明かりの落ちた校内。窓に射す、街灯からの僅かな光。
風が、いつしか雲を南の彼方へ消し去った。西の方、僅かな残照の軌跡を飲み込み、中天は只、蒼穹の色を深める。
東。二つ三つ、星が強く濃紺を抉る。
澄んで、氷刃を纏う風。張り詰めた冷気が硝子を凍らせ、昇る満月が教室を覗いた。
「――…いつまで残ってるの? 檜佐木」
暗い教室。教壇側の引き戸に凭れるように、覗き込んだ彼女が言う。
「……先生が来るまで」
暗がりの中。最後列の椅子に沈み込むようにいた彼が、答えた。
ぼんやりとした明度に埋もれるように、机の上には散らばった紙とリボン。無造作に置かれた小箱に、ふと視線が引っ掛かる。
ゆっくりと身を起こして、彼女は教室へと踏み込んだ。
「それ……」
「バレンタイン。一日遅れ」
「受け取ったの?」
「机に押し込まれてた」
ひらりと、机から摘み上げられた長方形。無感動に翳す封筒。白く、灰色がかって見えたそれは、薄い桃色。
くすりと、空気が揺れる。興味深げに。
机に落とされたそれを視界に入れながら、ゆっくりと近付く。
空間を埋めるのは、押さえた色味と微妙な明暗。
紙の箱の中で並ぶのはトリュフ。収まっているのは、仕切られ、できた枠の中。六つのうち、二つの中身が欠けている。
「食べてるの?」
「腹減ったんで」
「喜ぶわね、その子」
正面に立つと、彼は顔を動かして動きを追った。なめらかに、長い指が宙を滑る。それがトリュフの一つを口へ運ぶのを、やはり無言で見守る。
一口で含み、彼女は見上げる視線を見返した。
ココアの苦みに続き、周りを包んだチョコが口内で溶ける。軽く転がし、奥歯で噛むと、リキュールの香りが広がった。
「………どうですか?」
「まあまあね」
応じて、指先に付いたココアをちらりと舐め取る。
その仕草を眺め、彼は口許で小さく笑った。
「仕事中じゃないんスか?」
「そうね。……叱っとくべきかしら?」
「自分も食べといてですか」
「他に目撃者はいないわよ?」
面白がる口調の後を、沈黙が過ぎた。
静寂では無い。聞こえるのは、遠くで重なる、酷く微かな雑音。
さり気なく、机を挟んで、彼女が身を屈めた。延びた掌にされるがまま、彼は前へと引き寄せられる。
人の気配の乏しい校舎。
繰り返し、触れ合う吐息が、苦く、甘い。
そしてゆっくりと、互いの距離が離れた。そのまま絡んだ視線が、ふっと外れる。
「いいんスか?」
指した先は、入って来た扉。開け放した先は、空虚に暗い廊下。視界は悪く、見晴らしはいい。
「今は、閉じてる方が都合が悪いわ。気配は分かり難いし、密室から出て行くの、怪しんでくれって言ってるようなものだと思わない?」
「流石っスね」
笑い含みで言った後、「あ、」と、気付いたように相手を見直す。
「今度のテスト……」
「補修はしてあげる。合格点は自分で取りなさい」
「落ちてもいいんスか?」
「そしたら、一年余計に此処にいられるわね」
それから、わざとらしく耳元で囁く。
「もう暫く、秘密にしとくのも面白いから、落ちてもいいわよ」
「心引かれるお誘いっスね」
溜息混じりの言葉に笑んで、身を翻す。
「早く帰りなさい。生徒用玄関閉めるわよ」
「見回り中に何やってんスか」
「遅くまで残ってる生徒を注意してるの」
言って、彼女は後ろを振り向いた。
「罪悪感は、罪を犯したと考える人間が感じるものよ。だから、自覚の無い相手には、全てが無力」
軽いトーンに変わって、言葉は続く。
「何か、悪い事してたのかしら?」
「してないですね」
「なら、いいわ」
最後に、入口で振り向いた。
「さようなら、檜佐木君。寄り道なんかしないでね」
「そうしますよ。……松本先生」
中天に届く月の下。駐車場を歩く手の中で、携帯電話が震えた。
一通のメール。送信者は、「檜佐木修兵」。中身は添付の画像だけ。
見慣れた景色。テーブルに、今朝置いて出た朝刊。
メッセージに、余計な言葉は要らない。笑みを浮かべて、彼女はいつものように、届いたメールを消去した。
いつも通り。データに残るのは、当たり障りの無い、言葉の遣り取り。
隅に停めた国産車。運転席に乗り込んで、荷物を纏めて助手席に寝かせる。
エンジンをかけると、カーステレオから、途切れていた音楽が流れ出す。携帯のアドレスを呼び出しながら、彼女は小さく微笑んだ。
What We Share Is Everlasting
Love Without Demise
通話ボタンを押し、やがて響くコール音。籠った音のその向こう。答える相手に、思いを馳せる。
... Heaven Took Command
――…そう、全て。
だから、迷う理由を何も知らない。
Mariah Carey "Sent From Up Above"