、随分と愉しげだ。理由が有ると何となく感じて、彼は彫られた文字に目を落とした。
「 ICHIGO KUROSAKI. BLOOD TYPE A. JUL 15. 」
そこまで読んで、プレートの面を裏返す。
「……飾り文字過ぎて読めねぇ」
「其処は読めなくとも良い」
「ああ……最後のイニシャルは分かる」
R.K.
Rukia Kuchiki
彼女の名前。
「――で、これはどういう意味だ?」
「何だ。鈍い奴だな」
それともわざとか? と、眉を顰める彼女に笑みを返す。
「イヤ……単に言わせてぇだけ」
確信犯な言葉。途端、ドッグタグのプレートがチェーンごと引かれた。
乱暴に引き寄せられた耳に、低く潜めた声が吹き込んで来る。
「…………」
一瞬置いて笑みの形に口角を上げた彼を、大きな瞳が覗き込んだ。
「だから、それは外すなよ? 付けておかねば意味が無いからな」
「つーか、『アイツ』には言わねぇのか?」
「さて、どうするかな」
あからさまに面白がっているのは、どちらにしても愉しいからだろう。一護がこれを、意味を知った上で付けているのも、知らずに付けているのも。
そう――ルキアから贈られた物を、一護が外す訳が無い。
チェーンに通して首から下げてまで、一護から贈られたシルバーの指輪を肌から離さないルキアと同じように。
「……ロクな趣味してねぇな」
「貴様が言うな」
呆れたように、彼女は自分の後頭部に両手を回す。髪留めが外れて、ぱらぱらと落ちた黒髪が首筋を隠した。
「下ろすのかよ。髪」
「たわけ。キスマークを堂々と人目に晒して歩く訳にはいかぬわ」
「自分じゃ気にしてねぇだろ」
「生憎、世間に向けたイメージというものが有るのでな」
涼しい顔で言ってのけ、行くぞ、と彼女は身を翻す。
それを言葉の代わりに手で引き留めて、彼は些か強引に腕の中に閉じ込めた。
「――何なのだ。突然」
膝の上から見上げる双眸は、科白の割に挑戦的な光を帯びる。にやりと笑んで、それに乗った。
「忘れてたからな。こっちを」
告げて、濡れた色の唇を強引に塞いだ。
※
「…――なあ、ルキア。コレ何だ?」
夕刻。首から下がった見覚えの無いモノを、軽く弄りながら一護が訊いた。ベッドに転がり、雑誌の頁を捲っていたルキアが、ああ、と気の無い返事をする。
「昼間貴様に遣った物だ。――聞いておらぬのか? 彼奴から」
「イヤ、何も」
「そうか。……まあ、取り敢えずはそういう事だ。外すなよ? 付けておけば、事故に遭った時にも身元と血液型が判って便利だからな」
「オマエ、事故って…縁起でも無いコト言うな」
「何だ。良いではないか。ついでに装飾品にもなるのだから一石二鳥だぞ」
「……そーかよ。まあ、どっちでもいいけど」
シャツの中入れてりゃ制服でも見えねぇし。
独り言のように呟いて、再び教科書とノートに目を落とす。それを横目で見遣って、ルキアはぱたりと雑誌を閉じた。
「――どこ行くんだ?」
「台所だ。咽喉が渇いたからな。貴様も何か飲むか?」
「あー…じゃ、麦茶」
「では、片付けは貴様だな」
愛想も無く決め付けて、ルキアは部屋を後にする。ドアが閉まり、軽い足音が階下に去る。それを確かめて、一護はおもむろにシャーペンを放り出した。
寄り掛かった椅子の背が、ぎしりと軋む。
軽く引っ張るようにして、首から下がったタグのプレートを視界に入れた。名前、血液型に誕生日。大文字で打ち出された明確な文字列。素っ気無い表現と字体が逆に洒落ていると感じるのは、アルファベットの不思議な所。
そして、プレートの裏側には、逆に可読ではなく装飾の為としか思えない字体で綴られた一連の文字。
「…………」
じっと見詰めて、それから軽く、音を立てるようにタグを弄ぶ。知らず、口の端に笑みが浮かんだ。
これを読めると言ったら、彼女は気を悪くするだろうか。
――…まあ、言ってやらねぇけど。
彼女が素直にならないから、自分も素直になってやらない。それでも、余所で本心を零されるのが嫌だから、自分の代わりにもう一人を表に出す。
本能だか欲望だかに忠実な内なる虚は、あっさりとルキアの本心を引き摺り出す。そして内なる虚は、結局己の魂の一部分。本心を延々と隠し続けているのは誰しも辛い。だが、吐き出してしまえば思いの外軽くなる。
だからこそ、こうして意味が有るのか無いのか判らない、無関心とも見える中に隠した打算的な遣り取りが延々と続く。
あっさり敗けてやるのは悔しいが、他の誰かのものになるのは許せない。
お互い、似た者同士の意地の張り合い。それも愉しいと思っているのは、多分歪んでいるからだろう。
リビングのドアが閉まる音。階段を登って来る気配に、一護はゆっくりと立ち上がる。
ドアノブに手を伸ばしながら、もう一度、摘まみ上げたタグの表面を視線で撫でた。
『 I’m yours and you are my own. R.K. 』
相手を独占したいと望むのは、どちらも互いに同じ事。
という訳で、お互い様な感じに確信犯なイチルキで白黒ルキア。…取り敢えず私は楽しいです。