03:PET OR MASTER


「あ、」
 先程から引っ切り無しに聞こえていた鳴き声の主を見付け、立ち止まる。一瞬遅れて、彼女に傘を差し掛けていた修兵もそれに続いた。
「猫……」
「ですね」
 応じて、そのまま細い脇道へと逸れる乱菊の歩みに、傘を合わせて大人しく従う。わざわざ止めても聞く筈は無く、止める理由も大して無い。
「人に馴れてんのね。飼い猫かしら」
「そうなんじゃないですか? 首輪付いてるし」
 近付く人間を見上げ、当然のように寄って来る。白に薄茶の飛んだ小奇麗な毛並みを、降り続く雨が濡らす。――と、
「あっ……!」
「…っうわ……ッ!」
 足元から、不意打ちの水飛沫。傘の下に入った途端、遠慮無く身体をふるって水気を飛ばす。思わず怯んだ人間を、邪気の欠片も無く見上げる褐色の瞳。
「図々しいわねぇ……」
 寧ろ感心したように、乱菊はその場にしゃがみ込んだ。
 じゃれ付く猫の咽喉元をくすぐり、毛並みを梳かして、最後は猫が白い腹を上に寝転がった所を見ると、どうやら完全に懐かれたらしい。
 そんな乱菊の横に辛抱強く立って、修兵は傘を左手に持ち替えた。
 つーか、これ結構疲れるんスけど……。
 いい加減痛くなってきた手首を振って、有るか無しかに溜息を吐く。
 乱菊と猫から、雨を遮る一本の傘。つまりは、自分の入る余地などたかが知れている。
 それでも、雨に濡れているのは今更の話で、この場合は彼女が飽きるまで付き合うしか無い。
 達観した所で、漸く乱菊が顔を上げた。
「修兵、あんたも撫でてみたら? 可愛いわよ?」
「はあ……」
「何よ。猫、嫌いなの?」
「いや、そういう事じゃなく……」
 帰ろうとかいう選択肢はまだ出て来ないんスね?
 言外の言葉は、当たり前に通じない。僅かにムキになった乱菊に促され、修兵の視界はアスファルトに近い方へと引き下ろされた。

「――…ねえ」
「何ですか?」
「さり気にあんたも懐かれてない?」
「単に、人に馴れてるからだと思うんですけど」
「そお?」
 何故か微妙に不機嫌になりつつ、乱菊は猫と修兵を見比べる。
「……っていうか、はっきり言って変よね」
「いや、何がですか」
「だって、自分で似合わないとか思わない訳? この状況」
「そうさせたのは乱菊さんじゃ――…」
「あ、でも確かに猫っぽいわよね。あんた」
 って事は何? 同類?
 と、くつろぐ猫の頭を軽くつつく。
「つまり、馬鹿でかい猫と思ってんのかしら、修兵を」
「……あの、さらっとおかしな結論に達してませんか。乱菊さん……」
「そういう事なら分からなくも無いわね」
 修兵の台詞を聞き流し、乱菊は一人で納得する。
「あ、そうだ」
 思い付いたように、傍らを見上げた。
「じゃあ、誕生日にプレゼントしてあげるわ。首輪。猫は無理でも犬用の」
「…………冗談ですよね、それ?」
「何よ、駄目なの? 結構いい考えだと思うんだけど」
「どこがですか」
 つーか、流石にそれは本気で止めて下さい。
「いいじゃない。ベルト風のチョーカーもペット用の首輪も、見た目大して変わらないんだし」
「いや、そういう問題じゃ……」
「でも、家猫っていうより野良っぽいわよね、あんた」
 首輪付けてると変かしら。
「逃げた家猫っていうのも悪くないんだけど」
「………乱菊さん、いい加減にその発想から離れませんか?」
 そもそも、どういう流れからそういう話になるんですか。
 そう、珍しく固辞を続ける修兵に、乱菊は渋々と頷いた。
「分かったわよ。取り敢えず保留にしとくわ」
「しなくていいんで、諦めて下さい」
「じゃ、そろそろ帰るわよ。修兵」
 ……ホントに分かったんですか、乱菊さん。
 無視の仕方に一抹の不安を感じつつも、傘の向きに気を付けながら立ち上がる。
 頭上を心配する必要も無くそれに続いた乱菊は、しかし、足首に擦り付けられた柔らかい感触に目を落とした。
「ねえ。もしかして、付いて来たりとかしないわよね? この子」
「さあ……」
「家に帰んなさい――…って、あんたが言ったら聞いたりしないかしら」
「それ以前に俺、猫じゃないんですけど……」
 交わされる不毛な会話と、気を引くように足元から掛かる声。
 雨音はまだ、単調に続く。





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