Friends and Enemies


 狹い階段を登り、厚い扉を開けると、噴き出すような勢いでダンスミュージックが流れ出した。
「……よお、吉良。」
「あ、先輩。遅かったですね」
「まあな。それより、どうした。助っ人か?」
「人手が足りないって、頼まれたんですよ」
 工場と古いアパートメントの入り混じる一角に紛れたナイトクラブ。入口脇の机の横で、受付の真似事をしている後輩に、修兵は引っ張り出した五ドル紙幣を差し出した。
「恋次は?」
「もう来てますよ。フロアの何処かにいるんじゃないですか?」
 受付とダンスフロアの境界は、無いに等しい。既に人でごった返しているそこを見て、修兵は釣りを受け取りながら肩を竦めた。
「ま、あいつに探させりゃいいな。……で、お前はずっと受付か?」
「そろそろ終わると思うんですけどね」
「なら、終わったら捜しに来い。多分奥に居る」
 カバーチャージと引き換えに、手の甲にスタンプが押される。彼は、踊りに興じる人垣を避けるように歩き出した。
 二つあるフロアのうち、奥の方。バーカウンターでドリンクを手に入れてから向かうと、いつも占領している壁際のソファには先客が居た。仕方なく、空いた壁に凭れ掛かる。
 流れる曲は様々だ。だが、選曲は悪く無い。空調ダクトが剥き出しの高い天井。ポスターやチラシが貼られ、剥がされたコンクリートの壁。
 二・三度、見覚えのある赤髪を人の頭越しに見た気がしたが、修兵は一人のままだった。彼やイヅルと同様に、恋次もそれほど踊る事には興味が無い。ダンスではなく、他の仲間に捕まっているのだろう。無意味に動く事はせず、その場でプラスチックのコップを傾ける。
 のんびりと中身を飲み干して、空になったそれを弄ぶ。気の向くままに投げていた視線が、前触れなく、ある一点で止まった。
 それは、一人の女。随分と目を引く女だった。
 緩くウェーブのかかった金色の髪。地味では無いが、無闇に飾り立てる事も無い、洒落た服装。プロポーションは雑誌のモデルと比べても遜色無い。
 最も、そんな女にありがちな鼻に付く程気取った様子も、逆に、退廃的で気だるい色気を周囲に流す雰囲気も見られなかった。間違って迷い込んだという意味で、場違いだと言えるだろう。でなければ、男達の視線を残らず集めながら、ああも不機嫌である筈が無い。
 興味を引かれて、修兵は壁から背を離した。
 ノリのいい音楽に乗って、殆んど飛び跳ねているだけの群衆。弾かれ、こづかれながらも人波を掻き分ける彼女に、さり気なく近付いていく。
 今はまだいい。だが、曲が変われば、彼女にとって相当面倒な話になるかもしれない。普段ならば事が起きるまで傍観しておく。しかし、今は暇と好奇心があった。

 何度目なのか数える気にもなれないが、自分の側へと寄って来る男に、乱菊は厳しい視線を投げ付けた。遊び相手の男を探しに来た訳では無いと、看板でも掲げた方がいいのだろうか。この上ない忌々しさを感じつつ、無意味な事を考える。
 しかし、女慣れしていると言わんばかりの表情で、男は懲りずに乱菊の正面に回った。
 ――……好みじゃないわね。
 目的とは関係無く、乱菊は反射的に頭の中で判断を下した。
 一応、顔は悪く無い。自己陶酔の気を撒き散らすのを止めれば、人としても幾分マシになるだろう。なったとしても、彼女にとってはただそれだけの話だが。
 明らかに近過ぎる距離に立ち、自分を口説こうとするこの男をどうするか。辛うじて冷静に乱菊が思考を巡らせた時、男の肩が、ゆっくりと、だが断固とした意思を持って押し退けられた。
 一瞥した男を不満気ながらも引き下がらせた相手に、乱菊はちらりと視線を投げる。短い黒髪、強い瞳。それに、顔に刻んだ青いタトゥー。
「壁際に居た方が声掛けられねえけど」
 言葉は、彼女が回避行動を取る前に告げられた。咄嗟に見上げる。
「此処を歩き回って人捜しは無理だろ。誘われてえんならともかく」
「余計なお世話よ」
 しかし、通り過ぎようと動いた時、人波が崩れた。いつの間にか曲が終わっている。照明が切り変わり、雰囲気ががらりと変わる。ゆったりとした音楽に乗って、意図を持った手が横から乱菊の両肩に伸ばされた。慌てて振り払う彼女に構わず、更に追う手を、先程の男が押さえて止める。一瞬合った目は、寧ろ呆れ混じりに見えた。
「――…この辺にいりゃ、取り敢えず誘いは減るだろ」
 フロアの端。壁際は、上手く群衆から遊離している。壁に背を寄せて、乱菊は僅かに息を吐いた。間隔を開けて立った男に油断無く視線を向けるが、彼の目はフロアの辺りを見るともなしに彷徨っている。
「行かないの?」
 無言で、視線が注がれる。
「踊りに来たんでしょ?」
「別に」
 言葉は短い。
「仲間とだべる。一人になる。俺にとっちゃ、そういう場所だ」
「……そ」
 会話は、それで切れた。

 此処では、誰もがそれぞれの世界に浸る。そして、楽しみ方もまた違う。
 修兵は、気紛れで助けた女の事を考えた。友達に連れて来られた。または、付き添いを頼まれて来た挙げ句に置いて行かれた。そういうパターンだろう。
 一人で来たならとっとと帰る。気が進まないのに残るのは、連れがいるから。それも同性。フロアの何処かで、彼女の連れは自分の相手を見付けているだろう。
 振られれば、恐らく帰る為に彼女を捜しに来る。偶然近くに来れば、彼女から帰ると告げる筈だ。そうでなければ、友情の在り処は後日の問題として、彼女一人で勝手に帰るだろう。この場合、果たしてどれになるのだろうか。
 他人事なのをいい事に、修兵は無責任な選択肢を作る。
 実際、彼女との間に、これ以上の接点ができるとも思えなかった――。
 何処であろうと、都市は二つに分かれている。豊かな場所と、そうでない場所。最近は、郊外と市内という分かれ方もする。
 豊かな層は、家を買って郊外へと移っていく。スモール・タウン。静かで、閉鎖され、治安の良い地域。其処では、メディアを騒がせる犯罪を気にする必要も、施錠に神経を使う必要も無い。
 しかし、貧しい人間は取り残されたままだ。そこははっきりと線引きされ、銀行は居住者への融資を嫌がり、保険会社は加入を渋る。政府は大して当てにならない。結果として、スラム化に歯止めはかからず、そこから誰も抜け出す事はできない。
 わざわざ新聞統計を持ち出すまでも無い。格差は広がっている。貧しい者は益々貧しく、金持ちは益々金持ちに。犯罪を犯せば、貧乏人は刑務所行き。金持ちは腕の良い弁護士を雇って無罪。昨日今日に始まった話では無いが、結構な御時世だ。
 皮肉な気分で、修兵は傍らの女を思った。身に付けた服と、さり気ないアクセサリーを見れば分かる。少なくとも、彼女はそんな憂慮とは無縁だろう。
 生まれついてのものか、実力で勝ち取ったものかはともかく、それなりの成功を望む事のできる現実。
 そう、確かに、勉強とスポーツ。どちらかの能力に恵まれていれば、成功する事もできる。だが、どちらの能力にも半端にしか恵まれていない人間は、一体どうすればいいのだ――……
 事実ではあるが、意味の無い方向に行きそうになった所で、修兵は思考を断ち切った。
 幾度か変わった音楽は、再び賑やかな曲調へと戻っている。一瞬見遣った彼女は、相変わらず不機嫌を前面に押し出したままだ。本人は、全身で拒絶を表しているつもりなのだろう。
 その効果がいつまで持つか。思った途端、修兵は、彼女へ歩み寄る男の姿に気が付いた。何気ない様子で注視すると、異様に馴れ馴れしい口調で話し掛けられた瞬間、彼女の感情が瞬時に怒りへと切り換わる。相手に対して理不尽ではあるが、これまでを思えば無理も無い。
 近付く手を撥ね退け、ついでに身体を力任せに押し飛ばす。しかし、そのまま勢いよく歩み去ろうとする彼女に、修兵は慌てた。
 帰る事自体は問題では無い。問題なのは、向かっている方向だ。頭に血が上って、前が見えていないのか。正直、余り評判がいいとは言えないグループを彼女の行く手に認めて、修兵は舌打ちしつつ身を起こした。

 不意に強い力で腕を引かれ、乱菊は危うい所で声を呑んだ。
「ちょっと、何すんのよ……!?」
「帰るんなら、そっちじゃねえ」
 低く通る声が抗議を制し、腕を掴んだ手が彼女を導く。
「自分が何処向かってるかくらいは、理解しろ」
「何処って……」
 意味を取れない乱菊に構わず、彼は僅かに眉を顰めて足早に進む。困惑が新たな怒りに変わる前に、二人はバーカウンターまでやって来た。
 ついでのように空のコップをそこに置くと、彼は頓着無く、関係者以外立ち入り禁止のドアを押し開ける。慌てた乱菊は周囲に視線を巡らせたが、カウンターの中に居た男は、呆れたように肩を竦めただけだった。
 短い通路を抜け、更にドアを開ければ、既に外。錆の浮いた階段を下り、通りに出た所で、漸く乱菊は解放された。
「何か預けてるか?」
 秋の入り際。入口の横には一応、上着を預ける場所もある。だが、彼女が来たのは単なる付き合いだ。
「いいえ」
「じゃあ、帰りは車か?」
「タクシーだけど……って、何処行くのよ?」
「ここで待ってても来ねえよ」
 あっさり言われ、再び腕を引かれる。そのまま辿り着いたのは、角を曲がった先にある大通り。
「……もう来るんじゃねえぞ」
「言われなくても、こんなとこ二度と来ないわよ」
「そりゃよかった」
 睨み付けるようにして応じた乱菊に、無表情が答える。乱菊は、彼が合図で停めたタクシーへと押し出された。

 タクシーのドアを大きく開けて、彼女の動きが唐突に止まる。
 見守る修兵を振り返り、一瞬、戸惑うような微妙な表情を見せてから、彼女は妙にきっぱりとした口調で言った。
「ありがと」
「………どういたしまして」
 だが、果たしてそれを、聞いたのかどうか。
 音高く、ドアが閉ざされる。修兵の浮かべた苦笑を吹き飛ばすように、エンジン音と排気ガスの混じった風が吹き付けた。
 直進し、それはやがてビルの間に飲み込まれる。何とはなしに、遠ざかる音が途切れるまで見送って、ゆっくりと踵を返した。
 角を戻ると、遠くからは、見慣れた二人。
「先輩!」
「……吉良に恋次か。こんなとこで何やってんだ、お前ら」
「何って…そりゃ、こっちのセリフっスよ」
「クラブから女の人連れ出したって聞きましたけど」
「フラれたんスか?」
「馬鹿野郎、元から口説いてねえよ」
「なら、何やってたんスか」
「単に、危なっかしいんで追い出しただけだ」
「珍しいじゃないですか。いつもは面倒事になるまで放っとくのに」
「お前らがいつまでも来ねえからだろうが」
「仕方ないじゃないっスか。先パイ来てんの、吉良に会うまで知らなかったんスから、俺」
「僕が阿散井くんと会った時は、もう先輩の姿消えてましたけど」
「つーか、好みだったんスか?」
「僕が聞いた話だと、金髪でスタイル抜群の凄い美人だって」
「あーソレ、ぜってー先パイの好きなタイプじゃないスか」
「てめえらには関係ねえだろ。とっとと行くぞ!」
「ちょっと先輩、誤魔化さないで下さいよ……!」
「そーっスよ。結局どーなんスか」
「うるせえッ!」
 先程とは一変し、賑やかな声が行き交う路。何処か遠くから、神経質に鳴るパトカーのサイレンが聞こえる。

 夜の街。虚しく消える響きと、内に籠った喧騒。
 空には、月も星も無い。
 只、それぞれが、信じるものだけが在る。





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