04:DREAM OR REAL


 僅かに降って止んだらしい、雨の雫が飛んで散る。露を置いた草間を抜けて、影が一つ飛び去った。
 枝葉を重ねた木立の合間。追う人影も、闇に紛れる。
 濃く烟り、淀んだ空気。緑葉が、雨気と共に強く薫る。
 常に灯りの絶えない場所に棲み慣れた身へ、夜が手放す無明の闇が落ちかかる。
 闇の中、影を重ねた辺りは深い。下手に視覚に頼れば、錯覚が起こる。走る足元はふわふわとして覚束ず、幾らも進んだ気がしない。
 ――ふと、気配を見失って立ち止まる。そして次の瞬間、奔った刀。
 振り返りざま、刃がぶつかり、弾いた響き。間合いを取った修兵の髪を、夜へと沈んだ葉色が掠めた。
 間髪入れずに追い縋る刃先。いずれも躱し、刃で受ける。しかしそれでも、斬り返しに転じる決心は付かない。
 惰性のように続く剣戟。焦りのように、音ばかり激しい。
 林間に、一際大きく鳴った一撃。虚しく響き、そして漸く、静寂が落ちた。
「――…いい加減にしなさいよ……」
 低く、押し出すようにそれは聞こえる。
「何のつもりで、あたしを追い掛けて来てた訳?」
 声色が含むのは、怒りと言うより反発心により近い。
「その刀は何の為よ? あたしを斬りに来たんじゃないの?」
 迷うような声が、吐息のようにそれへ応えた。
「死にたくないんじゃないですか?」
「意味が違うわ。死にたくないんじゃなくて、後を追う気が無いのよ」
「それなら――」
「抵抗もしない相手を斬る趣味無いの」
 苛立つように遮って、
「いつまで迷ってるつもり?」
「迷ってる訳じゃありません」
「それじゃあ、何のつもりよ」
「もし、俺が乱菊さんを斬ったら、乱菊さんはどうするのかと思って」
「どういう……」
「ちゃんと、俺に止め刺してくれるのか心配になって」
 呆気に取られたように、ほんの一拍、呼気が止まった。
「駄目ですか? 同じ死ぬなら、俺、そっちの方がいいんですけど」
「……莫迦じゃないの? 心中じゃあるまいし」
「やっぱ、無理ですか」
 あっさりと苦笑した修兵に、苛立ちが募る。
「だったら、俺には無理です」
 言葉に続いた気配で、咄嗟に怒りが爆発した。
「――いい加減にしてっ!!」
 下草に落ち、転がったのは棄てた刀。それは畢竟、選択の放棄。
「拾いなさいよ!」
「無理です」
「そんな訳無いでしょ!?」
「拾ってどうするんですか?」
「決まってるじゃない……!」
「俺にその気が無いから、拾っても無駄です」
 言い切る声に、絶句した。
「俺が死んだら、忘れていいですよ? 俺は、乱菊さんに残される方が嫌なんで」
 自嘲が、空気を揺らす。
「それも結局、自分の為ですけどね」
「っ…だから…――っ!」
「でも、このまま乱菊さんの傍に居れる方法が有るなら、そっちの方がずっといいんですけど」
「無理よ……」
「――そうですか」
 残念そうに言葉が落ちて、乱菊の中で、膨らんだ違和感がざわめいた。
 何かが、大きく食い違っている。互いに何処かが通じていない。
「あんたは…死にたい訳じゃないんでしょ? それとも、生きるのが嫌とか言う訳?」
「違います」
「じゃあ、どうして其処で諦めるのよ」
「諦めなかったら、逃げるか抵抗するしか無いじゃないですか。抵抗しても、俺は乱菊さんを殺せないですから」
「だったら、逃げたらどうなのよ」
「逃げて欲しく無いから、乱菊さんは、あんな挑発したんじゃないですか?」
「……それ、要するに、あたしがそうして欲しいと思ったから、あんたはその通りにしたって事?」
「俺は…――」
「あたしを、理由にすんのは止めなさいよ!!」
 そうする事の、意味を分かっていないのだろうか。
「何であたしが、あんたを死なせる理由になんなきゃいけないの? 何で勝手に、あたしに命を預けてんのよ!」
 睨んだ先は、闇が覆って判然としない。
「あたしのして欲しいように、あたしの都合のいいように振舞って、それであんたは何をどうしたいの? 自分の意志は有るでしょ? なのにどうしてあたしだけ……」
 最初は、単純に安堵した。話したくない事を誤魔化す必要も、訊かれないだろうかと身構える必要も無かったから。そうする修兵に申し訳無く思っても、止めて欲しいとは思わなかった。
 違和感を、覚え始めたのはいつだろう。否、違和感よりも、落ち着かなさ。
 そして思い至って、唐突に感じたのは強い恐怖。無意識のうちに、自分が一人の生死を左右させるかもしれない――。
「あたしに、あんたの全てを背負う覚悟なんて、有る訳無いじゃない!!」
 弾かれたように息を呑んだ気配が、この夜漸く感じた、修兵の気配だった。

 呼吸を深くして、乱菊は右手に下げた自分の刀を重たげに支える。言いたい事は無数に有ったように思えたが、一度幾つか口にすると、何故か容易に枯渇した。
 頭の中を、声に出した言葉の断片が駆け巡り、そして思考が上手く巡らない。
 二人の間を、闇に紛れて沈黙が続いた。
「……俺は」
 ぽつりと、声が辺りに落ちた。
「怖かったから……」
 顔を上げると、不明瞭な視界の先から、修兵の視線を感じた。
「何かを訊いたら、乱菊さんは昔を思い出すんじゃないかと思って。其処には俺が入る余地なんて無い。それを思い知らされるのが怖い。だから、乱菊さんが訊かれたくないと思ってたのは、丁度良かった」
 虚を衝かれて見返す乱菊に、修兵は静かに続ける。
「俺は、乱菊さんの傍に居れなくなるのが怖い。だけど、俺が乱菊さんの都合のいいようにしてれば、乱菊さんは居なくならないんじゃないかと思ったから」
 苦く笑って、息を吐いた。
「だから結構、必死でしたよ。今思えば、必死になり過ぎて、そうしてる事が分からなくなってたような気もするんですけど。――やっぱそれって、乱菊さんに全部の責任押し付けてるのと変わらないんですかね」
 すみません、と小さく続けた修兵の言葉に、漸く、乱菊の中で腑が落ちた。
 互いが、正面から向き合う事を何処かで同じように避けていたから、馴れ合いのような安堵感があったのだ。最初が奇妙に上手くいったせいで、このままでいいのだと錯覚した。その為に、互いの気持ちを殊更知ろうとする意志も失った。
 そう…だからこそ、違和感を感じたとしてもその正体は掴み難い。見えないものを邪推して、酷く恐れるのは、本能ではなかったろうか。
 悟って、同時に呆然とした。
「……――莫迦みたい……」
「すみません」
「――違うわよ」
「そんなつもりじゃなかったのに……俺は自分の事だけで、乱菊さんがそう思うなんて考えなかった」
「……そういう意味じゃないわ」
 考えが至らなかったのは当然だ。これまで傍に居て、知るべき事、乗り越えるべき事を全くしようとしなかったのだから――。
「ごめん」
 泣きたい位に可笑しくて、座り込みそうになるのを辛うじて抑えた。
 苛立って、一方的に責める前に、するべき事など幾らでも有った。一緒に居て楽だという事と、互いの関係に怠惰である事は全く違う筈なのに。
「ごめんね……」
 溜息のように繰り返した乱菊へ、酷く迷って修兵は近付く。
「乱菊さん……」
 逡巡を顕わにした手が、闇を探るように前へと伸びて、乱菊は草上に刀を投げ出した。
「莫迦じゃないの!?」
「っ……!」
 勢い良く飛び込まれたせいで、咄嗟に支え切れず、修兵は半ば乱菊を抱き止めるようにして倒れ込む。
「そんなにあたしが信じられなかった訳!?」
「すみま…――」
「謝るのは止めなさい!」
 謝罪をきっぱり遮って、
「あたしのせいでもあるんだから……」
 ぶつかるように、抱き締めた。
「昔の事は、無かった事には出来ないし、見ないフリしてても仕方ないって分かってるから……分かってて、ちゃんと決心が付いたから。だから修兵も逃げないで」
 目を逸らしては、決して前には進めない。
「あんたがあたしを諦めないなら、あたしはちゃんと傍に居るわよ」
「……本当ですか?」
「当たり前でしょ。修兵が居るのに、あたしが何処かに行く理由なんて無いじゃない」
 修兵が諦めて、乱菊が諦めなければならなくなるまで、共に居る。
「…――簡単でしょ?」
「はい。……でも」
「でも簡単だから、時々難しいかもしれないけど……」
 ゆっくりと、頷くような無音の後、思い出したように、乱菊の背に腕が回った。
「乱菊さん、すぐ近くに居るんですね」
「どうしたの?」
「暗過ぎて、良く見えないから」
「何よ。夢の中に居るみたい?」
「それに近い感じですかね。……実感は在るのに」
「いいじゃない」
 明快に、拘り無く言葉が返った。
「もし夢でも、醒めた後に覚えてればいいのよ」
 初めて声が、柔らかく笑う。
「――…きっと、同じ夢を見てるから…――」
 もう一度、強く寄り添い、そして静かに吐息が混じる。
 揺れる風。夜闇は、全てを包んで夢へと誘う。





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