Shadow in the Shade


 硝子に浮いた水滴が、音も無く滑ってテーブルに落ちた。天板の上で、円形の水溜りが少しずつ形を崩して広がっていく。
 カランと音を立てて、ジュースの残ったコップの中で崩れた氷。冷気を吐き出すクーラーの作動音と、締め切った窓の向こうの蝉の声。騒がしい筈なのに何処か空虚で、真夏には少し不自然な気がして物足りない日。
 床に座って、ベッドに寄り掛かって、規則正しい呼吸音に耳をすませる。
 軽く掬い上げた黒い髪を、シーツの上にぱらぱらと落とした。手に、僅かに身じろいだ彼女の吐息がふわりと掛かる。
 もう一度手を伸ばして、今度は顔に落ちかかった髪を掻き上げてやる。普段は前髪で隠れた額が顕わになって、窓越しの陽光に長い睫毛が目元に影を落とす様が見て取れた。
「ルキア……」
 微かに囁く。だけどそれは、半ば以上が自分の呼吸に紛れて、呼ばれた彼女は気付かない。
 夏の昼下がり。
 午後の明るさが部屋の空気を温く焼いて、人工の冷気がそれを冷やそうと掻き回す。快適さと不快さの間をゆらゆらと漂う空間で、ベッドの上で午睡に落ちた彼女の呼吸だけが穏やかに聞こえた。
 見詰めるだけの俺は、自分が息をしているのかも良く分からない。
 シーツに散らした黒髪の端を撫でてみて、彼女からの応えが無い事に、苛立ちよりも焦燥に近い、堪らない気持ちになる。
「……早く、起きろよ」
 低く、声を掛けた。
 早く起きて、その眼を此方に向けて欲しい。
 人差し指を、無造作に放り出された彼女の手の甲に置く。夏だと言うのに日焼けする気配の無い肌を、マニキュアを塗っている訳でも無いのに桜色をした爪の先までなぞってみた。
 脳から発した筈の意思から微妙に外れて、この指の動きはのろのろと遅い。忌々しい程にぎこちない仕草。それでも、指一本分の重さを感じて、彼女の手がぴくりと動く。
「なァ……」
 早く早くと心が騒ぐ。
 目を開けて、瞳で見て、咽喉を震わせて、唇で紡いで、呼んで欲しい。
 慎重に、緩慢にしか動いてくれない身体を無理やり操るようにして、もう一度彼女に手を伸ばす。薄く血色を透かした象牙色の頬に触れた掌は、ぎこちなさで震えていた。
 嗚呼――、
「畜生」
 ――もどかしい。
 思い通りにいかない身体が、らしく無さ過ぎて酷く笑えた。
「要らねェだろうが、こんなモン」
 肉体に、因果の鎖。
 魂魄を縛って閉じ込めるそれらが、一人の半端な死神を取り巻いて、人間のフリをさせている。
 いっそ、壊して脱ぎ捨ててしまいたい。
「そう、思わねぇのかよ? ――…一護」
 霊体なら、きっとこんなもどかしさなど感じない。なのに今、意識を主導する俺を邪魔するのは、この殻だった。
 表層に浮かんだ『俺』。束の間の眠りに落ちた『王』が覚醒すれば、直ぐまた退屈な場所に引き戻される。
 ――何でだよ?
 折角、彼女が傍に居るのに。いつまで居るのかも、分からないというのに。
「……意味なんか、無ぇだろ」
 人であり続ける事に。この肉体に留まり続ける事に。
 そして――護りたいものを護れないなら、護る力が無いのなら、死神である事すらも意味が無い。
 全てを失くしても、唯一の存在が居ればいい。
 ――少なくとも『俺』は、そうだ。
 窓の外の、夏らしい青空。其処に、何処からか流れて来た雲の端が掛かる。束の間、休息するように翳った太陽。射し込む陽光が、僅かに明度を落とす。
 添えた掌の下で、呻くような声がした。
「…………」
 注視する先で、静かに瞼が上がり、ゆるゆると瞬きを繰り返す。焦点が曖昧な紫紺の双眸がぼんやりと俺を映して、名を呼ぶ形に唇が動く。
 ――聞こえない。
「るきあ……」
 促すつもりで呼んだ声が、酷く掠れた。
「……いち、ご……?」
「ルキア――…」
 名前と共に零した吐息。今更のように、空気が肺に取り込まれて行く。
「なあ、分かるか?」
 一度は外した掌を、再び彼女の頬に沿わせた。
 瞳を合わせて、視線を絡めて問い掛ける。

 ――ルキアなら、俺だって分かるだろ……?

 テーブルの上には、既に温んだ硝子のコップ。
 その中で、オレンジジュースと溶けた氷水が不自然な二層を作っていた。











取り敢えず、大方の予想を裏切って健全にしてみました(健全…?)


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