初めて「ぬくもり」を知った


 広告の裏紙に、雑多に書き連ねられた単語。線を引いたり塗り潰したり丸で囲んだり。様々に踊る文字を大きなバツ印で一気に消して、俺は白紙部分にアルファベット五つを横に並べて書き込んだ。
 ローテーブルの上や下に乗った辞書類を、開いたり閉じたりしている彼女に目を向ける。
「――ラーヴァ」
 問うような視線に、もう一度繰り返す。
「ラーヴァ、にする。俺の名前」
「何語だ?」
「ラテン語。読み方は英語」
「意味は?」
「――bad soul, demon, horrible mask, とか」
「それが気に入ったのか」
 頷く。彼女は、変わっているなと笑ったけど、それでいいのかとは訊かなかった。
「普通の人間は使わねえし。……変か?」
「それを言うなら、私の名前も相当変わっているぞ。お前と違って意味も解らぬしな」
 冗談混じりに言って、彼女は右手を差し出した。
「改めて、私はルキアだ。お前は?」
「……ラーヴァ」
 躊躇いがちに伸ばした手。それを握り返した少し冷たい手と、宜しく、と告げる声が嬉しかった。


 初めて見る街。初めて見る光景。その筈なのに、俺の中に違和感は無い。
 それぞれが好き勝手に主張するネオンに埋められた通りを、手を引かれて歩いていた。斜めに見下ろす位置にある黒髪が、歩くたびに揺れている。
 普通は逆だろうけど、多分、ゆったりと歩く俺の歩調が周囲に合って無いからだ。夜と言ってもそれ程深い時間では無く、人通りもそれなりに多い。
 連なる店や看板ではなく、前を行く黒髪の彼女を眺めていた。その所為で、振り向いた紫紺の眼とすぐに視線が交わる。
「どうかした?」
 軽く驚いたような彼女に尋ねてみる。
「いや……何処か行きたい処は有るか? 見たい物とかでも良いぞ」
「何でも良い」
「たわけ。それが一番困るのだ」
「じゃ、ルークスが行きたい処」
「と言われても……」
 困り顔の彼女に、俺も少し考える。
「なら、ルークスが食べたい物を食べに行く」
「貴様、自分の意見はどうした」
「だから、ルークスに任せるってのが俺の意見」
 駄目? と訊くと、諦めたように繋いだ手を引いた。
「分かった。行くぞ」
 そして着いたのは、全個室の居酒屋チェーン店。日本酒と白玉のデザートという妙な取り合わせの彼女。彼女が頼んだサラダとツマミ類で晩酌に付き合う俺。
 天井近くが大きく開いた薄い壁と襖で仕切られた個室。明る過ぎない照明の下で、彼女はまじまじと俺を見た。
「本当に、脱色したような色の髪だな」
「だから知らねぇって。最初からこうだっただろ?」
「部屋では暗くて良く分からなかったからな」
「……気に入ら無ぇなら、染めてもいいけど」
 どうせ薄くはなるだろうけど、色は入るだろうし。そう、少し拗ねると、俺を見上げてふわりと笑う。
「必要無い。光の加減で銀色にも見えて綺麗だ。プラチナブロンドというやつだな」
 それから俺は、彼女がスプーンに乗せて差し出した白玉を、そのまま口を開いて受け取った。漉し餡を添えた白玉の味よりも、美味いと言った俺の言葉に頷く、嬉しそうな表情の方を覚えている。


「――ほれ、リクエストの品だぞ」
 言いながら彼女が冷蔵庫から出してきたのはケーキの箱。昨日、いつものように、明日は何か食べたいかと訊いてきた彼女に告げたもの。
 開けた箱の中には、白と黒。スタンダードな苺のショートケーキと、チョコレートケーキ。
「此処の店のケーキは甘さが控え目だから大丈夫だとは思うが、口に合うかは判らぬぞ」
 普段は何でも良いと答える俺が頼んだ所為か、わざわざ店を選んで買って来たらしい。
「どちらか一つにするか? それとも両方食べるか? こっちは上がチョコレートでコーティングされておるから、冷蔵庫で一日くらいなら大丈夫だと思うが」
「俺がチョコで、そっちはルークス。――で、半分ずつにする」
 好きな方で良いと言ったら、多分困るだろうと思ったから。案の定、彼女はほっとしたように頷いた。コーヒーでも淹れようか、と立ち上がり、ふと首を傾げてみせる。
「それにしても、わざわざケーキというのも珍しいな。いつも外では甘味ではなかったか?」
 それは、彼女と同じ物を食べたいと思ったから。でも、それは言わずに俺は答えた。
「ルークスのバースデーの代わり」
「……私の誕生日は一月なのだが」
「だから代わり。今日で、一月十四日から丁度半年だから」
「そうなのか?」
「数えた」
 雑誌の上に乗っている卓上カレンダーを指すと、少し呆れたように笑った。
「では、コーヒーの代わりに、この前買ったワインにしよう。お祝い、だからな」
 マグカップに注いだ白ワイン。ローテーブルに箱を平たく広げて、そのままフォークでケーキをつつく。
「美味いか?」
 答える代わりに首肯すると、彼女は何処か嬉しそうに、自分もショートケーキの端を掬い上げる。
「おお、こっちも美味いな」
 美味しい物を食べると無条件でそうなるのか、いつもよりも笑顔が多い。それを見ながら、俺は飾りのチョコレートを半分だけ齧り取り、半分を彼女に差し出した。
「半分」
「おお、すまんな」
 そのままの流れで、直接俺の手から口で受け取る。指先に、触れるか触れないかの唇の感触。じわりと、染み込んでいくように感覚が響いた。
 暫し、ワインを飲みながらケーキを半分近く食べ進んで、今度は彼女が赤い苺を摘まみ上げる。
「食べるか?」
「半分」
「……難しい事を言うな」
「半分食べて、残りを俺にくれればいいだろ?」
 真面目な顔で考えていたが、結局そのまま半分齧り、残りをこちらへ差し出す。詰まる所は、さっきと逆。俺も、同じように口で受け取った。
「って、人の指まで喰う奴があるか。というか苺のヘタまで喰うのか貴――…」
 口から抜き取られた指先。戻ろうとする手を、咄嗟に掴んで引き寄せる。
「……ルキア」
 例え、そうした事に他の理由が有ったとしても、間近で覗いた瞳の深さに全て忘れた。
 唇で触れて、啄むように繰り返して、やがて足りなくなって深く貪る。濃厚なビターチョコレートと、甘過ぎない生クリーム。苺の甘い酸味。夢中になっていくうちに全てが曖昧になって、いつの間にか隙間を埋めるように彼女を抱き締めていた。
 ――それが、最初。

    ※

 目が覚めて、一瞬、自分の状況が解らなくなる。ネオンの余光が差し込む暗い部屋。ベッドの上で、部屋を見渡す形で横になる自分。腕の中では、微かな寝息。
 漸く、さっきまでのが夢だと悟った。
「……ルークス」
 昼夜が逆転しているから、夜に眠る事は余り無い。おまけに、はっきりとした夢を見たのも、内容を覚えているのも初めてだった。昔と呼ぶには余りに最近の、最初の頃の記憶。断続的で、奇妙なまでに明確で、その全てが、俺が腕を絡める彼女で染まっている映像。
 だけど理由は、解っている。

「――コレ、誰のだ?」
 飾り気の無い黒いマグカップを手にした俺に、彼女は一瞬、驚いたような顔をした。相変わらず部屋は暗いけど俺には判る。虹彩の色素が薄い分、暗い場所には強いし、夜目が利く。
「男物、だと思うけど」
「……では、以前に此処を貸していた奴の物だな。忘れていたらしい。何処に有った?」
「シンクの下。奥の方だったから見えなかったかもしれねえけど」
「そうか」
「どうすんだ?」
「別に、使うなら置いておいてもいいし、要らないのなら…――」
 言いながら、ソレを差し出すようにした俺に向かって伸ばされた手。俺は無言でカップを引っ込めると、手首を掴んだ。
「何で?」
 握り込んでも指が余る細い手首を、こんなに強く掴んだのは初めてかもしれない。
「ラーヴァ……?」
「男のなんだな、コレ?」
「だからさっき、」
「コレが別の男のなら、何で色違いをルークスが使ってんだ?」
 表情は変わらない。けど、揺れた瞳ははっきり見える。軽く、マグカップの底を翳した。正確には、印字されたメーカーのロゴマーク。
「同じヤツの白、使ってるだろ? 同じのが良いって俺が言ったら、探したけど見付からなかったって別のを買って来た」
 出来るだけ似た物を探して来たと言われて、何故、嬉しいと思ったんだろう。
「男物って言ったの、ホントは嘘だけど。でも、否定しなかったんなら、男が使ってたって事だろ」
「それは――」
「なあ、俺だけじゃないのか? 俺だけじゃなくて、他にも居るのか? こんな風に飼ってたりした? コレを使ってた奴は何処行ったんだ?」
「違……っ」
「答えろよッ!」
 床に叩き付けたカップが砕ける。その音に身を震わせた彼女の、一瞬走った脅えに、思考が切れた。
 何かを言おうとする口を塞いで、床に敷いたラグの上に押し倒す。そのまま半分以上無理やり、これまでに無い程乱暴に彼女を抱いた――。

 泣くのを耐える様な彼女の顔を思い出して、その記憶に気分が沈む。

 少しだけ落ち付いた俺を、彼女は痛みを堪えた静かな目で見た。
「……中学時代のクラスメートで、事情があって住む場所に困っていたから貸したんだ。彼の親に、世話になった事が有ったし……彼も良い奴だったから。幼馴染という程では無いが、小さい頃に何度か遊んで、共通の友人も居るから何となく気安くて。それで時々、様子を見に寄っていただけだ」
「カップは……?」
「其奴には訳が有って、他に客も無かったから、自然とアレを私が使うようになった。でも、向こうがいつの間にか、あの黒いカップを使わなくなって……。割れたかどうかしたのかと思って、気にも留めなかった。だから、奴が居なくなって、お前が此処に住むようになってからも、何となく使っていたんだ」
「それだけ?」
「それだけだ。本当に。私は……お前は、余り気にしない性質なのかと。それで、話す程の事でも無いのかと思って……」
 済まぬ。と告げた声が悲しげで、何も言えなくなった。
 謝る言葉の代わりに、もう一度。今度はずっと優しく抱いた。それで伝わったのか、俺には良く分からない。

「ルキア……」
 黒い髪を漉いて、眠る彼女にキスを落とす。
 彼女が傍に居れば、平気だった筈なのに。可能性として思考に浮かんでも、気にも留めなかった筈なのに。
 黒い衝動。訳の解らない焦燥感。凡そ初めての感覚に、苛まれてるのは俺の方。だから、あんな夢を見たんだろうか。彼女が居るだけで、笑っているだけで、応えてくれるだけで、嬉しくて仕方が無かった頃の記憶を――今更。
 一度、感情を覚えてしまえば、自覚する前には戻れない。
 彼女を失う事。それ以上に、彼女に他の男が触れるのが許せない。過去でも、現在でも、未来でも。考えるだけで、頭にちらつくだけで、駄目だ。
「ルークス…――ルキア」
 抱き締めて、囁いた。彼女は僅かに身じろぎして、眠り続ける。

 彼女と逢って、触れて。初めて、暖かいと思った。それが続いて、多分、幸せなんだろうと思った。
 それだけで十分で、他の感情は知りたくなかったのに。
 知ってしまった。
 だから――……もう、戻れない。













変わった人間なのでは無く、徐々に感情が生まれてきて、更にそれを自覚しているだけな白一護。それを誤解していた所為で、混乱させられるルキア。
……バレンタインの更新がこんな話でスミマセン(…)


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