Fade into Nothing


 雨音が、夜を埋めている。いつまでも、密やかに響き続けるように。
 細かな雨滴。温い大気を烟らせて、濡れた肌に纏わり付く。
 何処かで、雨垂れが地面を叩く音がする。僅かな風に、木々の低いざわめき。
 闇に浮かぶ、白。
「――………、」
 冷たい刀身に唇を寄せて、彼女は声にならない声で呟いた。
 吐き出す息に少しの曇りも見せない黒い刀を、不思議だと思う。刃先を滑って切れてしまった指を何度這わせても、少しの汚れも付くことが無い。
 囁いて、触れて、抱き締めているのに、其れは何も応えてくれない。
「……い、ち……ご……」
 幾度目かの囁きが、不安定に声帯を揺らす。紫紺の奥の瞳が夜も雨も映していない事に、彼女は気付いていなかった。
 否、何故こうしているのかも、既に忘れた。
 濡れた地面に突き立った大刀。解けた柄布の先は雨水の底に力無く沈んで、主の手を離れた斬魄刀は只悄然と其処に在る。
 居ない男の代わりのように、縋るように刀身を抱く彼女は、独りだった。
 弱くなり、また強くなる雨脚。纏う襦袢は水を吸い尽くして肌に張り付く。肌と着物の白い色で、闇の中からぼんやりとその場が浮き上がる。
「一護……」
 名を呼んで、刃の中に気配を探す。飽きずに繰り返す彼女の中には、孤独も寒さも存在しなかった。
 悲しい、辛い、苦しい、寂しい――そんな感情も、自責の念も、後悔の念も、罪悪感すら遠かった。
 只、何も無い。
 残っているのは、果ての無い空虚さと、何も存在しないからこその静けさ。乱されるものも、動かされるべき何ものも無い。
 だからこそ、彼女を取り巻く全てに意味が無かった。
 又、ぱたりと何処かに落ちた雫が跳ねる。
「――…い……」
 ふと、雨音が消えた。
 ゆらりと、刀身が何かを映し出す。無意識に身体を離し、振り向いた彼女。男が、微かな笑みを向ける。
『呼んだか? ――ルキア』
 白い死覇装。纏った男の暗い霊圧の中に、懐かしい気配が在った。

 いつの間に現れたのか。背後に立った男の姿は、暗闇の中にはっきりと見える。そろそろと伸びた彼女の指先を、黒い爪を持った白い手が受けた。
 ――……冷たい。
 雨の温度を感じなかった肌が、触れた箇所からじわりと痺れる。だがそれでも、中指と薬指の先だけ軽く握った指の感触が。其処から伝わる霊圧の感覚が。
「……一、護……」
 同じ、だった。
 雨水が溢れた地面から弾かれたように立ち上がり――唐突な動きに、ルキア自身の身体が意思に反してぐらりと傾ぐ。ばしゃりと水を跳ね上げて、ぬかるんだ地面に勢い良く落ちた。
「っ、いち…ご……ッ」
 無様にもがいて顔を上げると、ゆっくりと近付く掌が瞳に映る。
『……どうした?』
 頬に添えられた指が皮膚の温度を抜き取るように奪って、
「一護……ッ」
 奪われる体温が有る事に、未だ生きている己を思い出した。
『ルキア』
「…一護…――っ」
 上手く動いてくれない腕を、足を、身体を、無理矢理に動かし、彼女は必死の思いで腕を掴む。雨水の中をもがくように這い上がり、屈み込んだ気配にしがみ付いた。
 その手を離せば、消えてしまうのではないかと思ったから。
 半端に起こした身体が、泥になった地面の上を引き摺られる。抱き寄せられたと気付いた途端、勢い良く視界が反転した。
 地面に突いた男の掌が跳ね上げた水が、ルキアの顔に降り掛かる。
『……ルキア』
 地面に横たえた彼女に、圧し掛かるようにして覗き込む。黒の中の琥珀色。
「一護……?」
 ぼんやりと見上げる瞳に、ああ、と彼は応えた。
『俺は、一護だ。だが、それだけじゃねェ』
 吐息が混じりそうな程近くで、囁く。
『なあ、アンタの前で、一護は一体どうなった?』
「………一護……は、」
 ゆるゆると手繰った先の記憶に、彼女の表情が歪んだ。
「消、えた。斬魄刀だけ、残して」
『ああ』
「勝ったのに。望み通りに、皆を護ったというのに…――」
 なのに、魂魄が、自身の強さに耐えられなくなったように、
「……消えて、しまった」
 呟いて、吐息を零す。空洞が広がっていく。
「いち……」
『一護は消えた』
 感情の見えない声が響いた。
『一護が消えて、俺が居る。…――消えた後に残ってんのは、何だ?』
 肉体から抜けた魂。それすら消え去った後に、それでも留まり続けるもの。
『執着心だ』
 告げて、男は笑った。嘲笑うのでも、憐れむのでも無い。
『ルキアと離れたく無ぇ。下らねぇ建前が消えた後に、最後に残った一護の望みだ』
 それが自分だと、男は言う。
 骨張った長い指先が、血の気の薄い頬から首、襦袢の合わせから肩口へと滑る。張り付いていた布が、重たげに肌から剥がされていく。
 冷たい唇が、胸元に落ちた。
『だから――アンタを連れに来た』
 聴覚から消え去った全ての音の代わりに、欲しかった唯一が聞こえる。
 腕を泥の中から引き上げて、男の身体に絡み付かせる。応える相手の動きを直に感じるルキアには――もう、囁かれる言葉以外は聞こえなかった。抱き締める存在以外を感じなかった。
「ああ……いいよ。私を、連れていけ」
 何も無い場所に、独り置いて行かれるのは厭だから。
 ――きっと、ずっと待っていた。
 闇の中で蠢くモノ。例え其処まで堕ちて、世界から弾かれて沈むとしても、共に、ならば構わない。そんな己を解っていたから。
 彼を残して自分が消えても、きっと同じモノを残していく。
「一護…――」
 もっと、と強請るように縋り付く。応えて包み込まれ――呑み込まれる。
 融けて消えて行く感覚が、堪らなく心地良い。

「私を、離すな……」
『解ってる』
 想いが響く。曖昧な中に、溺れて行く。
『……オマエは、俺のモノだ』

 ――…永遠に。

 懐かしい声が、答えた気がした。











イチルキでイチ←ルキで白一護×ルキア。
…勢いのままに書いたら、良く分からない感じになってる…。



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