優しい時間に幸せを感じて− I


 キャンドルに灯った炎が揺れる。床の上やローテーブルで、水盤に浮かべたフロートキャンドル。相変わらず窓から射し込むネオンは、意識の外に置いた。
 しつこい残暑を払うように稼働するクーラーの低い音。グラスを透かして小さな炎を見る彼女を、軽く抱き寄せる。
 キャンドルから視線を外し、綺麗だな、と微笑って見上げる顔が優しい。俺は、半分に減った白ワインのグラスをテーブルに置いて、抱く腕に力を込めた。
「コラ。ワインが零れるではないか」
「大丈夫」
「大丈夫と言っても……これでは飲めぬ」
 両手で持ったワイングラスを水平にしながら、彼女は腕の中で苦笑する。その手からグラスを取り上げて、俺は訝しげな視線に笑みを向けた。
「こうすれば飲める」
 フルーティーな香りの白ワインを一口含み、そのまま彼女と唇を重ねた。唇を割って舌を絡めて流し込み、そのまま貪る。ローテーブルに押し遣ったワイングラスが、俺のグラスとぶつかって音を立てた。
 こうやっていつも、彼女の時間を独占する。
 キスをしながら、頭の片隅でぼんやりと考えた。そうして俺は、彼女から与えられるばかりの自分を見付ける。俺は、本当は何一つとして持っていない。自身の正体も、本当の名前も、此処に居る意味すらも。
 何も無い。何も出来ない。そう認める事が恐ろしいと思った。だから、些細な行為にすら没頭する。彼女に必要とされなければ、俺は其処で終わってしまう。
 漸く彼女を解放すると、大きく息をしながら倒れ込んできた。
「――っ……少しは、加減せぬか」
「無理」
「……全く、お前は」
 微かに呆れと笑みを含んだ科白。絡んだ視線の先にある、大きな両目を覗き込む。其処此処に浮かぶ炎の色が、紫紺の端で踊っていた。
 もしもこのまま、何も考えずにいられれば。只、彼女だけを見て、彼女だけを感じている事が出来たなら――。
 それはもう、無理なのだと解っていた。
 疑ってしまった。恐れてしまった。見えないものに、存在するかも分からないものに嫉妬する。それを覚えてしまったから。
 瞳に映り込む光を、じっと見詰める。
 ルークス。彼女を、『光』だと思った。闇は、光が無ければ存在しない。混沌とした昏い場所に光が射して、闇と俺を形作ったのかもしれないと、そうも思った。
 俺にとっては、彼女は全てを与えてくれるヒト。だから多分、全てを奪う事すら出来るんだろう。
 静かに身体を離すと、ベッドの横に凭れるように座った。右手が、床に落ちた銀色のライターに触れる。キャンドルに火を灯したソレも、彼女の物。
「……なあ、ルークス」
 表面には、翅を広げた蝶。繊細な彫り込みを指でなぞって、ライターの蓋を開けた。
「――……俺は、何だ?」
 かちりと音を立てて、ライターの先に火を灯す。
「俺は何者で、何で此処にいる?」
 一瞬で消え、そしてもう一度、小さな炎が陰影を作る。
「知りたい」
「答えを、私が知っていると?」
「俺はルキアしか知らない。俺の世界にはルキアしか居ない。ルキアが俺を見付けたからだ。最初の時、やっと逢えた、って、ルキアは言った」
「それは」
「教えてくれ」
「ラーヴァ。お前……」
「知らないままでいるのは、多分無理だ」
 このままでは、多分、何をしてでも聞き出したいと思うようになる。
「ルキア。教えて」
「――……そう、だな」
 躊躇うような沈黙の後。彼女は低く、過去を辿っているような目をして呟いた。
「昔、逢った。だから、そう言ったのだ。ずっと前から、知っていたから」
 炎を点け損ねて、手元から中途半端な音がする。静かな紫紺の双眸が、真っ直ぐに俺を見た。
「『お前』を」
「……『俺』?」
「私が、呼んだのだ……」
 苦しげに続ける。
「出て来いと。其処から出て来いと、そう言った。そして、現れたのがお前だった。だから、応えてくれたと思ったんだ。お前は、何も覚えていなかったけれど。――逢いたいと思ったから」
「何で?」
「脅えていた気がした。此処から出たいと、苦しんでいる気がした。それを、見ていられなくて、気が付いたら呼んでいた」
「――何処だ?」
 告げる声は明確なのに、全てが抽象的な言葉。訊くのは恐ろしい気がしたのに、訊かないではいられなかった。
「俺は一体、何処に居た?」
「――……其処だ」
 彼女が指したのは、俺自身。
「『中』に居たんだ」
「誰、の?」
「――……黒崎、一護」
 知らない。そんな名前は。
「……お前に、此処に以前、住んでいた奴が居ると話したが、正確には違う。此処に住んでいたのは一護で、その中からお前が現れた。一護は、自分の中に何かが居ると言っていた。時々、意識が混乱する。訳が分からなくなる事があると。無理に抑えようとすれば、意識が暴発したように、衝動的に周りの物を壊してしまうと。それがエスカレートして、人を傷付けはしないかと憂慮していた。だから、あ奴は逃げた。何も告げずに家を出て、友人達の前からも姿を消した。そして――それを私が見付けた」
 逢ったのは偶然だった。と、瞳は何処か知らない場所を眺める。
「一護は、中学時代のクラスメートだ。当時は友人の一人として何となくつるんでいたが、殊更他と比べて親しかった訳でも無い。高校は別で、大学も違う。友人や知人を介して消息は知っていても、それだけだ。互いの性格を知ってはいるが、他人のようなもの。逆にそれが良かったのか、一人で抱えるのに疲れたのか……ともかく、曖昧ではあったが話してくれたよ。だから、この部屋を貸したんだ」
 ふと、上げた視線で部屋を示した。
「此処は、広いだろう? 物は余り置かなかったし、窓も合わせガラスだ。多少暴れた所で問題は無いし、此処を知っている人間も居ない。外に出ても直ぐに人混みに紛れる事が出来る。奴にとっては都合が良かった」
 例外は私の存在だけだ、と彼女は笑った。何処かそれは、自嘲に近い。
「今思えば、一護が抱えていた問題を、知ってはいたが実感はしていなかったのだろうな。私は、普段通りに接していたよ。一護が余りにも深刻に悩んでいるのが厭だったから。何度言われても、様子を見に来る事を止めなかった。そしてあの日、一護は……」
 あれは発作、と言うのかな。と、言葉の選択に迷っているように呟く。
「私が聞いて、想像していたものとは違っていた。意識の主導を巡って争っているとか、何かに苛まれていると言うより、追い詰められて、何処かに逃げたがっているような苦しみ方なんだ。いつもああなのか、あの日だったからなのかは判らない。だが、叫ぶような声が一瞬途切れて、顔を上げた時の一護は、『一護』では無かった。それが――寂しそうで、脅えているようで。だけど、出たいと言っているように思えた」
 『一護』は逃げ込む場所を必要としていて、『何か』が外に出たがっていた。
「無意識にそう思えて。そして、昔逢った『誰か』を思い出した。ずっと気になっていたから、それで、深く考えるより先に呼んでいた。一護は暫く私を見詰めて、それから意識を失ったんだ」
「……俺は、『俺』じゃない?」
「『お前』は『お前』だよ。だって、一護の髪はオレンジ色だった。目も茶色で。元々色素は薄かったが、お前程では無かった。だから、驚いたのだ。お前自身は気付かなかったかもしれぬが、『お前』になってから、目に見えて色素が抜けていったから」
「あるんだな。そういう事」
 白銀の髪。薄い琥珀の虹彩。それは少なくとも、俺の色らしい。妙に感心していると、彼女が小さく、すまぬ、と言った。
「黙っているべきでは無いと解っていた。だが、迷っていたのだ。『お前』は『お前』で、一護とは別にちゃんと存在していると思うと、どうすればいいのか分からなくなった。いや……根拠も無いのに、一護が戻るまで、それまでは『お前』と居たいと思ってしまったのだ。私は、」
「ルキア」
 遮って、念を押した。
「俺はその、黒崎一護って奴じゃないんだな?」
「……少なくとも、『一護』では無い。産まれてからずっと、黒崎一護として生きてきた人間では無い」
「――……解った」
 自らの予想に反して、俺自身は冷静だった。寧ろ、事実を告げる言葉に奇妙に納得する。他の感情を全て飛び越えて、静か過ぎるほど落ち付いた場所に立っている。
 俺は、手にしたライターをローテーブルに置いた。













ラストスパート…と言いたい所ですが、終わらなかったというより長くなり過ぎたので三部に分けます(をい)
約9500文字って何だ(…)書く事がそんなに有ったのか、単に腕の問題なのか…(←多分後者)


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