Double Dream- VI


 風が吹き抜ける。
 少し傾いたと思えば、急に明度を落としていく気がする冬の太陽。夕方にはまだ早い筈が、やけに力の無い光のせいで風が余計に寒いと感じた。
 記憶と変わらない所に在るベンチに近付くと、少し遅れてルキアの影が足下に追い付く。今、振り向けばきっと、距離を置いて立っているだろう彼女と俺はあの日と同じ場所に居る。
「何つーか、変な感じだな……」
 色々な事を思い出す。それが、何だか意外な気がした。
「……そうか」
「ああ……少し、信じられねぇ」
 そう。何故なら、こうやって思い返せるようになる未来の存在を、あの頃の俺は信じる事が出来なかった。
 一日をやり過ごす事。自分自身を失わない事。他人を巻き込まない事。それだけを考えて、重ねていく日々。得体の知れないものへの恐ろしさと不安に、静かに削られていく神経。
 只、ルキアと会える事だけが救いだった。
 窓ガラスに映る自分さえ、本当に自分なのか分からなくなる時すらあって――そんな時でも、ルキアの瞳に映った自分が俺なんだと思えた。不安定な時間の中で、ルキアだけが揺るがない存在に思えていた。
 ――そうだ。
 多分、あの頃――俺はルキアを、好きだったんじゃない。
 だけど、敢えて言葉を充てるとしたら、それ以外に見付からない。そういう事だと思う。崩さないよう、慎重に重ねて過ごしていた日々の中には、好きって言葉には納まり切らない程の感情が有った。
 だから、
「ルキア」
 例え『俺』がルキアと居た時間が短くても、それは想いが浅いと意味しない。
「――…ありがとな」
 振り返って、驚いて俺を見上げる彼女を見つめた。
「あの時、俺を拾ってくれて」
 この場所で、俺がルキアと出会った瞬間に、俺の運命は変わっていた。他でも無い自分が棄てようとしていた『俺』を、ルキアは掬い上げて、護ってくれた。
「多分、オマエが居なかったら、俺はずっと前に壊れてた」
 一人きりで。誰も知らない場所で。俺は永遠に消えてしまっただろう。
 ――だけど、ルキアが居た。
 もしもあの雨の夜で『俺』が終わってしまったとしても、あの日々の中で笑っていられた事に変わりは無かった。
 幸せかは分らないけど、不幸だとか嫌だとか、そんな悪い記憶だけ残るような事にもなって無いと、今なら分かる。
「だから――ありがとう……ルキア」
 ルキアに逢えたから。俺は今、ここに居る。
 告げた俺の視線の先で、紫紺の瞳が僅かに揺れた。
「……何故――…?」
「ずっと、言えなかったからな。オマエとちゃんと会うのも、話す機会も全然無かっただろ? だから」
「違う」
 そうではないのだと、視線が落ちた。
「――何故、私に礼など言うのだ……」
「そりゃ、」
「私は貴様に、謝るつもりで来たのだぞ?」
「――…謝る、って……?」
 意外過ぎる言葉。
 俺が一方的に迷惑を掛けた事はあっても、その逆は無い。何か問題があったとしても、責任があるのは俺の方だ。
「何をだよ? オマエが謝る必要なんてねぇだろ? 俺が、」
「違う! 私の、所為なのだ……っ!」
 一瞬だけ響く声。
 吐き出したような声の端と、堅く握り締めた手が震えていて、沈黙の中に余韻が消える。
「ル…――」
「貴様が一度消えたのも、『奴』が現れたのも。私が居たから。私が――あのような事を言わなければ……あんな事を思わなければ、貴様は……。このような面倒な事にはなっておらぬだろうし、私などでは無く、自分の好いた相手と…―――っ!?」
 咄嗟に、言葉を遮るように肩を掴んだ。
「いち……」
「止めろ」
 低く出した声は、少し掠れた。
「オマエが居たから、だと? ――じゃあ、オマエが居なかったら俺は無事だったとでも思ってんのか?」
 茫然とするルキアを、僅かにこちらに引き寄せる。
「ふざけんな」
 何でコイツは、こんなに自分の意味とか価値が分かって無いんだ。
「いいか? 『アイツ』って存在の、そもそもの理由がオマエなら、そんなの今の俺だって同じだ」
 俺は『アイツ』事は何一つ知らない。だけど、ルキアに対して思うのが、好きとかそんな言葉だけで表わせるだけの想いじゃないってのは、何となく分かった気がする。
「オマエが居なきゃ、俺はここに居ないんだよ」
「……っだが、」
「ルキア。『俺』があの日、表から消えたのは、単に『俺』が弱かったからだ。『俺』が弱くて逃げたからだ。もし、逃げようとした『俺』の背を最後に押したのがオマエだったとしても、それは俺にとっては原因じゃない。そんな事、俺にとっては問題じゃねぇんだよ」
 消える前、朧げに見えたルキアの目に浮かんでいたのは、恐怖とか困惑じゃなかった。只、苦しそうで、痛そうで。それを必死に耐えていた。そんな事だけ何故か分かって、酷く揺れる意識の中ではルキアが言った言葉は聞こえなかった。だけど、
「――声が、聞こえたんだ。俺の奥から。眠ってろって。眠れば、イヤな事は忘れるからって」
 弾かれたように視線を上げたルキアを、何か言い掛けたルキアを、睨んで止める。
「俺は、あの声を――…お袋だと思った」
 思って、安心した。もう、抵抗しなくてもいい。必死にならなくていいと思ったから。
「けど、きっと本当は、アレが誰でも良かった。どんな言葉でも良かった。逃げる理由になれば何だって良かったから。俺は勝手に、お袋の所為にした」
 他でも無い、俺自身が無意識に望んでた事だったとは気付かずに。
「だから、その声を呼び出したのも、聞いたのも、それを理由に諦めたのも、俺なんだ。オマエが何もしなかった訳じゃ無いとしても、聞いた声を都合良く、自分が望むように解釈したのは俺だった」
 誰も、逃げて良いとは言わなかったのに。
「……なあ、」
 ゆっくりと、少し力の抜けた細い肩から手を外した。
「何で俺がオマエに感謝してんのか。その理由を分かってるか?」
 六月の雨の夜。雨の音から、最悪な記憶を一つ残らず突き付けられてるようだった、あの昏い夜。
「俺がどうしようもなくなって逃げたいと思った時。あの瞬間、俺は間違いなく『俺』だった。俺にとって重要なのは、逃げるのを選んだのが自分だったって事なんだよ。あの瞬間まで、俺は『俺』で、それ以外の別のモノなんかじゃなかった。――俺はそれに感謝してる。俺を『俺』のままで存在させてくれたのがオマエだからだ」
 だから、中に逃げ込んで、何処か分からない世界に閉じ籠ってしまった後も、俺はずっと『黒崎一護』のままだった。曖昧な記憶の中でも、『自分』を呑み込もうとする世界を拒否するくらい、俺は『自分』を持っていた。
「一度逃げたけど、それでも俺は『俺』としてここに戻って来れた。やり直せるもんなら、どっからでもいいからやり直したいって思えた。『俺』にそのチャンスを与えてくれたのはオマエだ。だから俺は感謝してる」
「…――し、かし……私は……『奴』は…――」
「ルキア。俺は『アイツ』の話をしてるんじゃない。『俺』とオマエの話をしてるんだ」
 これから先、俺とルキアの事を考える時、きっと『アイツ』の存在を無い事には出来ない。それでも、
「『俺』と『アイツ』の事なら、俺達で勝手に話を付ける。オマエと『アイツ』の事なら、オマエらで話せばいい。だから今は、『俺』とオマエの事を考えろ」
「……貴様と、私……?」
「だって、ここに居て、あの時の話をしてんのは俺とオマエだろうが。そもそも、オマエが責任感じたり、俺に対して悪いと思うのは、要は『アイツ』の事があるからだろ? けど、俺はそれに対してどうこう言う気はねぇ。こうなったモンはどうしようも無ぇし、他に道があったとしても、俺にはそれが何かは分からねえからな」
 沈黙したルキアの肩に、もう一度触れた。
「俺に謝んなとは言わねえよ。それはオマエの問題だからな。けどな。それ以外の事も、少しは俺に対して考えろ」
 そうして、良く分からないと言いたげな、怪訝な表情を浮かべたルキアを見詰めて。一言だけ、俺は告げた。












次回で終わりです…!(本当は今回で終わらせるつもりだったんですが…(をい)


inserted by FC2 system