終わりを望みながら、続くことを願っていたあの日は終わる− I


 只、座り込んでいた。
 選択したのは自分。けれど行く当ても無く、戻る事など尚更出来ない。
 明るいと思っていた未来は絶望に繋がって、歩みの先に辿り着くのは孤独。その予感に戦慄を覚えて、耐え切れなくて背を向けた。

 暗闇。人工の明かりが苦しい。雨音が響いて、最悪の記憶を執拗に叩く。
 冷たさと恐ろしさと、埋められない喪失感と還らない後悔。それらを伴った記憶が、五感を這い上がって責め立てる。
 苦しい。逃げたい。忘れたい。いっそこのまま、眠ってしまいたい。
 だって、壊れてしまう。全てを壊してしまう。
 ――此処は、厭だ。
 穏やかで、静かな場所。雨の記憶を思い出さない場所。
 存在する筈も無い世界。不意に、それが見えた気がして、奇妙に穏やかな気持ちで沈んで行った。

 ――嗚呼……そうだ。
 記憶の断片。泡のように、取り留めも無く浮き上がっては弾けていく。それをぼんやりと組み直して、自分を見付けた。
 『黒崎一護』という名の、自分。
 ――『俺』は、逃げた。
 自分の中に居た『何か』から。決して忘れてはならない、けれど受け入れて昇華するには罪の大き過ぎる過去から。
 どちらもが、絡むように加速して俺を追い詰めた。戦う事に疲れて、そもそも向き合う事すら苦しくなって、
 ――逃げたんだ……。
 力無く落とした切っ先が、地面に当たる。開いた掌は、無数の傷と血に塗れている。
 今更のように、傷だらけになった自分を知る。
 此処を、壊したかった。変えたかった。それは、繋がっているようで、結局は何も生み出さない只の衝動。無い物ねだりをする子供より性質が悪い。
 何処にも繋がらない場所に逃げ込んで、自身すら見失う。逃げたいと望んだのは、何より自分だったのに。
 逃げて、全て忘れて。それでも満足出来なくて、結局足掻く。意味の無い連鎖を今更気付く。
 ――何を、やってんだ。何を考えてたんだ、『俺』は。
 情けなさを静かに笑って、刀の柄をゆっくりと離した。
 ――逃げたって、何にもならねえじゃねえか。
 手放した刀は音も無く地面に融けて、余韻も残さず消えていく。酷く簡単に。気が抜ける程呆気無く。
 不意に、ぐらりと大きく傾いた。否、傾いているのは世界そのもの。
 自覚した途端、足が地面を離れた。浮遊感が全身を包む。妙にゆっくりと視界が移る。
 ――空が……。
 下に落ちていると思ったのに、空が横に見えている。何かが起こっているんだろうとは思っても、空を飛ぶ術は無いから足掻けない。
 このままじゃ何も出来ないと分かったから、只、決めて。誓って。ガラじゃないけど願った。
 ――戻るんだ。あの場所に。
 そして、もう一度。どの地点からかは分からないけど、やり直す。今度は絶対に、逃げないから。

 ――もう一度、『俺』にチャンスを与えてくれ。

 ぶつかった筈のビルは、俺を砕かずに自ら割れる。水音が聞こえて、そのまま何故か深い淵の中に落ちていた。
 周囲を、ガラスの欠片が光りながら消えていく。
 戻るべき場所へと思いを馳せながら――綺麗だな、と、どうでもいい事を考えた。

    ※

 夕方降った雨も止んで、温く空気が湿気を含む。相変わらず、人工の冷気に頼る夜。
 慎重な音を立てて、赤ワインのグラスをテーブルに置いた。
「ルキア」
 後ろから、彼女に覆い被さるようにして座る。ふわりと髪を吹き上げて、耳元で囁いた。
「『アイツ』の家、連れてって?」
 肩の震えで動揺が判る。振り向こうとした彼女を、きつく抱き締めて敢えて抑えた。
「いつまでも家を出たままじゃ、駄目だろ?」
「……ラーヴァ」
「一護、だ」
「ラーヴァ。お前は『一護』ではないんだ」
「今は『俺』が黒崎一護だ。もう、前の『一護』は居ない。黒崎一護は、一度過去の記憶を失くして、もう一度始めなきゃならない」
 宥めるように、言葉を継ぐ。これまでとは、何だか立場が逆だ。
「だから、これから作って行くんだ。俺と、お前と、他の連中と。戻れないなら、進むしかないだろ? 迷っても、変わらない」
「……だが、『一護』には家族が居るのだ。父親と、妹達が。お前一人の問題では無い」
「大丈夫だ。上手くやる」
「上手くいかなかったら?」
「それまでだって事だろ。ソイツらと合わなかったか、縁が無かったかで、結局は黒崎一護とその家族の問題だ。いくら家族だからって、無条件で仲良く出来る訳じゃない。過去に拘って、新しい絆も関係も築く気が無いなら其処までだ。ソイツらは、目の前の事を見ずに昔を懐かしんでりゃそれで良い。別に『俺』はどっちでも構わないけどな」
 右腕で抱いたまま、左手で黒髪を漉く。大人しく、されるがままの彼女に、言い聞かせた。
「現実ってのは、特定の一人の記憶の中だけにあるものじゃ無い。ルキアは、知ってる事を言えばいいんだ。黒崎一護と偶然会って、事情を聞いて、部屋を貸した。ある日一護は倒れて、起きた時には自分に関する過去の記憶を失くしていた。元々、訳有りで身を隠したがってた一護の意思を汲んで、ルキアは暫くの間、一人で世話をしてた。けど、いつまでも記憶が戻らないから、結局家族に知らせた――細部はともかく、流れとしてはそれで良い。そのうち誰かが、姿を消す前の一護の様子がどうだったとか、そういう事を補完してくれる。医者は一護の状態を診て、病名でも症状の名前でも何でもいいから原因の説明を付けてくれる。それだけだ。誰もが、そういうものを総合させたり取捨選択したりして、多分これが現実だろうと思うものを自分の中で認識する」
 なあ……と、促す。
「結局、全てを知ってる奴なんて、存在しないんだ。当事者の『俺』もルキアも、『一護』本人だってそうだ。だから嘘にはならない。そして『俺』が、何処かの住人として、誰かの家族や友人や知り合いとして存在してた黒崎一護と、遺伝子や細胞レベルでは同じ人間なのは確かだ。誰がどう考えようと、その事実は変わらねえ。受け入れるか拒否するかは、それこそ当人の勝手だろ。『俺』にはその考えの結果を翻させる手段も無いし、意志も無い」
 言い切って、
「ルキア。直ぐに会わせろとは言わない。でも、いつかはそうしなきゃならないんだ。だから、知ってる限りの『アイツ』の事を教えてくれ。ルキアが一護に、家族の事を教えないなんて変だろ? 最初は、住んでた町を見るだけでも良いから。な?」
「――……そう、だな」
「じゃあ……」
「だが、空座に行くにしても、昼間は駄目だ。夜なら……」
「俺、もう昼でも起きてられるけど?」
「けれど、お前の姿は目立つ。知っている者からすれば、一護と同じだから余計に違いが目立つのだ。家族に会うまでは、無暗に人目に付くような真似は……」
 だから。と、縋る様なルキアの声に、俺は譲歩した。
「分かった。じゃ、夜行こう」
 首肯を返すルキアの頭に、軽く顎を乗せた。
 ふと、思い付く。
「最寄駅の所とか、何か無ぇかな。夜遅くまで開いてる店とか」
「さあ……最近は余りあちらの方には行かぬから」
 何処か歯切れの悪い彼女。その名を、もう一度呼ぶ。
「ルキア。遠出すんなら、ついでにデートしよう。部屋には、朝帰ればいい。っていうか、寧ろ俺はそっちメインがいいけど」
「……というか貴様、朝まで何する気だ」
「え、まあ、色々? ――あ、説明しようか」
「遠慮しておく」
 真面目半分でふざけてみせると、呆れながらも笑いを零す。それに、少しほっとした。
 多分彼女は、普段通りに振る舞おうとはしている。けど、俺には分かった。ルキアは、まだ迷ってる。俺と居るのは良くても、『俺』の代わりに『アイツ』を消す覚悟は出来てない。
 だから、錯覚させる。『アイツ』を消すんじゃない。『アイツ』が居た過去の先を、繋げて、新しく築いて行くんだと。
 本当は、俺にとってはどちらも違う。ルキアと生きて行く為、ルキアを離さない為に必要だから、『アイツ』の代わりに黒崎一護になるだけ。存在しない過去を取り戻す事は不可能だから、単純に、『アイツ』の後に『俺』として生きて行くだけ。『俺』だけが、それを解っていれば良い。そして、『俺』に迷いは無かった。
 『アイツ』の事は、全て過去として思い出せばいい。
「――そう言えば、ルキア」
「何だ?」
「赤ワインって、開けてから常温で暫く置いた方が美味いんだって」
「そうなのか? 赤は余り飲まぬから。……というか、情報源は何処だ」
「その辺の雑誌」
「どの辺のだ」
「忘れた。っていうか、何処にやったか分かんねぇけど」
「……なあ、やはりあの雑誌の山は整理した方が良いと思うぞ?」
「気にしなきゃいいだろ」
「最近、頻繁に雪崩を起こしている気がするのだが」
「そうだっけ?」
「そうだ。というか、それを直す私の身にもなってみろ」
「……だから、どうせ崩れるんだから気にしなくていいのに」
 正直に言ったら、大雑把な奴め、と睨まれた。
「もしや貴様、整理が苦手なのか?」
「苦手とかじゃなく、適度に散らかすのが得意」
「自慢になるのか、それは」
 そう、真剣に眉を顰めていそうな彼女の身体越しに手を伸ばす。ワイングラスの底に残った赤い液体を飲み干すと、グラスをローテーブルに戻しながら体勢を変えた。
「まあ、散らかすというか、寧ろ……」
 自分の身体を横にずらし、彼女を座ったまま抱き寄せる。
「――脱がせんのは得意」
 そのまま、異論を挟ませないよう唇を塞いだ。
 こんな風な日々。彼女と猫みたいにじゃれ合ったり、寄り添ったり、何て事の無い会話をしたり、抱き合ったりする時間。
 それが俺にとっては何より貴重で、それ以上に彼女の存在が必要だから。

 ――彼女の傍にいるのが、『俺』でなければ意味が無い。













と言う訳で最終の筈の第七話。…全然余裕で続きます(…)


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