Double Dream- V


 電車に乗り、人の多い駅から人の多い街に出る。人の流れから逸れて直ぐの場所に在る、これと言って特徴の無いペンシルビル。
 その最上階で磨りガラスの嵌ったドアを開け、ルキアは俺を招き入れた。
「……一応、電気と水道は入れてあるが、蛍光灯は付けておらぬな。ガス栓までは無いから自炊するなら電気コンロでも買ってこい。後は……合鍵は後で持って来てやるが、セキュリティには余り期待するなよ? 家具はどうするかな……。一応エレベーターは動いているが、狭いしな。それ程新しくは無いが、下の階にベッドが有るから運んでみるか? 外から持って来るよりはマシだと思うが」
「あの……いいのか?」
「良いも何も、このビルは私の物だ。あ、部屋の電気代と水道代はきっちり請求するぞ」
「そりゃ勿論だけど」
「何だ」
「……俺、物壊すかも」
「此処に壊せるような物が有るか?」
 説明しようとして咄嗟に口籠もると、ルキアは肩を竦める。
「窓とかドアとか、最初から有った備品類の修理代は貴様が出て行く時に請求するから安心しろ」
 で、他に何か質問は有るか、と仁王立ちする偉そうな態度。光を背にしたその姿に、そういや、こういうヤツだったなと昔の記憶を掘り出した。中学の時じゃなく、もっと前。ルキアが小学生で、俺も小学生で、校区の違う同学年の二人。歳の離れたルキアの姉貴が通院してた医院の医者が俺の親父って、それだけの関係。
 ウチに来る姉貴にくっ付いて来たり、姉貴の薬の処方箋貰いに来たりしてた頃。今よりももっと小さくて、今と比べれば俺との身長差が無いに等しかったその頃から、ルキアはこんな感じだった。
「オマエ……変わってねぇな」
「何なのだ突然。と言うか、質問が有るのか無いのかどちらだ」
「あー、疑問なトコは沢山あんだけど。まあ、いいわ」
 そう答え、無言の内に疑問符を漂わせるルキアに、それより、と話を向ける。
「ベッドあるっつったよな。見せてくれねぇ?」
 取り敢えず、寝床が有るに越した事は無い。
「ああ。それは構わぬが、組み立てねばならぬぞ」
「そんくらい、別に手間じゃねぇって」
 目立たないが、それでもうっすらと埃の積もっていた床を雑巾で拭き、部品にバラして置いてあった大き目のシングルベッドを上階に運んで、一緒に保管されていた工具で組み立てる。ついでに、これも何故か保管してあったローテーブルを置く――それで終わり。
 がらんとした広い部屋と、中心辺りに置かれたそれらの組み合わせは、言うまでも無く奇妙だった。
 何処か、俺自身を表しているように。

「……相変わらず、シュールな光景だな」
 それは、一週間後。通算十何回目かにやってきたルキアの開口一番の科白。合鍵以前にマスターキーを持っていて、暇さえあれば前触れ無く、しかも勝手にドアを開けて出現する家主の言葉に俺は眉を顰めた。
「いーんだよ、住めりゃ」
「貴様……此処が人の住む部屋に見えるのか?」
「住んでんだろうが」
「真面目に住む気は有るのかと訊いておるのだ」
「真面目たって……」
「服やらタオルやらその他の物は纏めて段ボールか袋に放り込んでおるわ、ゴミ箱はビニール袋そのままだわ……何とか形が整っているのはベッドだけではないか。そもそも、椅子は何処だ」
「無ぇよ。つーか、使わねぇだろ」
「貴様がベッドに座っているなら、私は何処に座ればいいのだ」
「その辺に畳んでる段ボールにでも座っとけ」
「それが客に対する態度か?」
「勝手に押し掛けて来てんのはテメエだろうが! つーか、オマエ、昨日ここに何時まで居たと思ってんだ」
「昨日? 確か、七時を過ぎた辺りだったが。――別に遅くも無いだろう?」
「あのな。幾ら五月で日が長くなったからって、七時過ぎたら暗いだろうが」
 何でコイツにこんな事言わなきゃならないんだと、そんな事を思いながら続ける。
「別にこの辺、治安が良いって訳でもねぇだろ?」
「まあ、取り立てて言う程悪くは無いが、確かに良いとも言えぬな」
「だから、俺の部屋なんか寄ってねえでとっとと帰れ」
「……まだ夕方だぞ」
「日が暮れる前だったら夕方しか無いだろ」
 別に、と言うか断じてコイツを心配している訳では無い。そもそも中学時代、ナンパのしつこいのとか痴漢とか、偶然居合わせたひったくり犯なんかを、ルキアが合気道だかの技で投げ飛ばしたのを何度も目撃している。
 ――つーか、今更だが、とんでもない女だ。
 その、何年ぶりかで会ったとんでもない女は、俺の忠告を聞き終わった後、そのままこちらにやって来て、すとんとベッドに腰を下ろした。
「オイ」
「文句が有るなら、椅子でもソファでもいいからベッド以外で座れる物を置け」
「だから、オマエこそ文句あんなら帰れって…――」
「それより、部屋の方の蛍光灯は買わずとも良いのか? 外の光が入るからまだ良いが、流石に照明が何も無いでは不便だぞ。スタンドライトなら下にも在ったが」
「……イヤ、いい。どーせ部屋じゃ大した事しねぇし」
「音楽は?」
「明るく無くても聴けるだろうが」
 咄嗟に答えたが、半分は嘘。持ってたiPodは、あの部屋で他の物と一緒に壊れていた。気に入って何度も聴いていた曲も、今は聴けない。
「では、本は」
「別に読まねぇ」
「料理は」
「作ってねぇよ。つーか、道具もねぇ」
「飲み物は」
「水があるだろ」
「水だけか?」
「テメエはそこにあるペットボトルが見えねえのか」
「向こうの壁に、ゴミ袋も積んであるがな」
「……この辺のゴミの回収日が分かんねぇんだよ」
「洗濯物は?」
「俺にコインランドリーの場所教えたのはオマエだ」
「では、あの袋に突っ込んである物は洗ってあるのか?」
「明日行く」
「掃除は?」
「別に大して汚れてねぇ」
 積み重なっていく答えを聞いて、ルキアはおもむろに立ち上がった。
「…――で、結局貴様は此処で何をしておるのだ」
「……別に。何も」
 一つ一つ言われると、改めて思う。俺は、何もしていない。
「では、このまま何もしないつもりか?」
「バイトでも探す」
「それから先は」
「さあな」
「分からぬのか?」
「働くんじゃねぇの? 貯金が有り余ってるって訳でもねえしな」
 多分。だろう。と、全てに対してそれしか言えない。目標も無ければ意志も無く、近い将来、その日を過ごす事だけが目的になって、生きている事さえ忘れてしまいそうな予感。それ以前に、いつまで俺が『俺』で居られるかも定かじゃない。
 きっと俺はそうやって、未来だけじゃなく、過去に持っていたものまで失くしていく。
 不意に…――身体の奥で、何かがざわめく気配がした。
「……オマエ…とにかく、とっとと帰れ。別に俺……オマエに迷惑掛けたりとか、するつもり、ねぇし」
 軽く、分らないように身を屈め、右手で掴んだ左腕に爪を立てて気配を抑える。
「ガキじゃねぇんだから、放っとけよ。もう」
「――今の貴様と比べると、実際の餓鬼だった頃の方が大人に見えるな」
「へえ……」
 曖昧に答える。じりじりと近付いてくる気配に、意識が擦り減っていく。
「もう、オマエがどう思ってようが、別にいいから……帰れよ。早く」
 人が居る。他の誰かが傍に居るのに。今、俺が意識を飛ばしたら…――、
「そう言えば、医者になるのだと聞いた事が有ったな」
 突然、やけに大きく声が響いた。
「もう十年も昔の話だが」
「………っ」
 覚えてる。十一年前。九歳の頃。その頃、俺は――…、
「その餓鬼が、」
「――うるせえッ!」
 咄嗟に叫んで、はっとする。視線を上げたが、俺の声に驚いたのは俺だけで、ルキアは平然と其処に立っていた。真っ直ぐに見詰める瞳に居たたまれず、思わず視線を脇に逸らす。気が抜けたように、呟いた。
「だから……帰れよ。頼むから」
 いつの間にか、窓の外は完全な夕暮れになっていた。もう少しすれば、部屋の天井を、妙に明るい光が下の方から照らすだろう。
「オマエには感謝してる。けど、もう……あんま俺と関わるな」
「何故だ?」
「何故、って……」
「言っておくが、貴様が家を出た事も、隠れたように暮らす理由も、私自身には何の関係も無い事だ」
 突き放すような科白。
「だが、私がこの部屋に来て、こうして貴様と会って話すのは、私自身の意思だ」
 暗い部屋。夕方で、幾ら外から入って来る光があったからって、そんなに明るい訳じゃない。次第に明度を落としていくだけで、それ以上に明るくなる事は有り得ない。
 それでも、
「それを来るなと言うのなら、きちんとした理由を言え。でなくば私は帰らぬぞ」
 きっぱりと言い切るルキアの周りは、やけに明るい気がした。

 ルキアに事情を話すのは、家族や友人なんかに話すと思うよりは楽だった。その頃の俺達は丁度、自分と相手の事を客観的に見て、落ち付いて話せるくらいの距離に居た。
 それでも俺が話したのは、俺自身が分かってる事実だけ。そもそも理由は分からないし、何となく解ってる大本の原因は、口に出す気にはどうしてもなれない。
 それを、気付いていたのかどうなのか。
 結局――俺の話を聞いても、ルキアは部屋に来るのを止めなかった。

「オマエ、また来てんのか」
「ああ、勝手に邪魔している」
「自覚してんなら不法侵入を止めろ」
 不法侵入どころか、勝手に家具は増やすし、物はやたらに持って来る。壊れ易い物や危険物は避けているから俺の事を考えてるのかと思えば、自分が楽しいからという理由だったりで良く分からない。
 それでも、ルキアと居ると何故か楽で。ルキアが来ると、家具の置かれた空間が部屋になって。ルキアと居ると、俺が『俺』で。この場所でちゃんと、生きているという感じがした。
 だからだと思う。
 進んだり、停滞したり、落ち付いたりする、症状とも言えない症状。近付いたり、遠ざかったりする気配を抑えながら、一番に思うようになった。

 ――ルキアだけは、傷付けたく無い。

 それは、単に好きだとか、そういう感情が理由じゃなかった。












あれ…回想で1話終わってる…。


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