Without -ii


 最初に聞こえたのは、ボリュームを絞った音楽。小さく笑みを浮かべると、手の中で、部屋と車の鍵を下げた皮製のキーホルダーを弄ぶ。
 厚いカーテンを透かした光。壁面に沿って配置されたコンポからの、短い明かりが照らす部屋。硝子の天板が乗るテーブル。二人掛けのソファ。
 白い壁を撫でるように探った手。硬い音と共に、明かりが点いた。
「ただいま。修兵」
「……お帰りなさい」
 部屋の奥では、中古品店で手に入れた大型コンポが、明るい光に姿を晒す。手前のソファから、複雑に見える配線を全てやってのけた当人が、眩しげに身を起こした。テーブルの上に散らばるのは、ラックから取り出したCDケース。
「待った?」
「まあ、そこそこ」
 言いながら、彼はソファから滑り降りる。ハンドバックを肩から外し、寝室へのドアに手を掛ける後姿へ、声を掛けた。
「何か飲みます?」
「ディタがいいわね。グレープフルーツで割って」
「ジュースですか?」
「ちゃんと搾ったのじゃないと不可よ。冷蔵庫に入ってるわ」
「畏まりました」
 笑い含みの声に、彼女はわざと真面目な口調で応じる。
「ちなみに、未成年は飲んじゃ駄目よ。修兵」
「……いいじゃないスか。カクテルなんてジュースと大して変わらないし」
「変わらなくても、アルコール入ってるでしょ」
 続く言葉の代わりに視線を返して、乱菊は寝室の中へ消えた。
 冷蔵庫を開ける音。冷えた細長いグラスに、氷の塊が入る。最初に注ぐのは、棚から下ろしたリキュール。半分に切ったグレープフルーツを搾り、その上に加える。マドラーでかき混ぜ、使った器具は纏めてシンクに。
 開け放したドアの向こうで、立てる音から彼の行動は容易に分かる。手早くスーツを着替えた所で、寝室の入口に影が差した。
「出来ましたよ」
「早いわね」
「慣れたんで」
 電気スタンドの薄明り。リビングからの光を、背に受け、佇む。乱菊が、差し出されたグラスを取ると、そのままするりと背後に回った。
「どうですか?」
「美味しいわよ。……種も入ってないし」
 付け加えて、答える沈黙に小さく笑う。
「最初、修兵が作ると必ず入ってたわよね。グレープフルーツの種」
「そういう事は覚えてなくてもいいっスよ」
「でも、忘れるのは無理そうね」
 霜の降りたグラスをなぞり、流れる水滴を指で潰す。冷ややかなグラス。ヒーターの効いた隣室から、涼しい寝室へと空気が流れる。
「明日、休みですよね?」
「そうなんだけど、学校行くわ。仕事あるから。最近、生徒に関するデータなんかの校外持ち出しにうるさいのよ」
「守ってるんスか?」
「半分ね。じゃなきゃ、教師は学校に住むしかなくなるじゃない」
「大変なんスね」
「そ。だから、修兵は教師にならないでね?」
 さらりと言って、グラスの氷をからりと回す。傾け、含めば、舌に甘い酸味を感じる。粘着くような、ライチの香りが重なった。
「教師同士って、結婚したら、同じ学校に居れないのよね。面倒だと思わない?」
 言葉を、わざと意味深に口にする。振り向くと、口を開こうとした修兵の頬に手を遣った。
「明日、学校行くのは午後にするわ。それまで、此処に居れるでしょ?」
「夜は?」
「居てもいいわよ? でも、学校は家から行ってね」
「厳しいっスね」
「あたし、職場追い出される気は全然無いの」
「俺も嫌ですよ。昼間に先生見れなくなるの」
「分かってくれて嬉しいわ」
 くすくすと、笑い声が空気を揺らす。
 巧みにその身を翻すと、彼の胸に寄り掛かった。遠慮がちに回された腕の中で、ゆっくりとカクテルを飲み下す。
「――…今夜はビーフシチューがいいわね」
 中身が僅かに残ったグラスを置いて、ちらりと後ろを振り返る。腕に籠った力が増して、耳元に吐息が触れた。
「作り置きしたのが冷凍庫にあるわ。それと、サラダ。ご飯は炊くまで時間かかるから、フランスパンを切ってね」
「今ですか?」
「勿論、起きたら作ってって意味よ」
 向き合うように身体を反す。グラスを奥へと押し遣って、その手に当たったランプシェード。後ろ手で探って、明かりが消える。
 背に柔らかい感触は、静かに倒れ込んだベッドの上。意図を持って誘導した修兵が、彼女を面白そうに見下ろした。
「それなら、食後はどうしますか?」
「珈琲。職員室の珈琲って、量はあるけど味はイマイチなの。美味しいのじゃなきゃ飲まないわよ?」
「努力します」
「いい子ね。修兵」
「……子供扱いなんスか?」
「あら、そう思う?」
 相手の身体を押し戻すようにして、身を起こした乱菊は、逆に修兵を見下ろした。半端に開いたドアからの明かりが、互いの顔に明暗を作る。彼女の肩を滑るように、長い髪が零れ落ちた。
「CD…かけたままでいいんですか?」
「止めに行きたいの?」
 肩を両手で押し止めたまま、乱菊は意地悪く聞き返す。一瞬置いて苦笑を浮かべる唇に、焦らすように軽く触れた。
 自分を見上げる頬に、次いで首筋に、じゃれ付くように唇を落とす。そして最後に、もう一度だけ、黒い瞳を覗き込んだ。
「……あたしは嬉しいのよ? 修兵は甘やかしてくれるから」
 答えを閉じ込め、促すように、一際深く口付ける。

 光と共に、寝室へと漏れ出す音楽。グラスの中で、溶けた水に浸った氷。その重なりを、崩して響く澄んだ音。
 硝子の表面に、新たな水滴が浮き上がる。
 遮る指は其処に無い。それはただ、重い軌跡をくっきり残し、デスクの上へと流れて落ちた。





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