One day


「……だりぃ」
 真夏。朝と言っても十分以上に日が高くなってから、全力でやる気のない溜息と共に部屋の主は呟いた。日射しの届かない室内で蔀と御簾を開け放し、姫飯に水を注いだ水飯を食べながらの言葉である。手にした水飯の椀の中に浮いているのは砕いた氷。殊更に暑気の強い日だからこその心遣いだが、食べている当人がその効果を自覚しているかは不明である。
 東三条。左大臣の邸宅の東対屋。朝っぱらからダレている彼は、左大臣の嫡男である左近少将殿であった。ついでに名を黒崎一護という。
 寝殿造は夏を基本としているから、ある程度仕切りを取り払えば風通しは良い。と言うより、良い筈なのだが、生憎風の少ない日和では意味が無い。
 そして、珍しく大した予定の無い今日のような日は、無駄に時間が有る分、余計な事を考えてしまうものである。
 例えば、とっくの昔に終わった賀茂祭の事とか。
 賀茂祭――つまり後世で言う葵祭である。朝廷を挙げての重要な祭であり、賀茂斎院も御在所である紫野の斎院御所から賀茂の下社、上社に赴いて祭儀を行なう。
 ついでに当代の斎院は彼が全力で片想い中の姫君だ。彼個人にとっての重要性がどれ程のものかは推して知るべし。
 そして、賀茂祭と言えば勅使である。
 勅使は近衛府、内蔵寮、内侍所などからそれぞれ選ばれ、帝の勅旨を受けて大内裏を出立し、一条大宮で紫野から出御した斎院と合流。一条大路を通り、賀茂の下社、上社へ赴く。この勅使と斎院を中心とした壮麗な行列を見物する為に、一条大路に人が溢れるのは有名な話だ。貴族だけでなく、庶民にとっても一大行事なのである。
 言っておくが、別に勅使だからと言って斎院と接点が出来るとかそういう事は無い。しかし、こういう重要な祭事で互いに重要な役目を担っているというのは、やはり何か違うものなのである。
 そう、例えそんな心持ちを、一途だとか気の毒だとかちょっと女々しいとか散々に某頭中将と某内侍の二人に噂されようとも。……頼むから、檜佐木さんに乱菊さん、アンタらもう黙っといてくれ。俺だって一応傷付くんだよ。っていうか、だからアンタ達は俺じゃなくて自分らの方を何とかしろよ。
 所で、慣例として近衛府から賀茂祭の勅使に選ばれるのは近衛中将か少将である。
 そしてこの時の彼はと言えば、官職は左近衛の少将。位階は正五位。
 そんな訳で、彼に選ばれる資格と可能性が有ったのは言うまでも無く当然なのだが――幾ら天下の左大臣家の跡取り息子だろうが人生そんなに甘くなかった。
「……………」
 ちなみに実際の勅使を務めたのは、常日頃から密かに彼の恋路を内侍との話のネタにする頭中将である。残念ながら。
 ついでに、来年か、それが駄目でも再来年辺りは選ばれるかもしれねぇだろ。という、一応上司でもある中将の科白は、来年もそのまた次の年も意中の姫君が斎院のままであり、数年来の片想いを相変わらず続けなければならない。という的中する確率の高い予想と相まって、当然ながら全く励ましにならなかった。おそらく、励ます気も余り無かったのだろうと思われる。
 ついでに、そういや俺も何年か前に勅使に選ばれたなあ、と悪気は無いものの追い討ちを掛けたのは従兄に当たる宰相中将。その、夏の青空の如く爽やかな笑顔に嫌な予感を覚えたのは明らかな偏見だが、奥さんが懐妊中でなぁと惚気始め、産まれたら見に来いよとのたまう実に幸せそうな姿に、一護は自分の前途を思って少し泣きたくなった。
 ――つーか、海燕さん。アンタら万年新婚夫婦の家に来いとかって、一体何の嫌がらせだよ。行って俺にどういうリアクションを取れってんだ……ってか、誰が行くかよ! 頼まれたって絶対行かねぇッ! そもそも、同じ科白何回聞かせりゃ気が済むんだアンタは!
 力強く思いつつも、それと同時に思い出した事自体にダメージを受けて、殆ど氷の存在しなくなった水飯を啜る。
 ちなみにこの時代、氷は冬の間に作った天然氷を山の氷室で保存しているものだ。よって言うまでも無く貴重で、庶民以前に貴族ですらそうそう口にできる代物では無い。超名門の上流貴族とて好き放題食べられる物でも無い訳で、要するに大層罰当たりな話なのであった。
 そして、そんな罰当たりな彼の元に意外な来客があったのは同日の昼下がりの事である。

「……で、一体何の用だよ? 石田」
「別に歓迎しろとは言わないが、あからさまに嫌な顔をするのもどうかと思うね。黒崎」
 じゃあ、何もこんな昼日中のクソ暑い時に人ん家に来るんじゃねぇ。つーか、一応気を遣って釣殿に通してやってんだから文句言うなよ。
 因みに、気を遣ったのは来客を告げられ、追い返せ、と思わず本音を言い放った彼ではなくて家の者である。
「まあ、僕としてもこんな場所に長居をする気はこれっぽっちも無いから安心してくれ」
 内大臣の息子であるところの蔵人少将、石田雨竜は、この暑いのに涼しい顔をして、さり気なく庭を見渡した。多分、一般に親子二代に渡るライバルと見なされている左近少将殿と顔を合わせるのが癪なのだろう。だったら何故来る、という意地の悪い疑問は、しかし次の瞬間、一護の頭の中から吹っ飛ばされた。
「そう言えば先日、麗景殿にご機嫌伺いに参ったら女御が君はどうしているかとおっしゃってたぞ。紫野には行ってるらしいから、麗景殿の催し事は張り合いが無くて物足りないのかとご心配なさって…――って、どうした黒崎?」
「………イヤ……別に」
 麗景殿女御。つまり斎院の姉君、という予想外な上に別方向からの不意打ちに、一護は座ったまま若干よろめいた。東対屋から南に延び、池の上に張り出した部分に当たる釣殿の高欄は、寄り掛かれば程良く涼が取れるが、別に涼気を求めた訳では無い。童殿上していた頃から何かと緋真に可愛がられていたものの――無論、それを半ば狙っていた事は事実であるが――それが盛大に気に入らなかったらしい白哉から睨まれ、その後も麗景殿で話題にされる度に、鉄面皮と裏で呼ばれる主上から向けられる視線が何か怖いのだ。只でさえその調子だというのに、寵愛する女御が左近少将如きの事を心配していた等と伝え聞けば更に機嫌が悪化するに違いなく、つまり、延々と繰り返されそうな悪循環を予感して精神的にちょっと辛くなっただけである。
「――…………で、それはともかく、テメーの要件は何だよ?」
「ああ、君の所には、家伝の笙の名器があるだろう?」
「……おう」
「ついでに言えば、今度麗景殿では管弦の宴があって、僕が笙を吹く事になってる」
「そーだな」
「で、物は相談なんだが――それを貸してくれないか、僕に。出来れば今すぐ」
「あ? ウチ所有の笙の………………って、出来るかボケッ!!」
 ありゃ一応家宝だ! 一族ならともかくテメーに貸せるか! しかも俺の一存で!
「次の宴では借りる事になってるんだが」
「オイコラ、テメーに貸して良いなんて許可出したの誰だよ」
「そう言うな。前斎院の思い付――…もとい、ご所望でね。主上が指示された」
「前斎院って……」
「勿論、先々帝の女一宮だ」
「……来んのかあの人? 後宮の宴に」
 イヤまあ、性格からして楽しそうだと思えば来るだろうな。例え殿上での宴でも。
「あの人って……君、知り合いだったのか?」
「元服前に童殿上してた頃、何度か参内してたんだよ」
 多分、白哉で遊びに。
「で、あの人の連れて来た黒猫がしょっちゅう脱走して、そのたびに何故か俺が内裏中捜索して追い掛け回す羽目になった」
 そりゃもう、あらゆる殿舎の床下やら庭やら木の上やらを。
「覚えがめでたくて結構な事じゃないか。一品の内親王だぞ。皇族の中でも特に重んじられてる御方だろう」
「……俺はあのヒトにからかわれた記憶しか無ぇ」
 そして白哉は夜一さんが苦手なだけだ。重んじてるんじゃ無く、逆らっても無駄だから諦めてるだけだ。
「ってか、そういう事なら今借りる必要無ぇだろ」
「何を言ってるんだ君は。宴で借りるって事は、その時しか吹けないって事だろう」
 話の流れが全く見えない。眉を顰める一護に、実にあっさりと次の科白が告げられた。
「つまり、折角の音色を織姫さんに聞かせてあげられないじゃないか」
「………………………オイコラ、てめえ……ちょっと待て」
 何でイキナリお前の奥さんが出て来るんだよ話に。
「つーか、まさか、単に奥さんの前で吹きたいからとかいう個人的過ぎる理由でヒトん家の家宝貸せとか言う気か?」
「まさかも何も、他にどんな理由があるって言うんだ?」
「アホかてめえ……ッ! 尚更貸せるかそんな理由で!」
 ってか、どいつもこいつも、俺に対する嫌味かソレは! 惚気るんなら余所でしろ。どうせだったら檜佐木さんトコ辺りで!
「いちいち怒鳴るな。別にタダで貸してくれとは言って無い」
「例え有料でも貸せるかよ。つーかもう、とっとと帰れ」
 随分な言い草であるが、対する雨竜は至って冷静だった。
「だから取り敢えず話を聞け、黒崎」
「あ? 俺は聞く事なんて別に無――」
「織姫さんは割と友人が多くてね。方々の姫君達と折々に文を遣り取りしたりしてるんだが、矢張り相手が文雅で名高い方だと気軽な文と言っても適当なものは返せないだろう? それで時々、僕に料紙や返歌の事で相談したりして来てね。……ああ、そうそう、何か気軽な贈り物でもしたいと相談された時は、織姫さんと二人で夜明けまで色々と考えを出して話し合ったりもしたよ。あの時は確か――」
「だから俺は話聞くとは言って無ぇ! そもそも、テメーら夫婦の惚気話に興味は無ぇんだよ!」
 つーか、前置き長ぇよ。しかも今、途中で話変わったぞ!?
「用が終わったんならとっとと帰れ」
「本当に帰っていいのか? 折角、この僕が交換条件を出してやろうと言ってるんだが」
「はあ?」
 面倒臭そうに応じる一護に、雨竜は夏用の蝙蝠扇を弄びながらさり気なく続けた。
「織姫さんは、まあ、見ても構わないようなものだけなんだろうけど、僕にも文を見せてくれてね。中でも、お若いのに仮名文字が見事な方のものは手習いの手本にしたいくらいなんだ。少し聞いてみたら、そういう事なら貸して貰えそうだったから、君の妹さんの手習い用にという事で頼めば幾つか手に入るんじゃないかと、ふと思った訳なんだよ。まあ、その文雅な御方というのは今斎院なん――……」
「な、ちょっ、その文見せろッ!!」
「…………」
 恐るべき速度で食い付く相手に、雨竜は座ったまま若干後ずさった。
 ――イヤ、一応他人に隠してるつもりならもう少しさり気ない態度を取るべきじゃ無いのか君は。幾ら何でも露骨過ぎるぞ。っていうか、それだから頭中将とか松内侍に格好のネタにされるんじゃないのか。
 と、ツッコミむべき所は色々と有るのだが、とにかく相手が餌に食い付いた事には変わりない。彼にとって何より重要な事実は其処である。
 そんな訳で、
「まあ、そうだね。君がどうしてもという事なら、頼んであげない事も無いんだが……しかし、斎院の文なんてそうそう世間に出回ったりしないものだろうし、僕が上手く言わない限りは織姫さんだって納得してくれないだろうし、余り人の噂に上らないようにする為にも、何かしらの誠意を示す事は必要だと思わないか黒崎?」
「…………」
「いや別に、君にも事情は有るだろうし、僕も無理にとは……――」
 最終的にこの遣り取りの結果がどうなったのか。まあ、そんな誰にでも分かりそうな事は、敢えて言う必要も無いだろう。

 取り敢えず、今上帝の即位から八年目の水無月初め。目下の所、都は大層平和で――左近少将殿は相変らず片想い一直線のままである。











と言う訳で、2万打記念アンケートリクエスト小説、「平安パロディ、Tales of...の番外編」でした。
大変お待たせ致しましたが、大方の予想通り全く祝ってる気配の無い内容でスミマセン。
フリーにしようかとも思いましたが、これ単品で読んでも意味が分からないんじゃないかと思ったので自重しました(…)
取り敢えず、雨織と海都の万年新婚夫婦二組は一護にとって存在自体が鬼門です。ついでに、修乱に弄られ白緋(主に白哉)に虐げられてるのは日常です。
夜一さんは勿論、童殿上時代の一護で遊んでました(ペットの黒猫は八割方わざと脱走させてる)
……ちなみにこのパロディの基本コンセプトは「気の毒な一護」(待)



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