01:BLACK OR WHITE


 前へと進める一歩に水が跳ねた。ばたばたと傘を叩く夜雨は、強まる他を知らない。春に温んだ空気は、速やかに冷気の中へと落ちていく。
 鎖された空。其処此処を店々の行灯に照らされて、夜道の中に広がる闇。
 差し掛けた傘に視界は狭く、自然、彼女は俯き加減に周囲を拒絶する。
 滲み込む土の無い水が、雨に浸った白足袋にかかった。
「――…うっわ、スゲー降ってるっスよ。雨」
 耳に飛び込むのは、滑りの悪い飲み屋の引き戸と、聞き慣れた声の一つ。
「ああ……これは当分止みそうに無いね」
「あ、つーか俺、傘持ってねェ……吉良!」
「嫌だよ。第一、阿散井君と方向違うし」
「先パイ!」
「御免だな。あの天気で持って来てねぇ奴が悪い」
 僅かな予感を引き当てて、聞こえた声に鼓動が跳ねる。
「散々人の酒横から取ってたじゃないスか」
「覚えてねえな。濡れて帰れ」
「ちょっ……何スかソレ!?」
「――あれ? 松本さん……?」
「え? あ、乱菊さ――…」
 呼ばれた名。その途端、乱菊は逃げるように駆け出した。
 狼狽えたような声には耳を塞ぐ。叫びや喧騒、連なる灯りを振り切って、夜の闇へと飛び込んだ。
 闇雲に角を曲がり、敷石が切れた先に続く木々の間。
 伸びた枝に掛けられて、手にした傘が跳ね飛んだ。行くか戻るか、僅かな逡巡。
「……乱菊さん……っ!」
 声は、決める前に追い着いた。
「っ――離して!」
「どうしたんですか、突然」
「何でも無いわよ!」
「けど……」
「煩いわねっ! 修兵には関係無いでしょ!?」
 叫んで、唐突に止まった動き。落ちた沈黙が、二人を圧した。
 強引に、逸らした視線は、不自然に漂う。
「何でも無いわ。ただ……」
 吐いた溜息は、意図せず微かに震えた。
「……仕事の後、誘いに行ったのよ。あんたを。居なかったけど」
 都合良く、偶然に、が、いつも有る訳は無い。
「だから、独りで飲んでたの」
 独りで居るのは嫌ではない。だけど時々、どうしようもなく寂しい時がある。
「すみません」
「謝んないでよ」
「はい。でも……」
「いいから」
「……すみません。乱菊さん」
 悪くも無いのに項垂れる、修兵の謝罪が耳に痛い。
 枝葉の合間に注ぐ雨。流れてそして降る雫。大きく冷たい水滴が、體を叩く。
 寂しいのは、誰かが居るからだろうか。
 締め付けられるような胸の痛みに耐え兼ねて、乱菊はきつく目を閉じた。
 それなら、逃げてしまいたい。何処かに。
 共に笑い合っている誰も、追って来れないような場所に――。
 思って、ふと、目を上げた。
「修兵。あんた、これから何処行くの?」
「乱菊さんの行く所、ですけど」
「それが何処でも?」
「何処でも」
「……あたしが、何処に行ってもいいの?」
「いいですよ。俺は付いて行くだけですから」
 躊躇いも何も無い、恐ろしい程静かな答え。滑落する断崖へと、背を押す声に、しかし反射的に迷いが生まれる。
 独りで行っても、一人を引き込む。
「……狡いわよ」
「乱菊さんから離れない為なら、俺は幾らでも狡くなれます」
「――………」
 返す言葉は見付からず、呻きすらも声にならない。
 ただ、重い體を動かした。
 雨水が流れるばかりの死覇装に、冷えた頬を押し当てる。布越しに、鼓動と体温とを確かめる。知覚する其処へ、心の奥底で、乱菊は冷たい刃を押し当てた。
「あたしは……」
 ゆっくりと、自分を包もうとする腕から身を捩る。そうして解いた腕の上から、乱菊は相手を抱き締めた。
「そうね、今は……何処にも行かないわ」
 息吐くような響きの余韻は、雨音が消す。
「今は、ね……」
 誰もが、床板を隔てて、地獄の上に立っている。
 つまりは、隔てるものは有って、無い。

 ――それでも未だ、あたしが居るのは此方側。





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