前へと進める一歩に水が跳ねた。ばたばたと傘を叩く夜雨は、強まる他を知らない。春に温んだ空気は、速やかに冷気の中へと落ちていく。
鎖された空。其処此処を店々の行灯に照らされて、夜道の中に広がる闇。
差し掛けた傘に視界は狭く、自然、彼女は俯き加減に周囲を拒絶する。
滲み込む土の無い水が、雨に浸った白足袋にかかった。
「――…うっわ、スゲー降ってるっスよ。雨」
耳に飛び込むのは、滑りの悪い飲み屋の引き戸と、聞き慣れた声の一つ。
「ああ……これは当分止みそうに無いね」
「あ、つーか俺、傘持ってねェ……吉良!」
「嫌だよ。第一、阿散井君と方向違うし」
「先パイ!」
「御免だな。あの天気で持って来てねぇ奴が悪い」
僅かな予感を引き当てて、聞こえた声に鼓動が跳ねる。
「散々人の酒横から取ってたじゃないスか」
「覚えてねえな。濡れて帰れ」
「ちょっ……何スかソレ!?」
「――あれ? 松本さん……?」
「え? あ、乱菊さ――…」
呼ばれた名。その途端、乱菊は逃げるように駆け出した。
狼狽えたような声には耳を塞ぐ。叫びや喧騒、連なる灯りを振り切って、夜の闇へと飛び込んだ。
闇雲に角を曲がり、敷石が切れた先に続く木々の間。
伸びた枝に掛けられて、手にした傘が跳ね飛んだ。行くか戻るか、僅かな逡巡。
「……乱菊さん……っ!」
声は、決める前に追い着いた。
「っ――離して!」
「どうしたんですか、突然」
「何でも無いわよ!」
「けど……」
「煩いわねっ! 修兵には関係無いでしょ!?」
叫んで、唐突に止まった動き。落ちた沈黙が、二人を圧した。
強引に、逸らした視線は、不自然に漂う。
「何でも無いわ。ただ……」
吐いた溜息は、意図せず微かに震えた。
「……仕事の後、誘いに行ったのよ。あんたを。居なかったけど」
都合良く、偶然に、が、いつも有る訳は無い。
「だから、独りで飲んでたの」
独りで居るのは嫌ではない。だけど時々、どうしようもなく寂しい時がある。
「すみません」
「謝んないでよ」
「はい。でも……」
「いいから」
「……すみません。乱菊さん」
悪くも無いのに項垂れる、修兵の謝罪が耳に痛い。
枝葉の合間に注ぐ雨。流れてそして降る雫。大きく冷たい水滴が、體を叩く。
寂しいのは、誰かが居るからだろうか。
締め付けられるような胸の痛みに耐え兼ねて、乱菊はきつく目を閉じた。
それなら、逃げてしまいたい。何処かに。
共に笑い合っている誰も、追って来れないような場所に――。
思って、ふと、目を上げた。
「修兵。あんた、これから何処行くの?」
「乱菊さんの行く所、ですけど」
「それが何処でも?」
「何処でも」
「……あたしが、何処に行ってもいいの?」
「いいですよ。俺は付いて行くだけですから」
躊躇いも何も無い、恐ろしい程静かな答え。滑落する断崖へと、背を押す声に、しかし反射的に迷いが生まれる。
独りで行っても、一人を引き込む。
「……狡いわよ」
「乱菊さんから離れない為なら、俺は幾らでも狡くなれます」
「――………」
返す言葉は見付からず、呻きすらも声にならない。
ただ、重い體を動かした。
雨水が流れるばかりの死覇装に、冷えた頬を押し当てる。布越しに、鼓動と体温とを確かめる。知覚する其処へ、心の奥底で、乱菊は冷たい刃を押し当てた。
「あたしは……」
ゆっくりと、自分を包もうとする腕から身を捩る。そうして解いた腕の上から、乱菊は相手を抱き締めた。
「そうね、今は……何処にも行かないわ」
息吐くような響きの余韻は、雨音が消す。
「今は、ね……」
誰もが、床板を隔てて、地獄の上に立っている。
つまりは、隔てるものは有って、無い。
――それでも未だ、あたしが居るのは此方側。