終わりを望みながら、続くことを願っていたあの日は終わる− III


 夜がやって来る。
 僅かに射し込む西日が消えて、空の色が緩んだ。
 部屋のベッドに座ったまま、外を眺めたままで、聴覚を向けるのはドアの外。彼女の気配を少しでも早く感じたくて、待っている。
 俺の中で、近付いたり遠ざかったりする何か。その正体を、『俺』は知っている。『アイツ』が戻ろうとしてるんだと、知っていた。
 あの感覚が皮膚に触れそうな程近付く度に、その場にルキアが居ない事に安堵する。彼女の前で『アイツ』が現れたら、どうすればいいのか。それ以上に、彼女がどうするのかが怖かった。だけど同時に、
 ――ルキアが居ない時に、『俺』が消えたら――……
 自分が消える事なんか想像もしたくない。だけど、可能性を考えて、心臓が凍りそうになる。
「……『テメエ』は、要らねぇんだよ。出て来るんじゃねぇ」
 今は、『俺』が居るんだ。ルキアの傍に居るのは、俺なんだ。
 ――消えろ。そうじゃなきゃ、ずっと眠ってろよ。……頼むから。
 型の古いエレベーターの重たげな音に、思考を引き戻された。
「ルキア……」
「何だ。最近、起きるのが早いのだな」
「ああ……そうかも」
 答えた俺の顔を見て、彼女は手に提げた大きめの紙袋を床に置いた。普段なら、大抵持って来た物は小型冷蔵庫のある奥の方に持って行く。いつもと違う行動に内心首を傾げていると、そのまま俺の前へとやってきた。
「ルークス?」
「ラーヴァ、お前……」
 近い位置から覗き込まれる。薄暗い視界に紫紺色が広がって、逆に視点が定まらない。
「……何?」
「寝ておらぬのか?」
「どうして、そう思うんだ?」
「鏡を見てみろ。酷い顔をしておるぞ」
「そんなに?」
「ああ。この暗い部屋でも判るくらいにはな。どうした? 何か有ったのか?」
「別に、無いけど」
 嘘じゃ無い。何かが有ったと言うよりも、自分自身に何かが起こりそうだから。
「無いけど、何なのだ」
「あんま眠ってないかも」
「だから、それは見れば解る」
 本当に大丈夫か。と、頭を子供のように撫でられた。次いで軽く額を押し付けて、熱は無いなと呟くのが聞こえる。触れられるのは嬉しいけど、子供扱いなのは複雑な気がする。でも、心配してくれてるのも、心配させたのも事実だから。
「ラーヴァ? どうした?」
「――ゴメン」
「何故謝る?」
「ルキアに、心配掛けた」
「そんな事は気にするな。お前に心配させられるのも、お前に振り回されるのも慣れている」
「……褒められてねえ気がすんだけど」
「褒めてはおらぬからな。――って、其処で拗ねるな」
「じゃ、喜んで欲しいのか?」
「そうではなくて、要はそういう所も含めてお前と居るのが好きなのだと、そんな意味で……詰まりは、私に妙な気遣いなどして無理するなと、そう言いたいのだ。分かったか?」
 俺の質問癖を思い知らされているからか、やけに丁寧な解説が付く。お陰で逆に、意味を咀嚼して理解するのに時間が掛かった。
 何とか理解して、腰掛けていたベッドから立ち上がる。今度は逆に、俺が彼女を見下ろす形になる。
「なあ、ルークス」
「何だ?」
「それ、告白されてると思っていい?」
「……はっ!? え? イヤ、別にそのつもりは……って、違うとかいう訳では無いが、私は普段思っている事を言っただけであって、そんな改めてとか特別にどうこうとかいう意図は無く、ええと……ただ単にお前に私の科白を悪い方に取って欲しく無いと――」
 何に対してか、慌てて言い訳らしき事をし始めたので、取り敢えず思い立ったままに抱き寄せてみた。ついでにそれだけじゃ物足りなくて、ベッドの上に倒れ込む。
「ちょ……っと、ラーヴァ!?」
「何?」
「食事はどうした。と言うか、睡眠不足だったら寝た方が良いのでは……あ、イヤ、だから、そっちの寝るではなくてだな」
「知ってる」
「理解しているのなら、何もせずに大人しく寝ていろ。睡眠は重要なのだぞ」
「それも知ってる」
「では取り敢えず離せ。というか、この手をどけろ。心配せずとも、ちゃんと付いててやるから」
「分かってる」
「だから、分かっておらぬだろう。明らかに」
「知ってるし、解ってるけど、俺はルキアの方がいい」
「あの、な……ッ」
 少しだけ強引に言葉を奪う。例え気のせいでも、傍に居ると安心して、触れていると落ち付くように感じる。
「っ、ラーヴァ。矢張り、何か有ったのだな?」
「かもしれないけど、ルキアと居ると楽になるから……」
 このままで、居て欲しい。

 そうして彼女と、何より自分を誤魔化すように日を過ごす。一日が長いのか、それとも短いのかも良く分からない。
 もしかしたら『アイツ』もこうだったのかもしれないとは思ったけど、大人しく聞き分けてやる気にはなれなかった。だって、『アイツ』を苦しめてたのは『俺』じゃない。最初に居たのは『アイツ』の方でも、『俺』だって此処にちゃんと居る。
 譲る気は無い。ルキアの傍に居たい。
 強く思っても、俺のコントロールを離れた場所で動くものには、成す術が無かった。
 黒崎一護として医者に行けば……と、そんな事まで思って、無駄だという考えで打ち消す。赤の他人に委ねるのは不安過ぎる。第一、自身の記憶を失くした一護、という形を取るしかない『俺』では、逆に『アイツ』を呼び戻されてしまうかもしれない。
 ――何より、ルキアに『アイツ』の存在を知られてしまう……。
 ふと、高く昇っていた太陽に今更気付く。眠った方が良いとは分かっていても、彼女が傍に居ないと眠る気になれなかった。そのまま『俺』が、目を醒ませなかったらと思って。
 多分、恐怖を抱いているのは俺らしくない。だけど、それが事実だった。
 そして――、
 また唐突に、慣れたくも無い感覚が襲ってくる。
 ――何なんだよ、一体!?
 平気だった筈なのに、太陽の眩しさに痛みすら覚える。明るくて、明る過ぎて、欲しい光を見失いそうだ。
 ――消す気なのか? 俺を。
 俺は、消えたくない。この身体を明け渡したくなんか無い。ルキアを、離したくない。
 ――ふざけんなッ!
 湧き上がるのは、焦燥と怒り。
 逃げたのはそっちだ。明け渡したのはそっちだろう。勝手に居なくなった癖に、今更何のつもりだよ。
 ――『一護』!
 強い引力。視界が揺れて、意識がぶれる。呼吸が苦しい。頭に、意味不明な何かが響く。
 嗚呼、まただ。俺を、引き摺り込もうとする。
「っの……野郎っ! 何でだよ!? 何で今更出て来ようとするんだ!?」
 絡め取られそうになる、意識。
「っ――テメエは消えろ! 『一護』……ッ!!」
 叫んで、意識に纏わり付いた何かを一気に振り解く。耳鳴りが消え、天井に反響した自分の声の残滓が、余韻のように降ってきた。頭に響いて五月蠅いほどだった音は、漣よりも早く消えていて、昼の繁華街の遠い喧騒が奇妙に静かな部屋に届いていた。
 大きく、息を吐く。強い現実感。安心する程確かな感覚に安堵する。安堵して――知らずに座り込んでいた俺の耳に、音が聞こえた。
 小さな音。だが、ドアが軋む確かな音。総毛立つような予感と共に振り向いた先には、見たくないと思っていた予想が、形を成していた。
「ル、キア……」
 開け放されたドア。部屋の入口に立ち尽くした彼女。見開いた紫紺の双眸が、俺を見詰めている。
 血の気が引いて行くのが、自分で分かった。
 聞かれた。そして、教えてしまった。彼女に。『一護』が居る、と。
「……ルキア?」
 声が掠れる。瞬きを忘れた彼女の周りで、時が緩慢に揺蕩っている。いつもなら声を聞くのが嬉しいのに、今は彼女が口を開くのが怖い。堰が切れたように時が動いて、全てが押し流されてしまう気がして。
 瞳に映る彼女の唇が、ゆっくりと俺の名を紡いだ。













すみません、あと二回続きます(…)


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