露凝香


 酒宴が散じる。めいめいに去る足音が奏でる、一頻りの喧騒。
 繁華街の一角。
 中途で抜け出た彼女は、其の他人事を見るとも無しに見送った。
 黒の死覇装は家陰に溶ける。
 右手に提げる、くすねて持ち出した硝子瓶。小さな瓶に、半ばで清酒が大きく揺れる。
 酔い潰れる意志も、騒ぐ気分も無い。
 去った人々。落ちる静けさ。一時の其れも静寂に遠い。
 割って響く、重なる遣り取り。酒任せとは無縁の快活。

「…――だから無理だって、金無ぇんだし。っつーか俺、今月、本気でヤバイ――…」

 ふと飛び込んだ言葉。くすりと笑んで、視線を投げる。一団が、賑やかに過ぎて行く。
 見送って、硝子の瓶を傾けた。

 雨露が染みて濡れた風。微温い温度に烟る夜気。
 桜月夜。花も香りも届かぬ場所で、彼女を取り巻く夜が深まる。
 干した酒。呼気は甘く揺蕩って、緩い風に散って行く。
 指の先まで満ちるのは、只眠るのにも、只夜を明かすのにも半端な気怠さ。
 思考を動かすのも億劫で、過ぎ行く侭に時を送る。

 ぽつりぽつりと行き交う人。
 暫し途切れたその後に、道を来るのは独り影。
 先刻過ぎた一群の一人。仲間を置き捨て、戻る者。
 記憶に掛かったその貌を、彼女はふっと目に留める。

 何故だろう。
 留めた視線。曳かれたように、動いた瞳が真っ直ぐ受けた。
 甦るのは、聞いて流した彼の声。薄らと、酔いのかかった頭の隅で、ぼんやり何かが囁いた。

 身じろぎして、壁の際に再び凭れる。灯りの残滓に、僅かな露出。
 緩んだ進みを手先で招くと、相手はそのまま歩み来る。
 そうして、陰の中の一歩手前で、止まった男も死覇装。否、僅かに少年だろうか。
 不審そうでも不思議そうでも無い表情に、薄く笑んで声を掛けた。

「幾ら?」

 微かばかりの当惑に、そのまま静かに言葉を継ぐ。

「無いんでしょ? お金」

 見返す瞳に己が居る。上げた指先。相手の胸を軽く突く。

「買ってあげる」

 アンタを、ね。

「…――どう?」

 目を細めて、口元で笑った。
 ほんの僅かに気違い染みた其れは、目の前の、相手の顔へとゆっくり伝染る。
 殻の瓶は、地面に落とした。

 伸ばした手指で、頬の刺青を滑ってなぞる。

「名前、何?」

 初めて、口が開いた。

「修兵」

「……そ、」

 軽く引いて、袖を離して、先に立つ。

「おいで、修兵」

 オカシイ全ては重々承知。
 だから此れは、春ノ闇。

 空の透影、朧月。
 上がる一幕、春の夜の夢。





李白『清平調詩』其の二 「一枝紅艶露凝香   一枝の紅艶 露 香を凝らす」
取り敢えず、怪し気なものが書きたかったらしい過去の自分…(謎)



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