05:SUNRISE OR SUNSET


「今日は他に仕事は?」
「あー…今更入らない事を祈りたいモンだねェ。鏢頭二人残ってんのが不思議さ、全く」
 片手間に帳簿を捲りつつ、茶を啜っていた番頭は、入口から顔を覗かせた乱菊に肩を竦めてみせた。
「見事に出払ってるわね。っていうか、もしかして鏢師残ってないんじゃない?」
「いーや、悪童どもならしっかり残ってるとも。あいつら駆り出す破目になった暁には、ウチの評判どうなんだかね」
「いろんな意味で問題起こしそうね。――依頼完遂する為に」
「後始末に苦労すんのはこっちだっつーのに、あの餓鬼ども……」
 齢四十の才女が口にするべき台詞回しでは絶対に無いが、有る意味で地が出ているとも言う。
「ま、今から来られたって明日に回すから安心しときな。大金積まれたら、あんたと広忠に出て貰うしかないけどさ」
「護衛対象によるけど、お断りよ。鏢師見習い連れてくのも御免だけど」
「だったら、とっとと日が落ちるのを祈っとくんだね。どうせあと半時だろ。序に、有栄に一刻早く門閉めろとでも言っときな」
「そうするわ。……有栄、門に居るわよね?」
「一緒に命を消す勇気が有んなら、居ないだろうね」
 至極分かり難く、且つ物騒な台詞に苦笑しつつ、乱菊は帳場を後にした。

「――…有栄、あんた何やってんの?」
「門番」
「門の上で?」
「細かい事は気にすんな。上でも下でもやってる事に違いはねぇぞ」
「違いが有るから下りなさい」
「何でだ? つーか、何しに来てんだ。乱の姉貴」
 そう、大門(おもてもん)の屋根の上で器用に寛いでいる弟分に、乱菊は呆れを隠して眉を顰める。殊更声を低く出した。
「番頭からの伝言よ。日没より一刻早く門閉めて」
「……そんなに仕事が嫌なのか?」
「嫌なのは、鏢師が皆無なこの状況であって仕事じゃないわよ」
「あのなぁ、姉貴。鏢師見習いってのは未来の鏢師で、出来損ないの鏢師じゃねえぞ」
「つまり、今はまだ鏢師じゃないんでしょ?」
「…………成る程」
 詭弁に納得したらしい。
 鋭いのか単純なのか。何が有ろうと、常に変わらずこの調子だ。底が見えないと言うより、器量が量れないと言った方がいいだろう。莫迦か大物かのどちらかだ、とは絳河鏢主の言である。どちらも種類と程度が有るが、さて、答えはどうだろう。
 思った所で、
「あ、乱姐。良かった……!」
 歳相応に可愛らしい声と共に、垂花門(ちゅうもん)の中から一人の少女が飛び出して来る。振り向く乱菊に飛び付いた。
「さっきから探してたの。明日の夜、皆で柳家楼に行こ? あたしと乱姐と広兄と楓姐と海燕兄」
「俺は?」
「知らない」
 門を見もせず、すっぱり言って、彼女は期待を込めて乱菊を見上げる。年の頃なら十三・四。実の父親を見知っている者なら、暫し完全に絶句する程愛らしい。ついでに言うなら、この少女自身を本当に良く知っている者なら、愛くるしい笑顔に黒い影がちらつく事実に絶句する。
 そこはかとなく嫌な予感を覚えつつ、乱菊は笑顔で少女に返した。
「仕事が入るかどうかが分からないんだけど、もし空いてたらいいわよ。――だけどね、姫寿(きじゅ)。柳家楼って高くない?」
「ううん、大丈夫。全部一銭残らず海燕兄に払わせるから!」
 最高の笑顔。――…可及的速やかに、空気が止まった。
「……えっと…ね、姫寿。一応訊くけど、鏢頭の志波海燕があんたに何かやった訳?」
「別に、そんな事無いよ」
 若干表情が強張りつつも穏やかに尋ねる乱菊に、姫寿は爽やかに笑む。
「只、海燕兄に都さん取られたのが、何だかとっても心の底から腹立つだけなの」
「あの……もしかしてあんた、まだ二人の結婚赦して無かったの?」
「うん。だって……酷いよね。海燕兄ってば、私の度重なる陰湿な虐め一歩手前の嫌がらせにもめげずに、如何にも無駄に格好良く、都さんを攫ってくんだもん」
「……っていうか、あの事故の数々はもしかしなくても全部意図的だった訳……?」
「だから開き直って、事有る毎に盛大に嫌がらせでもしないと私の気が済まないの。でも、食事は私一人よりも皆で行った方が楽しいし、ずっと負担も大きくなるでしょ? 広兄誘ったら、面白そうだからやってみろって言われたの」
 ――煽ってどうすんのよ、東條広忠……!!
 口には出せず、心の中でだけ力一杯乱菊は叫ぶ。美味い料理に有り付けるからといって、友人を売ってどうする気だ。
「楓姐も明日帰って来るし、仕事空いてたらでいいから約束だよ? 乱姐」
「まあ……それで、海燕は――」
「明日帰って来るんだって。都さんは明後日なの。都さんの前で嫌がらせなんてしたら心配しちゃうでしょ? 海燕兄の為にそんな事させられないもん。だから明日にするの。――……ね?」
 その、傷心の少女の後ろに黒い炎の幻影を見て、乱菊は一切の説得を諦めた。

「どうした、乱菊」
「何でも無いわ……」
「姫寿の毒気に当てられたか」
「……知ってんのなら止めてよ、鏢主」
 最奥に位置する正房(おもや)の走廊(かいろう)。黒塗りの柱に寄り掛かって、溜息混じりの乱菊を笑い含みで絳は見遣る。
「あれは単に、向きになってるだけだ。深刻に考えるな」
「そろそろ子供のやる事じゃ無くなって来てるわよ、あれ」
「多少才気走ってるが、それでもあいつは子供だ」
「……そうなの?」
 疲れたように応じると、妙に静かな視線が返って来た。
「少なくとも、無理に大人になる必要が無かった子供だ」
 さり気なく、彼女は其処で言葉を切る。乱菊は、僅かに息を吐いた。
「あたしは昔の話はしないわ――…会った時からずっと言ってなかった?」
「そう聞こえたか?」
「念の為よ」
「……強情だな、うちの小姐(シャオチェ)は」
 お嬢さん…と、それ程歳の離れていない弟子を呼ぶ声は小さく笑う。冗談めかした懐かしい呼びに、乱菊もつられて微笑した。
「――…他の連中は? 出掛けてるの?」
「そんな所だろう。お前も暇なら外に出て来い」
「仕事入ったらどうすんのよ」
「気にするな。無い袖は振れない」
 事も無げに、無責任な事を言う。
 射した西日の収まりつつある院子(なかにわ)。一方、既に影の落ち始めた走廊で、絳は柱から背を離した。
「まあ、好きにしてろ。どの道今夜は、食事も外から取るか食べに出るかだ。酒は明日に残すなよ?」
「お互い、明日に残せって方が無理じゃない? ……大姐(ターチェ)」
 半端では無い酒量に反して酔い潰れた経験の無い師弟同士は、一瞬、不敵に見える視線を交わした。

 太陽を追って、残照が沈む。
 鏢局を出、閑静な道をゆったりと歩く乱菊を、勢いを収めた明りが照らした。
 長く伸びた影を踏んで、あてどない思考を巡らせる。
 初めは、「ランギク」と呼ばれていた。只それだけでも、呼ばれていたから忘れずに済んだ。次は「乱菊」。それが普通になって、やがて「松本乱菊」。名を忘れる心配は無くなって、多様に呼ばれる自分が居る。
 逆にいつしか、過去の記憶の何処までが本当で、何処からが曖昧な夢なのか、それが分からなくなっている。
 今を抜けて、未来へと進むだけで十分だと思っていた筈が、唐突な所で過去が掠める。
 それでも、今の自分に止まる気は無い。只、先へと進むだけだ。
 最初は、訊かれもしなかった。次は、来るかと視線が尋ねた。そして、
「行くぞ、来い、――…って、それだけだったわね……」
 そのままずっと変わっていない。何をどうすれば、其処まで確信出来るのか。
 呆れつつも、今、此処で感じる全てに当分飽きる事は無いだろうから、置いて来た過去を探すような事はしないだろう。
 思いつつ、昼間とは種類の違う喧騒に包まれる街並へ、彼女は一歩、光を踏んで足を進めた。

「――有信」
 呼んで、書房(しょさい)の扉を開けた途端に飛んで来た湯呑みを、絳はあっさり投げ返す。
「暇な事するな」
「読書の邪魔は止めて貰いたいものだな」
「無視するなら、其処の本に火を点ける。嫌なら聞け」
「…………何の用なんだ?」
「頼み事だ。悪いが、手短にだけ話す。詳しい話は終わった後だ」
 問答無用な声音を聞いて、有信は渋々と本を閉じる。
 軽く投げた視線の先では、いつに無く不穏な笑みが浮かんでいる。明確に、彼女の声が言葉を継いだ。
「早々に騒ぎが起きる。お前も手を貸せ。出来る限り盛大に行くぞ」

 収束する光。昇り行く月。広がる闇と、強まる灯り。
 過去と未来と始まりと終り。一つの幕が、静かに上がる。





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