終わりを望みながら、続くことを願っていたあの日は終わる− II


 街灯の明かりと、時折通り過ぎる車のライト。開けている一方で、何処か滲んだ色の空。
 滑り台やブランコのシルエットを眺めながら、木の幹に背を預けた。腕の中には、彼女。
「――どうだった?」
「どうって言われても……」
 曖昧な問いに、何とか含まれる意図を汲もうとする。
「普通の家族が住んでる普通の家ってのは、あんな感じなのか? それとも、外から見ると大体そう見えるもんかな」
 住宅街の中に在る、医院が併設された家。町医者だと一目で分かる以外は、多分普通の民家。要は、
「家見ただけじゃ、分かんねえ」
「そうだな……賑やかな一家だったぞ」
「過去形?」
「今は分からぬ。私も、長く会っておらぬから」
「まあ、一人が家出してんだったら、前とは違うよな」
「かもしれぬな」
「なあ、俺がルキアを連れて行ったら、あの家族はどう思うかな」
「どうだろう。……驚く、かもしれぬな」
「意外だ、って?」
「言っただろう? 中学の時のクラスメートだった、と。仲が悪くも無かったし、親しかったと言えばそうかもしれぬが、それ以上でもそれ以下でも無かった」
「そっか。良かった」
「どういう意味だ?」
「だって、昔、何かあって。それでルキアが、同じ姿の『俺』とこうなった訳じゃ無いって事だろ」
 だから。と応じると、考え込むような沈黙が落ちた。
「――……それはもしや、心配していたとか、妬いていたとか、そういう事か?」
「……駄目?」
「いや。少し、変わったなと思っただけだよ」
「そりゃ……変わるだろ」
 そして、理由なんて分かり切ってる。
「ルキアと居たから」
 それ以外に、原因なんて無い。最初は、俺の起きてる時間全てがルキアとの時間で、今はルキアと居る事が全ての理由のような気がしているから。
「ルキア」
 少しだけ、屈み込むようにする。
「デートの続き、しよう?」
 答えは、彼女からの軽く触れるキスで返ってきた。
 驚く俺に、たまには仕返しだ。と、笑顔が言う。嬉しくて思いっきり抱き締めたら、苦しいと、やっぱり笑いながら怒られた。


 電車で空座を離れた後に行ったのは、別の駅前にある、二人で何度も行った居酒屋と同じ系列のチェーン店。同じ様な個室で、彼女はいつもと同じ様に白玉のデザートと日本酒を頼み、俺もそれに相伴した。
 デートと言っても、黒崎一護の実家を見る、という一つ大きな例外を除けば普段と同じ。特に何をするでも無く、いつもの外出よりも少し遠出をしたというくらい。それでも、素直に部屋に戻るのは惜しい気がして、初めて歩く街路を二人で歩いた。
「――なあ、良かったのか?」
「何がだ?」
「だって、高いだろ」
「別に、普通だと思うが……。シティホテルのダブルルームだぞ」
「だから」
「だから?」
「俺はラブホテルでいいって…――ッ!?」
「ば、莫迦者! 路上でそういう事を言うな……!」
 正論を言った筈が、何故か腕を引かれて、ついでに口を塞がれた。というか、其処は恥ずかしがって赤くなるようなポイントなんだろうか。
「別に誰も聞いてねえだろ。歩いてんだし」
「そういう問題では無い」
 それなら、どういう問題なのか。真面目に考えるべきか迷っていると、彼女は、とにかく、と無理やり話題を終わらせる方向で続けた。
「奢りなのだから値段など気にするな」
「……ソレを言われると、俺の立場が無ぇんだけど」
「今更だろう」
 きっぱり言われる。反論出来ないから、黙り込むか拗ねるしかない。俺が現金など持っていないのは当然。おまけに一護が持っていた筈の財布や通帳も未だに返して貰っていないから、現状は綺麗に無一文だ。何となく考えてた事ではあるけど、
「……ルキアに捨てられたら、俺って生きていけねえじゃん」
「犬猫ではあるまいし、捨てる訳があるか」
「だって、飼われてるみたいなもんだろ?」
「…………分かった、ああ言ったのは悪かったから拗ねるな。そして往来の真ん中で立ち止まるなついでに座るな頼むから」
 本気で困った顔して懇願されたので、取り敢えずは立ち上がる。
「ほれ、行くぞ。こんな場所で渋滞を引き起こすな」
「ルーキーアー。なあ、あんま高いとこ行かれたら、俺が将来返せねえから」
「ああもう、餓鬼か貴様はッ。――いいか? 発想を転換しろ。日本ではどうだか知らぬが、諸外国では金持ってる人間はその分多くの人を雇って、ついでに多くの金を使って社会に還元する義務があるのだ。私はその義務を忠実かつ誠実に遂行しているだけだ。だから今回は私の奢りだ。さあ、理解したならとっとと行くぞ」
 かなり強引な論理を使って言い放つと、両手で俺の手首を掴んで前進を始める。そのまま引き摺られてみるのも面白そうな気はしたが、流石に今度こそ怒られそうだったので諦めた。
「――なあ、何で此処なんだ?」
 チェックインを済ませた彼女に連れられて行ったのは、宣言通りのダブルルーム。思っていたよりかなり広めの部屋で、突き当たりは全面が窓。ホテル自体も、多分上の方のランクに位置するだろう。本気で一泊幾らなんだ。というか何故、何処かに泊まるという話が此処に繋がるのかが良く分からない。
「都心の夜景が綺麗に見えると雑誌にあったのを思い出してな……」
「見えんのか?」
「高さはまあまあだが、方向が悪いな。……流石にあの時間の予約では無謀だったか」
 何しろ、ついさっき駅前で携帯から予約を入れたばかりだ。予約した当の彼女も余り期待はしていなかったらしい。事実を確認する程度の声音で半分だけカーテンを引くと、あっさりと窓に背を向けた。ミニバーをチェックし始めた彼女の近くで、何となくベッドに腰掛けてみる。スプリングが程良い感じで、気持ちがいい。
「ラーヴァ。何か飲むか?」
「俺は別に……」
「では、リキュールとジュースでカクテル作ってくれ」
 にやりという笑みを浮かべて俺に命じる。背凭れと肘掛けの付いた椅子に勢い良く座った彼女と入れ替わりに、随分と種類が豊富なミニバーをざっと見た。
「ジンとグレープフルーツでいいか?」
「任せる」
 深く腰掛けて床から浮いた両足を交互に揺らす仕草が妙に子供っぽく見える。良くチェックイン出来たな、と怒られそうな事を考えつつ、備え付けのグラスに製氷器の氷を放り込み、ジンの小瓶と缶ジュースの中身を注いだ。見た目は余り洒落てはいないが、彼女は気にした様子も無くグラスを傾ける。
 ベッドに座り直した俺は、その様子を眺めながら口を開いた。
「ルキア。何かあった?」
「何故そう思う?」
「何となく」
「そうか」
 指でグラスの氷をかき混ぜながら、答えが返る。俺が濡れた人差し指を目で追っていると、予想通りに彼女の口に吸い込まれて行った。
「……なあ、ラーヴァ。何をしているのか訊いてもいいか?」
「イヤ、ちょっと誘われてる気分になったから」
「完全に気のせいだ。そもそも、質問の答えは聞かなくて良いのか」
「ん、ルキアが言いたいなら聞く」
 背凭れに手を置き、軽く正面から覆い被さるようにして応じる。彼女が口から抜き取った指の先を、掌ごと掴んで自分の口に含んでみた。
「味などせぬぞ」
「そう? 美味いけど」
 ゆっくりと、舐めたり甘噛みしたりを繰り返す。目が合うと、彼女は僅かに赤くなった顔を顰めてみせた。
「ラーヴァ」
 口が離せないので、視線で答える。
「最近、私を名前でしか呼ばなくなったな」
 一瞬逸れた気と、止まった動きの隙に、捕まえていた手を抜き取られた。
「……あの呼び方、ルキアは気に入って無いかと思って」
「以前は訂正しても呼んでいただろう」
「そうだった?」
「誤魔化すな」
 逃げた手を追い掛けようと伸ばした手を、逆に掴まれた。
「答えろ、ラーヴァ」
「俺は一護だ」
「ラーヴァ。――私は、『お前』と過ごした日を無かった事にはしたくないのだ」
 真っ直ぐな紫紺色。それを見て、見抜かれているのだと知った。
「なあ……」
「だって、ルキアは俺を一護って呼ばないだろ」
 厭な訳ではない。只、受け入れて貰えていない気がした。ルキアにではなく、この世界に。
「だから、ルキアって呼んでれば……」
「ラーヴァ」
 見上げて、彼女は静かに微笑った。
「『お前』が『一護』と違うのは当然だ。それは、いずれ皆が知る事でもある。――だが、それでも、『お前』を知っているのは私だけだ」
 そうだろう? と促す彼女に、頷く。
 そう、他の人間は『俺』を知らない。これまでずっと存在してきた、黒崎一護という人間の延長でしか『俺』の事を見ないから。
「その事を、私だけは忘れたくないんだ。だから、二人の時はそう呼んでいる」
 いつの間にか、髪を撫でられていた。
「二人で居る時だけだ。なあ、それでは駄目か?」
「……俺も、ルークスって呼んでいい?」
「止めても呼ぶだろう、お前は」
「かもしれない」
 俺の『光』だったから。これからもずっと、そうだから。忘れないように。
「だから、これは二人だけの秘密だ」
 そう笑った顔を、本当に綺麗だと思った。

 不意に襲ったのは、唐突な感覚。
 ぐらり、と周囲が揺れる。視界の端にルキアが映って、揺れているのは自分だと気付く。膝から崩れた身体を何かで支え――不安定に揺れる視線を制御しようとして、腕を置いたテーブルの上から、灰皿が落ちていくのが目に入った。
 訳が分からなくて、意識を保とうと何かを強く掴んだ。
 床に座り込んで、身体はもう揺れていない筈なのに平衡感覚がおかしい。呼び掛けるルキアの声が遠い。一瞬、何かに引き摺られるように、意識が飛びそうになった。
 随分久し振りに感じた気がする、何かが纏わり付いてくる感覚。沈み込むような、浮かび上がるような――。
「――ラーヴァ!?」
「…………っ!!」
 突然、普段の重力が戻ってきた。
「大丈夫か!? 一体、何が……どうしたと言うのだ」
「分から……ねえ、けど」
 大丈夫だ。と、続けようとして気が付いた。
 ――まさか。
 厭な予感に、呼吸が乱れる。
 ――まさか、居るのか? まだ? 『アイツ』が……?
 消えたと。そうでなくとも、もう出て来る事は無いと。そう思っていたのに。
「っ! ラー、ヴァ…手を……っ」
 初めて、自分が彼女の手首を掴んでいた事に気付いた。力を入れ過ぎて強張った手を慌てて外すと、その下の象牙色の肌に赤く跡が残っている。
「あ……ルキ――」
「だ、大丈夫だ。それより、お前は……」
「何でも、無いから」
「だが」
「心配、しなくていい。気にすんな」
 気にしないで欲しい。いや、それよりも。
 気付かなくていい。考えなくていい。『アイツ』の事なんか。
「ルキア」
 細い手首に手を伸ばす。
「ゴメン。俺――」
「良いのだ。大した事は無い。第一、お前の方こそ……」
 本当に、大丈夫なのだな。と、念を押す声が柔らかい。それに安心して、頷いて、赤い指の跡に舌を這わせた。
「なあ、ルキア」
「何だ?」
「傍に、居て?」
「ラーヴァ……?」
 すぐ近くに、心配そうな顔がある。軽く、頬に唇を添わせて、彼女を見詰めた。
「な?」
「――お前が、何処にも行かぬなら。私は傍に居るよ」
「そっか……」
「心配か?」
「良く判んねえけど」
 多分、確かめないと、
「不安なんだ」
「珍しいな。そんな事を言うのは」
 不思議そうな、気遣うような声。もう一度、今度は唇にキスを落として、彼女の肩に額を預けた。
「ルークス……ルキア……」
 ――安心、させて?
 囁いて、華奢な身体と細い腕に包まれる。
 鼓動を聞いて、体温を感じて。
 不安定な心を落ち着けて、彼女だけを感じる。
「ラーヴァ…――ッ」
 吐息ごと絡めて、全て抱き締めて。それでも――、

 初めて、怖いと思った。













四部に分けてる癖にそれでも長い…。


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