終わりを望みながら、続くことを願っていたあの日は終わる− IV


「……ラーヴァ」
 何処か不安定な彼女の声を、鼓膜が拾う。
 何か言おうと思っても、何も出てこない。思考が止まったように、目前にある光景を只視覚で認識する。
 戻ろうとする『一護』の存在を知って、ルキアは――迷うだろうか。黒崎一護は『俺』じゃなくて『アイツ』だと、思うだろうか。『アイツ』を消そうとする『俺』を、嫌うだろうか。――それとも、
 優しいから、『俺』が消えるまでは傍に居てくれるんだろうか。
 いつの間にか、何処かに堕ちて行きそうな思考ばかりが浮かぶようになっている。だから、自分の身に起こっている事を実感するまで間があった。
「――……ルキア?」
 暖かい、と感じた。すぐ傍に、大好きな匂いと感触があった。
 抱き締められている。ルキアに。
「……なん、で……?」
「それは、此方の科白だ……莫迦者っ!」
 声の中に、知らない響きが在る。
「独りで、何をしているのだ!」
 精一杯力を込めているだろう腕が、震えている。
「何故、黙っていたのだ。私に――『一護』の事を……!」
「だ…って、俺は――」
「不安だったのなら、そう言えば良いではないか! 苦しいなら、無理して隠さずとも良いではないか! なのに……なのに、何なのだ一体!? そんなに私が頼り無いのか!?」
 顔を合わせて初めて、紫紺の双眸から溢れているものに気が付いた。
「……泣いてんの、か?」
「知らぬ、そんな事……っ」
「どうしてだ? 何か、悲しいのか?」
「だからっ、泣いてなどおらぬ! 只、悔しいだけだ! 隠していたお前の事も、気付けなかった自分の事も……腹が立って仕方が無い! 何故…――」
「……ゴメン」
 泣かせているのは、自分だと思った。だから謝った。なのに、
「それは、何に対して謝っているのだ?」
「秘密にしてた。『アイツ』が、戻ろうとしてる事」
「それだけか?」
「『アイツ』が居て、それでも『俺』は消えたくなくて……だから、『アイツ』を消したいと思った」
「それだけ、なのか?」
「……え?」
「他に有るだろう? お前が独りで苦しんで、怖がって、なのに全部隠して無理をして……そうされた私が一体どう思うのか。何も知らずに、ある日『お前』が消えたとして――私がそれをどう思うのか。考えなかったのだろう? だが、隠されて、無理をさせて、独りで耐えさせて……それでもし、本当に『お前』が居なくなって、突然私だけ残されてしまったら。そんな事になったら、私は一体どうすれば良いのだ……ッ!?」
「ルー…クス?」
 頬を濡らして苦しげに睨む彼女に、戸惑う。
「ラーヴァ……勝手な事を、言っているのだとは解っている。それでも、せめて私に相談してくれてもいいだろう。頼ってくれても、甘えてくれても良いから。例え何も出来なくとも、傍に居るだけなら出来るから。……あんな風に、独りで苦しまないでくれ」
「ルークス…ルキア……」
 やっと、気付いた。本当は俺に怒っているのでも、自分を責めているのでも無い。
「『俺』が消えるのを、厭だと思ってくれるのか?」
「当たり前だっ!」
「『アイツ』が、『一護』が居るのに?」
「そんな事は……自分が卑劣だと、酷い人間だとは解っている! それでも、仕方が無いではないか! だって、私は『お前』が…『お前』と――離れたくないと、そう思ってしまったのだ!」
「『俺』は『アイツ』を、消したいと思ってた。今でもそう思ってる。それでも?」
「それも、当然の事だ。理非善悪はともかく、自分の存在を消されそうになったのなら、当たり前だろう?」
「じゃあ、俺はまだ、嫌われてない? ルキアの傍に居てもいいのか?」
「たわけ……」
 ゆっくりと身体が離れて、俺の頬を冷たい両手が包んだ。
「ずっと、傍に居ると言ったではないか。傍に居て欲しいと言ったのは、お前ではないか。傍に居たかったと言ったのは、私だろう? ――忘れたのか?」
 首を振ろうとして、思い留まった。だって、
「信じていいのか、判らなかった」
「大莫迦者だな、貴様は」
「……怒った、か?」
「ああ。――だから、信じろ。この先は、私の言葉を信じていろ。それで、帳消しにしてやる」
 いいか。と、見詰める双眸に頷く。ふと、自嘲混じりに問われた。
「だが、お前こそ良いのか? 一つ言っておくが、私は碌でも無い女だぞ?」
「いいよ。ルキアだから。ルークスだから。俺は、それだけでいい」
 例えどれだけ卑怯でも、酷くても、彼女が俺を想ってくれる事が嬉しい。
「善悪は、相対的なもんだろ? だから、ルキアが誰かに悪いと言われても、絶対って事にはならない。だって、俺は嬉しいから」
「……有難う」
 静かだけど、それでもやっと笑顔が見れた。
「ラーヴァ。お前が望むなら、傍に居る」
「俺も、居たい」
「護りたいと、思っている」
「俺にも、護らせてくれるか?」
「ああ……」
 何かを思い出したように、彼女が寂しげな笑みを浮かべた。
「不思議だな」
「何が?」
「私は、いつも意地を張っていた。心を曝け出すのが得意では無くて、その一方で、人の視線を気にしてしまう。素直では無いのだ。なのに、ラーヴァとこうしていられる」
 不思議だろう? と繰り返す彼女に、首を傾げた。
「私がもし、お前のように素直になれていたのなら、少しは楽だったのかもしれぬな」
「けど――ルキアは、素直だろ?」
「そうだろうか……」
「それに、優しい。だから俺は、そのままがいい」
「……そうか」
 呟く彼女に、頷いた。柔らかな表情が、俺に向けられる。
「ラーヴァ。お前、満足に寝ておらぬのだろう? 少し、眠ると良い」
 迷う風にした俺に、案ずるなと、微笑みが返る。
「私が必ず、起こしてやるから」
 撫でられて、乳白色の天井を眺めて横になった。
 開けたままのドアを、閉める音。静かな足音が近付いて、紫紺の瞳が見下ろしてきた。
「力を抜いて、目を閉じていろ。眠れるようにしてやるから」
 瞼の上に、唇を寄せる感触がする。
「大丈夫。私がずっと、傍に居る」
 囁かれて、宥めるようにキスが降る。優しく触れられて、呼んだ声には唇が応えた。

 求めて、受け入れられるのが嬉しかった。だから、それしか知らなかった。少しだけ寂しくても、構わなかった。
 だけど――彼女から求められるのも、同じくらい嬉しいと知った。

 陽射しが動いて、日が移ろう。色を変えていく空も、濃くなっていく夜も、ルキアの隣から眺めていた。



 『アイツ』が、遠ざかった。
 だけど家の事も、これからの事も、どちらも何も口にしない。
 日々の長さに変わりは無い。だから、何も変えなかった。
 そして今日も、いつも通り。普段通りの夜。少しだけ涼しくなって、何も無い屋上には風が抜ける。
 相変わらず、大して星の見えない夜空を仰いだ。
「この様子だと、明日も晴れになりそうだな」
「ああ……どっか行くか?」
「そうだな……」
 俺の両腕の中に収まるようにした彼女が、数秒だけ考える。
「今度は、きちんと夜景を見に行かぬか?」
「何処に?」
「この前行ったホテルだ」
「前もって予約してか」
「それから、スカイラウンジのバーもな。――何でも、穴場のデートスポットらしいぞ?」
「……何の雑誌情報だ、ソレ」
「言っておくが、貴様の統一性の無い専門的な雑学知識よりはまだ実用的だぞ」
「じゃ、何でゴミ置き場から科学雑誌の束とか拾って来るんだ?」
「何だ。某公共放送のラジオ語学講座のテキストの方が良かったのか」
「それは捨てられてる時点で放送終わってるだろ」
 こんな風に交わす会話も、相変わらず。
「…――で、明日どうするって?」
「食事して、ホテルのバーで飲んで、夜景見て、泊まって帰る」
「分かり易いな」
「だろう? あ、でも、服装はきちんとせねば」
「ジーンズじゃ駄目か?」
「それはまあ、余り五月蠅くは言われぬだろうが。しかし、泊まるだけでは無いから一応な」
「了解。――あ、そうだ、ルークス。前買ってた服着て?」
「あのワンピースか? 良いぞ。ミュールと、アクセサリーはシンプルな物だったな」
「色はゴールド。で、髪は」
「下ろすか軽く纏めるだけ、なのだろう?」
 覚えている、と笑う。
「では、それで決まりだな」
 そして俺は後ろから覗き込むように、彼女は軽く振り向くように、キスをした。
 二人で、非常階段を下りた最初のフロア。四角く磨りガラスが嵌め込まれたドアの先。
 開けた窓から軽く入る風。床に積まれ、ローテーブルに置かれた雑誌と本。クッションに埋もれそうなソファ。ほぼ中央に置かれたベッド。
 窓ガラスから射し込むネオンに浮かぶ部屋。
 この場所で、俺は彼女に見付けて貰った。
「……ルキア」
「何だ?」
 振り向いた彼女に、何かを言おうとした。
「ラーヴァ……?」
 ――ルークス……ルキア……
 何か呟いたつもりだけど、何も言葉にならなかった。

 唐突過ぎる感覚。そして、呆気無いほど容易なそれ。

 声が出ない。音が遠い。身体が在るという、確かな感覚が消えていく。
 ――声が、
 聞こえない。視界が、何かに侵されていく。
 抵抗を考える暇も無く、全てが速やかに遠ざかる。ぼんやりと、最初に見たのと同じ紫紺色を意識の端で捕まえた。水を張っているのは綺麗だけど、何故か嬉しい気はしない。
 泣いてるんだ、と漸く気付いて、ふと思った。

 ――……嗚呼、厭だな……

 『光』が、消える。













次回でラストです。…そういえば二月は二十八日までだった(…)


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