壊れた心が、癒される音を聞く


 ふと、気付く。
 何かが、ひび割れたような音がした。
 薄氷を踏んだ時のように、堅く、呆気無い音。無数の亀裂が同時に走った、重複して濁音になってしまったような、澄んだと表現するには難しい音。
 俺は、何もしていない。多分その筈なのに、亀裂が広がる音が聞こえる。
 奇妙な程に反響して、音が生じる場所が分からない。
 身を起こして、辺りを見回す。奇妙な程に落ち着いた世界に、何故か寒気を覚えた。
 青い空。流れる雲。はっきりとした明るさ。全て、これまで見なかった筈の色。
 ――何故?
 混乱しながら巡らせた視線が、地面の一角を捉えた。目にする光景を認めたくないと、双眸が凍り付く。
 細かく音を響かせて、昏い小さな淵が地面に呑まれようとしていた。

    ※

 殴り倒した相手がゴミバケツに突っ込んだ音がしたが、それには構わず向き直る。見下ろすと、足元に転がった別の一人がもがいていた。少し強めに蹴りを入れると、完全に動かなくなる。
 どいつだったかが最初に持って殴り掛かって来た鉄パイプは俺の手の中。だが、使いようによっては相当凶悪になるソレは、既に用途を完全に失くしていた。
 路地を埋めるように倒れた複数の人間。降り止んだ雨の中に、僅かに血の匂いが混じっている。
 殺しては無い。おまけに一応、手加減もした。俺の感覚でだけど。
 最後に、奪っても大して役に立たなかった得物を放り出す。ガランと響いて転がった音の余韻が消えない間に、俺の手は彼女を抱き寄せていた。
「――…ルークス。怪我、無いか?」
「ラー、ヴァ……」
 自失から回復した彼女の咽喉から零れ出たのは、掠れて、囁くようになった声。心配になって覗き込むと、紫紺の瞳が困惑を湛えて見上げていた。
「ルークス?」
「あ……私は、大丈夫だ」
「嘘だ」
「嘘では無い」
「じゃあ、何でそんな顔してんだ?」
「それは、」
「何?」
 促すと、僅かに迷って、ぽつりと答えが返る。
「やり過ぎだ……」
「何が」
 言いながら、一瞬流れる彼女の視線の先を見る。
「コイツら?」
「何も、此処までせずとも良い」
「殺して無ぇだろ?」
「そういう問題では無い」
「じゃあ、何だ?」
「だから…――」
「分かったから、あんな連中の事を見んな」
 何だろう。彼女の視線が俺から外れるだけで、凄く厭だ。
 腕の中に閉じ込めて、周囲に転がる光景から彼女を隔離する。ぽつりと、彼女が呟いた。
「私は、何もされていない」
「だから、殺して無ぇ。コイツらが何かしたら殺してた。何もしてなかったから殺してない」
「そういう事では無い」
「俺にとっては、そういう事だ」
 単にそれだけ。他に理由は、何も無い。
 それに応えて、ラーヴァ、と言い聞かせるような声が聞こえた。
「誰かを護る為だからといって、他の人間に何をしても良いという事にはならないんだ」
「――じゃあ、好みだとか綺麗だとか可愛いだとか、そうじゃなくても女だからとか、そういう人間がちょっと人気の無い所に居たり、通り掛かったりして、抵抗する力が無さそうに見えたら、コイツらは何しようとしてもいいのか?」
「それは、違うが……」
「俺はソレを止めた。それって駄目な事なのか?」
「ラーヴァ。そういう訊き方はずるい」
「けど、事実だ」
 黒髪に、手を這わせた。
「卑劣な真似をしようとする。他人を不当に犠牲にしようとする。そんな連中は、返り討ちに遭ったからって被害者面する資格は無ぇだろ。誰かが同情する必要も無い。命が有るなら、ソイツらはその結果に感謝するだけで十分だ」
 僅かな光源でも艶やかさが分かりそうな髪を撫で、訊き返す。
「なあ、俺は間違ってるか?」
「……多分、間違ってはおらぬ。でも、完全に正しい訳でも無い」
「だったら、何処が駄目なんだ?」
 迷いがちに、瞳が揺れた。
「私は、ラーヴァが心配なだけだ」
「何で? 俺は強いだろ?」
「知っている」
「さっきだって、怪我もしなかった」
「ああ」
「じゃあ、ルークスは、俺の何が心配?」
「……迷いが無い所」
「迷った方が良かったのか?」
「違う。お前は、迷いが無さ過ぎる。だから心配なのだ」
「言ってる意味が分かんねえ」
 時々、こうなる。良く分からない平行線の上で、噛み合わないまま会話が続く。
「ルークス。お前、一体、俺にどうして欲しいんだ?」
「――ならば、人を必要以上に傷付けるな」
「ルークスが言うなら努力しても良いけど、多分無理だ」
「何故」
「傷付く度合は人によって違う。俺から見たら同じ程度の傷でも、人によって受け止め方は違うだろ」
 どこまでが平気で、どこからが駄目なんて、そんなの本当に判るんだろうか。
「それに、刺されても撃たれても生き残る人間は居るし、転んだだけで死ぬ人間も居る。俺がどんだけ強くても、そんなとこまで責任持てねえ」
「そんなに、難しく考えなくとも良い」
「難しい事言ってんのはルークスの方だ」
「ラーヴァ、私は……――」
 言い掛けた彼女が、近付いて来るサイレン音に身体を震わせた。俺も、薄明るい通りの方を振り向く。
「もしかして、コレ、通報されたのか? ああ、でも、単なる偶然かも」
「どちらでも良い。早く行こう」
「何で?」
 腕を引く彼女に尋ねると、呆気に取られたような顔が見返してきた。
「何で、では無い! この有様を見ろ! 早く行かねばややこしい事になるではないか!」
「ルークス」
 解らなくなって、問い掛けた。
「お前は俺をどうしたいんだ? コイツらに対する傷害を反省して欲しい? それとも逃げて、コレを無かった事にして欲しい?」
「それ、は……」
「言ってくれれば、その通りにする」
 彼女に促しながら、逆に俺は、自分が今、何を一番聞きたいのかが解ってきていた。
「なあ、教えて?」
 ゆっくりと促す。自覚した以上、こうして訊くのがずるいのは知ってる。だけど、どうしても聞きたかった。
「私、は」
「何?」
 細い肩に両手を掛ける。伏せた顔が上がるのを待つ。
 不意に、真っ直ぐに、睨むように、射るように見上げた瞳とぶつかった。
「――…此奴らの事など如何でもいいっ! お前が心配で、お前に何かあったら厭なだけだ! だから……っ」
 だから、彼女の残りの言葉は、キスで唇ごと塞いだ。


 夜闇と雑踏。その場その場で多い方に紛れ、二人無言でビルの非常口に飛び込む。古い上に狭いエレベーターが頼り無い音を立てて上昇していく中で、今更のように抱き合った。
 大げさに揺れて最上階で停まったエレベーターからフロアに出ると、腕の中で呼吸を落ち着けた彼女が言葉を落とす。
 済まぬ、と聞こえた声。驚いて、訳が分からなくて、気付いたら立ち止まっていた。
「自分でも、分かっているのだ。私は自分勝手で我儘なだけ。何を言っても、何をしても、結局は自分の為でしかない。お前に何かを言える立場では無いな」
「それ、どういう……」
「単なる、私の心の持ちようだ」
「……ゴメン」
「何故謝る?」
「……分かんねえ」
「ならば謝るな」
「でも、ルークスが辛いのは厭だ」
「そうか」
「悲しむのも厭だ」
「うん」
「けど、俺の傍から居なくなるのはもっと厭だ」
「……大丈夫だ。居なくなったりはせぬよ」
 キスを交わしながら囁く言葉。
 願っていてもいつかは嘘になってしまう言葉を、ずっと真実であればいい、と思う。

 俺を置いて行くくらいなら、その前に俺を死なせて欲しい。
 ルキアを失う前に、俺がルキアの手で殺されてしまえばいいのに。
「それは……難しい、な」
 途切れがちになる呼吸の合間にそう呟いて、だけど、瞳を見詰める俺に彼女は告げた。
「私が先に死んだら、直ぐにお前を迎えに行く。お前が先なら、その逆。それでは、駄目か?」
「――直ぐに、だったら。それでいい」

 微笑んだ彼女を見て、ほんの少しだけ心が落ち付いた。













原作と全く別設定なので、白一護の口調が固まって無いような…(←駄目過ぎる)
御題の数から言えば折り返し地点。


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