主人と守護霊


 牛車の音が夜闇を行く。二条大路。神泉苑の辺りである。
 此処で、百鬼夜行に遭遇したとの話も聞く。睦月の半ば。満月は雲に隠れて亥一つ。八葉車。従う牛飼童の他に供は無い。
 車は進み、四辻へ。差し掛かるのは大宮大路。
 広い路。東西、南北に交叉した大路の中程。往来の絶えた其処を、響いて渡る牛車の音。
 それが不意に、ふつりと切れた。
 影は無い。闇に紛れたので無く、気配が消えた。
 一時の虚空。余韻に、落ちて滲みゆく無音が響く。
 遠く、松明の灯り。無音を侵して、やがて新たな車の音、従者の足音。
 つい先程の異も知らず、足早に、だが何事も無く過ぎて行く――。
 乏しく闇を払う彼らは、そうして後に、闇を落としてまた去った。


 車宿りに牛車が有った。牛は外れて人影も無い。静かな其れは八葉車。
 音も無く上がった御簾をくぐって、簀子縁から廂の間、更に奥へと踏み入れる。殊更部屋に区切るでも無く、がらんと開けた母屋の中。御帳台の他は、調度も乏しい。
 歩みを止めた彼の傍らを、ふわりと紙片がすり抜けた。
 御帳台の前。畳の上に褥を置いて、脇息に寄った人の影。その前へ、二つの紙片は床へと降りる。先程までは、牛と、牛車に従う牛飼童。――式神である。
 そして漸く、うたた寝から醒めたように、袿姿の女が顔を上げた。
「……早かったわね」
「二条から邸の門に繋げたのは自分じゃないですか」
「人は居なかったわよ」
「当たり前です。見られたらとんだ怪異ですよ」
 苦笑する彼の前へ、するすると、円座がひとりでに押し遣られる。その間にも、廂の間の御簾の向こうで、半蔀が閉められていく気配がした。人の姿の無いままで、それらがなされる事を怪異とすれば、此処ではそれらが当然のように行なわれている。
 円座に腰を下ろしたのは狩衣の男。左頬に奇矯な紋が浮いている。そして、更に不可解なのは対座する女。金の髪、そして碧眼。在り得べからざる色である。
「どうだったの?」
「それは俺が訊きたい所ですね。どうだったんですか? 視た所」
 邸はおろか、母屋の中から出た筈も無い相手に向かって問う。
 しかし返答は、明確だった。
「陰陽寮に任せとけばいいわね」
「暇なんじゃないんですか?」
「他人の仕事取る程じゃないもの」
 都には、安倍家に賀茂家。天下の大事であろうが何だろうが、陰陽師に出来る事なら任せる相手が幾らでも居る。
 あっさり言った彼女に、都を廻って戻った彼女の『目』は苦笑した。
「僧侶や陰陽師に手に負えない怪異なんて、そうそう起こりませんよ」
 都の其処此処で、歪みが起こる。ほんの少しだけ、揺らいで戻る。時には何かを吐き出し、そうして戻る。
 水面の波紋。常に動く都の中で、多くは日々に飲み込まれる。
 鬼も物の怪も、珍しくは無い。害を及ぼすモノには、対する役目の者達が。
 だから、敢えてするべき事など別に無い。
「……どうかしらね」
 ふわりと落とした声に、視線が問う。答えず、彼女は手を伸べた。
「修兵」
 促す言葉。すい…と、男の姿が溶け込んだ。揺らぐように消えて、円座に残ったのは黒い猫。金の双眸が、碧眼を見上げる。
 見鬼、という。幽鬼、物の怪…常人には見えざるモノを視る者を指す。青い眼、或いは二重の瞳を持つとされる。比喩的な特徴付けとも言えるが、彼女は正しく其れだった。
 寧ろ、彼女の力の一端、と言うべきか。
「明らかな怪異は可愛いくらいよ。見えない所で進行する異変が問題なの。あたしにとってはね」
『それで、誰かに知らせるんですか?』
「気付かないならそれでいいわよ。誰も気付かないまま終わらせた方がいい、って事も有るでしょ」
『終わらせるんですか』
「だって、暇じゃない」
 あっさりと、彼女は言った。
 髪と眼。異形と見なされるであろう色の故に、彼女は決して邸を出ない。代わりに動くのは、彼女の半身。其れを通して、彼女は見聞する。
『それなら、命じて下さい。行きますよ。何処でも』
 猫の姿を借りた半身は、円座を降りた。音も無く、高麗縁の畳へ進む。止まって、ゆっくりと彼女を見上げた。
『俺は、陰陽のうちの『陽』。『陰』を補う為に居る。……貴女の為に在る』
 昔、子が産まれた。女。そして、生まれながらに尋常でない力を持つ。ただ、『陰』の気が強過ぎた。
 万物は陰陽二気の消長で成る。打ち消し、同時に補い合う気の、一方への偏り。『陰』は地、月、消極、受動をも表す。赤子は、動くことすら出来なかった。
 本能が求めたのは、自らを補う『陽』の気。力の求めに応じて『陽』気が集まり、『陰』気を補う。強大な『陰』気を補うだけの『陽』気の塊は、しかし、ふとした拍子に彼女の『陰』気を取り込んだ。
 陰陽が、和合する。新たな創成。――半身が生まれた。
 陰陽二気を、半ば共有する二つの『もの』。見方を変えれば力の二分。だが、其処で秤は初めて均衡を示した。
 不可欠な関係性は生まれる。半身は、彼女に『陽』気を補う。彼女は、『陰』気でもって半身を守る――強い『陽』気は幽鬼の類を引き寄せる故に。
 いつしか不定形から有形を取り、そうして特定の姿を取るようになった半身。「彼」の黒い毛並みを、彼女は軽く指先で撫でた。
「必ずしも、あたしがあんたよりも優位って訳じゃないわよ?」
『それでも、最初に在ったのは貴女です。――それに……』
 涼しい様子で言葉を継ぐ。
『乱菊さんに従っていて、これまで退屈した事が無い』
 主従は、視線を合わせた。
「じゃあ、気になる事に関わって、退屈凌ぎする事にするわ」
 軽く、互いに笑みが通った。
『――何処ですか?』
「内裏よ」
『結界が有りますよ?』
 内裏は都の北端、大内裏の中。大内裏は、玉石混交の術が何重にも掛けられた場所である。外から来る悪霊を防ぐ反面、内に居る幽鬼には内部へ閉じ込める形で働く事になる、表裏一体の複雑な結界。
『影響を与えないように結界を抜けるのも、中へ繋げるのも面倒だって言ってたじゃないですか』
「問題無いわ。結界への影響がどうこうなんて、誰も気にしない事になりそうだから。――明日はね」
 脇息に寄り掛かり、意味有り気に頬杖をつく主に、黒い猫は首を傾げる。しかし、肝心の説明をする気の無い様子に、ほんの僅かに溜息を落とした風だった。
『それで、場所は内裏の……』
「清涼殿の東廂」
『何が起こるんです? 帝の座所の殿舎ですよ』
「さあ……面白い事かもしれないし、面倒な事かもしれないわね」
『知らないんですか』
「何でも知ってるより、少しくらいは知らない事が有った方がいいでしょ?」
 さらりと笑って、彼女は、ひょいと「彼」を抱き上げた。
 手付きはまるきり、同形の愛玩動物を扱う其れ。最早日常茶飯事の事態に、いい加減抗議を諦めた「彼」は、大人しく膝の上で丸くなった。
 頭上で、主がしみじみと感心する。
「堂に入ってるわねぇ…修兵」
『………放っといて下さい』



 吹き付けた風が、其処で奇妙に躍動した。
 都の北端が、揺らぐ光に赤く浮かぶ。光の元は、大内裏。
 夜。其処は、飲み込まれるように燃えている。
 取り巻く恐慌と喧騒の中。狩衣姿の若い男は、陰明門に現れた。咎める者も、不審へと思いが到る者も無い。
 視線の先には後涼殿。更に向こうは、清涼殿。
 奇妙に静かな様子で、男は其方へ歩みを進める。左頬には奇矯な紋様。簡略な其れが見立てるのは、鏡映した陰陽勾玉巴。
 この先で、起こる異変は炎に紛れる。そして恐らく、誰にも気付かれぬまま、掻き消すように消えていく――。
 彼女が関わるとは、そういう事だ。
 風が巻く。噴き上げる空気に煽られて、炎と煙が夜を焦がした。

 ――長保二年六月十六日。内裏焼失の夜である。





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