深淵に一人佇み


 空虚。虚無。
 何処にも繋がらず、何処へも辿り着かない。
 暗闇など存在しない。只、全てが虚ろな世界。永遠の昼。太陽の無い天に、白濁した空。その空の色を映したかのような地上。
 方形の建造物から崩れ落ちた薄灰色の欠片を掌で弄び、その感触にも飽きて放り投げた。音も無く飛んで、同色の世界に融けるように視界から消える。遙かに下に落ち、砕ける音が遠い残響のように空気を揺らして皮膚に届いた。
 何も無い。誰も居ない。何も起こらない。何も変わらない。何処にも行けない。
 だから、外に出る為には全てを壊すしかない。そんな気がした。
 静かで穏やかで平坦な明かり。何もかもを受け流す静謐が、温い平穏が、皮膚から滲みて神経を焼いて行く。ゆるゆると、緩慢に。真綿で頸を絞めるよりもゆっくりと。決して逃れぬように。
 消えていく。存在した瞬間から、じりじりと削り取られるように世界に呑まれていく。
 ――……厭、だ。
 世界が俺を消そうとするなら、俺が世界を消してやる。俺が呑み込んで、全て俺のものにしてやる。
 刀を握って、立ち上がる。同時に、強い風が大気を鳴らして吹き上がった。虚ろな世界が鳴動する。
 俺は初めて、自分が戦える事に気が付いた。

    ※

 微睡みから覚醒する時は、いつも深い淵の底から浮き上がる感覚がする。水面のぎりぎりの部分で揺蕩う一瞬がもどかしい。執拗に纏わり付く水から身体を引き剥がすようにして目を開くと、夜だった。
 夜は好きだ。多分、闇が侵そうとする世界を斬り裂く光が好きだから。
 ずらりと並んだ窓から、ネオンの明かりが入り込んでいる。ベッドから身を起こすと、彼女を見付けた。
「ルークス」
 『光』と、ラテン語で呼んだ。英語読みよりもこちらの音が響きが良い。声に応じて、傍に居た紫紺の眼がこちらを見る。振り返った拍子に、艶の有る黒髪がさらりと揺れた。
「ラーヴァ」
 呼ばれるコレは英語読み。ラルウァなんてラテン語読みじゃ気が抜ける。意味は『悪霊』とか『鬼』とか『仮面』とか。要は碌でも無い意味だからって理由で気に入ってる、俺の呼び名。本名は知らない。俺自身も含めて、多分誰も。
「……ルークス。俺、何してた?」
「寝ていた」
「そんだけ?」
「何だ。他に何かしていたのか?」
 寝ながら器用な事だな。と、相変わらずの口調で返す彼女。本名はルキア。いつだったか、ルークスって名詞を形容詞の名詞的活用を前提に、無理やり形容詞第三活用の複数主格の中性形にすればルーキアって読みになるなと、どうでもいい事を考えていたのを思い出した。ルチアとかルシアとか、読み方は違っても、英語の辞書でLuciaの原型がラテン語のLuxだと知った時、彼女に似合い過ぎて笑った覚えがあるから。
 光。闇を照らすんじゃなく、打ち砕くような強い光。闇の中で、その眩さ以外何も見えなくなってしまいそうなもの。
 手を伸ばして、触れた腕を掴んで些か乱暴に引き寄せる。倒れ込んできた彼女を不自然な体勢のまま抱き締めると、猫みたいな抗議の呻きを上げた。
「ルークス、猫みてぇ」
「んぅ……ルキア、だ。私は」
「同じだろ」
「あっ、コラ。ちょっ……顔を舐めるな。あははっ、貴様の方が猫ではないか……っ、ラーヴァ」
 笑いながら身を捩る様子が愉しくて、そのままふざけていると、勢い余ってベッドの上に倒れてしまう。今度は彼女がお返しとばかりに手を伸ばして、色素の完全に抜け切った俺の髪を弄り始めた。
 何処かの繁華街に近いペンシルビルの最上階。建物の年季に反して新しい床と、区切りも何も無いだだっ広い部屋。奥の方に、給湯室程度のキッチンと、狭いトイレやシャワー室の水廻り。室内に散っているのは大きめのベッド、統一感も何も無いソファと椅子が幾つかにローテーブル。種類も発行年月もごたまぜの雑誌と、ジャンルの共通性も何も無い本が其処此処に積んである。それこそ新しい物から古い物まで。奥付に検印のある本なんて、どっから持って来たんだか。
 活版印刷の字体は読み辛いが、古い辞書はそれなりに面白い。特に漢和辞典。旧字体だったり、単語の項目に絶対使わないような言葉が並んでいたりで暇潰しには最適。ちなみに英和なんかは古いと正確さに難があるから使ってない。それから目に付く場所に置いてあるのは羅英辞典とラテン語の入門書。前に、ラテン語やっときゃラテン語派生の欧州言語は出来るようになるんじゃねえの、と彼女に言ったら、そこまで行くのは多分無理だろうと冷静に返された。実は俺もそう思う。一応やる気はあったんだけどな。
 思っていると、頭の辺りで声が聞こえた。
「貴様の髪、硬そうなのに結構柔らかいなぁ」
「そうか?」
「ん、触ってると気持ちいい」
「俺はこっちの方が好きだ」
 並んで横になったまま、顔を寄せて黒髪を口に咥える。サラリとして、なのにしっとりと唇に吸い付くような感覚。そのまま毛先に向かって口を滑らせていくと、冷たい感触が気持ちいい。
 電灯の無い部屋に射す外からの明かりで、彼女の瞳に映る自分の姿が目に入った。色までは判然としなくても自分には分かる。脱色したような白い髪。琥珀を透かしたような虹彩。全体的に色素の極端に薄い容姿。
 一番最初、瞼を開いた俺が認識したのは彼女だった。
 視界の中で、驚きと、その他の色々な感情が混ざり合って結局麻痺してしまったような顔をしていた若い女。俺がどうしていいか判らずに、吸い込まれそうな色をした大きな眼を見詰めていると、ややあって彼女は笑った。
「――……やっと逢えたな。お前と……」
 多分それは笑顔じゃなく、有るか無いかの風に僅かに揺れた木漏れ日程度の表情の変化。それでも、俺はそれに見惚れて、どうしようもなく彼女に惹き付けられた。
 それが最初。その前は知らない。何一つ。
 言葉にも一般的な知識にも問題は無い。日常生活に一切支障は無い。なのに、それが何故かは解らなかった。覚えた記憶が無いのに、最初から全て知っている。英語も、使う言語というより知識として知っていた。それに気付いたのは、テーブルに放り出されていた英和辞典を捲っていた時。ついでにLuciaの原義も知った。
 名前が無いと不便だと彼女が言ったから、何故有るのか本人にも分からないらしい年季の入った羅英辞典でLarvaを見付けて、名前にした。知識よりも先に与えられる筈のものを、俺は持っていなかったから。
「ルークス……」
「だから、私はルキアだ。莫迦者」
「呼んで?」
 彼女を抱き寄せて、小柄な身体に擦り寄る。
「俺の名前」
「……ラーヴァ」
 静かな、凛とした声が、鼓膜に甘く響き渡る。
 確かなのは一つ。雨の日。空が昏くて、ネオンが視覚に五月蠅い夜。この部屋で、このベッドの上で。俺は彼女に見付けて貰った。
 それからずっと此処に居る。起きるのはいつも、日が完全に落ちてから。外には時々出る。本は雑多に増えている。
 このビルは彼女の持ち物で、彼女の家も他に在るらしい。けど、きっと余り帰っていない。俺と此処に居て、俺が起きている間は決して離さないから。
 身体を起こし、体勢を変えて彼女を見下ろした。
 漆黒の髪に紫紺色の眼。白さの勝った象牙色の肌。一見して冷たいくらいに整った貌。華奢で小柄な身体。
「ラーヴァ…――っ」
 唇の形を確かめるように、キスをした。何度もしているのに、何度でも確かめたくなる感触。執拗なそれに、苦しそうにしながらも縋り付いてくる彼女を抱き締めて、深く貪る。
 本当は、名前を決める時、一つだけ迷った。ルークスと似た響きのその単語は、ラテン語読みでレークス。意味は『王』。
 止めた理由は何だろう。ルークスと響きが似過ぎているからか、単純に俺が捻くれているからか。自分でも判らない。
 ふと、僅かに唇を離す。吐息が絡む程近くで囁いた。
「――なあ、ルキア。……俺って、何?」
 訊いて、だけど結局答えを聞きたくなくて、唇を塞いだ。
 実際、此処が何処だっていい。俺が何者だっていい。大事なのは、彼女が傍に居る事。彼女が俺のもので、俺が彼女のものである事。それだけで十分だ。

 ――…運命は、俺のものだろうか?

 唐突に、そう思った。
 何かを思い出しそうで、それが厭で、振り払うように彼女に俺の痕を刻み付ける。

 どうせなら、このまま夜が終わらなければいい。












パラレルの上に状況が分かり辛い白一護×ルキア。若干ルキア×白一護かも。取り敢えず白一護が別人…。
ルークスは英語読みだとラックスになります。某シャンプーと同じ。なので白一護は英語読みが嫌い。寧ろ商品名変えろとか思ってたり(笑)
ちなみにレークスはRex。英語読みはレックス。某大型肉食恐竜の一種と同じです(笑)
さり気なく一番普通に甘い作品になってる気が…(何故)取り敢えず、続くかシリーズになるらしいです。


inserted by FC2 system