02:KIDS OR ADULT


 星空を雲が横切った。
 日の落ちて久しい道を行くのは、悠然とした歩み。左右に散った家並は、灯りを内に閉じている。街道の途中に自然と集まり、出来た鎮には城壁も無い。ただ漠然と、集落が形を成している。
 白い提灯と下げられた笊は、木賃宿の印。門を叩く音にいそいそと出てきた老婆は、佇んだ男の貌に、おや、と目を見開いて破顔した。
「まあまあ、若旦那。随分御無沙汰だったじゃありませんか」
「泊まれるか?」
「ええ、勿論ですとも。ただねェ…ちょいと正房(おもや)と東の廂房(はなれ)が塞がってまして。しかも何ですか、いろいろと訳有りげなお客さん方ですから、若旦那に不自由お掛けするんじゃないかとね」
「犠牲者は出てねえだろうな」
「あら嫌ですね。ウチはしがない木賃宿。そんな殺生な商売とは無縁ですよ」
 白白しい科白に、くつくつと笑いが返る。
「俺は泊まれりゃいい。第一、訳有りなのはこっちも同じだ。関わり合いにはなりたくねえな」
「でしたら、どうぞ。ご覧の通りの狹いとこですけれどねェ」
 門の中には、申し訳程度の狹い院子(なかにわ)を囲むように、正房と東西の廂房が建ち並ぶ。平屋の三合院造りの家は、小さな街や農村に多い。通常は正房に両親が、東西の廂房それぞれに息子夫婦が住むのが基本だが、此処では、三つの堂屋全てが客房(きゃくしつ)だ。ちらりと見遣った正房と東の廂房からは灯りが漏れ、人の気配も複数有るが、そのどちらも押し殺した声で言葉を交わしている。
「婆さんの方は、変わりはねえのか?」
「ま、亭主は一年前にぽっくり逝っちまいましたけどねえ。アタシら姉妹は元気でございますよ」
「そりゃ難儀だったな。葬式は出してやったか?」
「お陰様で、墓も立派なのをねェ。若旦那からご贔屓に預かっておりますんで」
「ま、何か有りゃ婆さん達の分も持ってやるさ」
「あらまあ、そうですか? それじゃ、太后様の御陵にでも合葬して頂きましょうかねェ」
「こんな強盗婆さんと一緒の墓じゃ、太后とやらも浮かばれねえな」
「あら、若旦那。そんな人聞きの悪い事おっしゃるんじゃあ、ありませんよ。とうの昔に足は洗ってるじゃありませんか」
 廂房の扉を開けて、老婆は灯燭に灯りを点した。入った先はこざっぱりとした起居(いま)。その左右に有る扉は臥室(しんしつ)に続く。一つの堂屋(むね)に起居が一つと臥室が二つ。一明二暗の空間取りが、一般的な民居の造りだ。
「さあさあ、どうぞ。今、手水湯をお持ち致しますからね。お食事は如何しましょうか?」
「適当に作って並べてくれりゃいい。酒は有るか?」
「地酒でしたら良いのがございますよ。それと、ちょいとお勘定を融通して頂ければ、上等のをお持ち出来るんですけれどねェ。蓬壺の銘酒を手に入れる機会が有りましたもんで」
「全く、此処は何が出てくるか分からねえな」
 呆れ混じりに笑って、男は軽く被った濃紺の布を肩に落とした。灯りの中で、黒の髪と頬の刺青とが顕になる。
「折角だ。弾んでやるから上等のを頼む。妙なもんは入れるんじゃねえぞ」
「若旦那にそんな事するもんですか。この婆(ばば)は、一度っきりで懲りておりますよ」
「殺されるまでにならなけりゃ、改心できねえ婆さんだけどな」
「年寄りだけの暮らしはいろいろ物入りなんでしてねェ。息子も娘も居りゃしませんから、自分の葬式代も自分で稼がなきゃならないんですよ」
「昔っからあれで食ってたんじゃねえのか?」
「おや、そうでしたかね。最近物忘れが酷いもんでねェ」
 害の無さそうな顔で出て行く老婆だが、人の良い外見に反して相当な食わせ者である。東の囲墻(へい)に有る木戸の向こうには此方と同様な造りの堂屋が並び、其処に老婆とその妹とが住んでいる。但し、裏の空井戸はどうなっている事やら。何も知らない旅人に薬を盛って昏倒させ、荷物を奪って、死体は空井戸に放り込む。正真正銘の強盗宿だ。――否、だったと言うべきか。
 彼は酒に混ぜた薬を看破して、老姉妹と、当時は生きていた老人とを斬り殺す寸前までいった稀有な例だ。思い立って気紛れで助けてやってからは、若旦那だ何だと有難がられ、逆に安全な定宿にもなっている。ついでに、客から得たあれこれの噂話や情報やらを流させているから、収入源を探すのにも重宝しているが。

「――…最近、また山寨が一つ潰されたとか聞きましたんですけど、あそこは当然でしょうねェ。通る人間から無差別に脅し取って、挙句に近隣の村まで襲ってるんじゃ、緑林の好漢だなんて口が裂けても言えやしませんよ。昔は追剥、強盗稼業にも、貧乏人と雲水と、お尋ね者の逃亡者からは盗らないって決まりがあったもんですけど、今じゃあねェ……」
 運んで来た酒肴を並べながら、老婆はそんな事を話す。抑えた口調は世間話のそれだが、前歴のせいというか、内容は相当にとんでもない。苦笑しながら、彼はさり気なく水を向けた。
「山賊と言や、来る途中で鏢局の荷駄を見たな。最近、名が知れてきてる連中じゃねえのか? 絳(あか)い旗で、羽振りが良さそうだったが」
「絳い……ああ、絳河鏢局とか言いましたかね。河漢の。ええ、確かに最近良く聞きますよ。滄江の中流下流辺りでは、もう一番の鏢局でしょうねェ。北に行く街道でも、荷駄を狙う賊なんてのも少なくなってるとか。出来てまだ十年と経ってないとか聞きましたけど、よっぽど腕が立って、交渉事が上手く無いと、ああは行きませんよ。――ああ…そうそう」
 思い出したように、声を潜める。
「これはお話ししとこうと思ってたんですけどねえ、あちらに泊まってる妙なお客。一人二人と来たのが、最後にはこんな街道から外れた木賃宿に八人ばかりですよ。腕っ節の強そうな、風体の良くない男ばかりだったもんで、アタシらも深入りはしませんでしたけどね。夜明け前に立つって言うんで銀子も弾んでくれましたから。けどねェ、若旦那。妹とも話してたんですが、あれは何かやらかそうってのに違いありませんよ。強盗でしょうかね。さっき食事を運んで行った時には、河漢の辺りが何だとか。まあ、すぐに黙りこくっちまいましたから分かりゃしませんけど。でも、何だか、その絳河鏢局の事も言ってたようですよ。さっき絳河鏢局の荷駄がどうとかおっしゃいましたけど、もしかしたらそれでしょうかねェ。……こう言っちゃ何ですが、明日の朝は早く出るかして顔を合わせない方が宜しいですよ」
「婆さんがそう言うんじゃあ、よっぽどか」
「そりゃ、お節介とおっしゃっても宜しいですけどね」
「いや……」
 ふと考え込んで、彼は意味有り気に目を上げた。
「今日は早く休む。明日は連中よりも早く立った……って事にして、連中が立つまでそっちの敷地で待たせて貰う」
「アタシらは、宿で面倒起こされるのは御免ですよ? それ以外なら、ウチの方でも西の廂房が空いてますから、戻って来て居て下すっても結構ですけどねェ」
「悪ぃな。何をするかは訊くんじゃねえぞ」
「そんな事。訊きたくなんかありゃしませんよ。――ですが、気を付けて下さいましよ? アタシらも、この歳で追剥稼業に戻るのは勘弁して貰いたいもんでしてね」
「生憎、あの程度の連中に遅れを取る気はねえな」
「……まあ、若旦那でしたら大丈夫でしょうけれどねえ」
 面倒事は余所でやって下さいよ、と念を押して老婆が辞去すると、彼は一人残される。
 卓の上に並んだ料理は、地の物を使って、味は確かだ。しかしまずは、杯に酒を注いで飲み下す。ふと、呟いた。
「――…松本、乱菊……か」
 再会したのは数日前だ。最も、向こうは気付いていなかったが。
 これまで、どうしていたのか全く知らない。だが、一つだけは確かだ。乱菊、と呼ぶと、乱菊さんでしょ、と大人ぶって返した少女はもういない。いるのは、腕利きの鏢師を取り纏め、山賊の出現にも冷静に対処する若い鏢頭。
 そして自分も、殊更に生真面目な顔をして、無邪気な好奇心を覆っていた小童(こども)では無くなった。
 あの姿を見てしまっては、乱菊、とは、もう呼べそうに無い。それなら彼女も、昔のように自分を呼んではくれないだろうか。
 修兵、と、呼ばれる事は少なくなった。それでも彼女なら、そう自分を呼んでくれるかもしれない。
 思いもかけず、懐かしい名を聞いた。だが、どうやら縁は其処で切れてはしまわなかったらしい。純粋な興味と、僅かな期待を抱きつつ、彼は再び酒を注ぐ。
 ――あの邂逅と、この偶然。巡り合せは、どんな結果を出すだろう。





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