飲み干したグラスが、閉じた本の隣に並ぶ。
「――マスター、ご馳走様」
「あれ? 早いね。もう帰るの?」
「今日はちょっとね」
「寂しいなあ。最近、修兵さんも来ないしね」
「そうなの? この頃、会わないと思ってたけど」
木製のカウンター。並ぶスツールに、他の人影は無い。
「……来ないとなると、全く音沙汰無いからなあ」
「そうねえ。生きてるといいけど」
くすくすと笑って、鞄を開く。
勘定を済ませ、財布と本を入れた所で、ふと目に付いた。
「あ、」
「どうしたの?」
「そう言えば、明日って七夕?」
「ああ…そうだね。今日は七月六日だから」
「ふーん」
少しだけ考える。
「ねえ、マスター。メモ用紙って無い?」
「メモ用紙? 有るよ?」
「一枚貰っていい?」
「いいけど。ペンは使う?」
「あ、大丈夫。持ってるから」
受け取って、何かの裏に走り書きした文字を写し取る。
それから、二つ折りにしたメモ用紙を差し出した。
「コレ、もし明日、修兵が来たら渡しといて貰えない?」
「修兵さんに?」
「あたしからって事だけ言ってくれればいいから」
「いいけど。来るかなあ……」
首を傾げるのに、笑って返す。
「来なかったらいいわよ。棄てといて。大した事じゃないし」
「じゃあ、来たらちゃんと渡しとくよ」
「ありがと」
「どういたしまして。――またどうぞ」
「ええ、ご馳走様」
*
「あれ? いらっしゃい。久し振りだね」
「まあ、ちょっと、いろいろと」
暫く振りの店内を軽く見渡し、いつもの場所に滑り込む。
「マスター。白ワイン、辛口で」
「はいはい。――あ、そうだ。修兵さん。乱菊さんから預かり物」
「え、俺に?」
「これ。今日来たら渡して欲しいって、昨日ね」
「へえ……」
渡されたメモ用紙を開いて、そして、読んだ文面を虚を付かれたように眺めた。
「あー…そういや、今日って七夕?」
「え? そうだけど。昨日の乱菊さんと同じような事訊くんだね」
「や、ちょっと確認」
小さく笑って、メモを見直す修兵の脳裏に、いつかの会話が去来した。
「――ねえ。七夕って、何の行事だっけ」
「短冊に願い事書いて下げとく日じゃないですか?」
「それだけ?」
「確か、昔は子供が習い事の上達を祈るとか、そんなんだった気がしますけど」
「けど、七夕って、伝説あるわよね?」
「織姫と彦星が出会うとかって、あれですか」
「そうそう。関係あるの? ソレ」
「織姫ってとこじゃないですか? 女の子の習い事って、昔は裁縫だったりするんで」
「じゃ、一年に一度会おうがどうしようが、別に関係無いじゃない」
「……極論っスね」
「だって、そう思わない?」
「まあ…でも、行事自体、いろんな伝説だの風習だのが混ざって出来てるもんだし。細かく考えたって仕方ないんじゃないですか?」
「曖昧ねぇ」
「つーか、時代によっても変わってるじゃないですか。今じゃ、店とか駅にも有りますよ? 七夕飾り」
「ああ…短冊置いてあって、自分の願い事書いて下さいとかってやつ?」
「あれ、七夕終わったらどうするんスかね。昔は、川とか海に流すもんだったらしいですけど」
「今やったら不法投棄ね」
視点のずれた会話は、いつもの通り。
「……でも、織姫と彦星が会うって割には、恋人同士で過ごすとかっていうのは聞かないわよね」
クリスマスなんかだと、一緒に過ごす…みたいな空気になってるのに。
「願い事をする云々じゃ、特定の販促活動に持って行けないからじゃないですか?」
「それで、街にムードが出ないから?」
「都会じゃ、現代日本の行事はそんなもんだと思いますけど」
肩を竦めて、そして、ふと思い付いた。
「乱菊さんは、どうするんですか? 七夕」
「どういう意味よ」
「だって、基本的に、斜方向から行事を見てるじゃないですか」
「あんたもでしょ、それは」
「捻くれ者なんで」
「それっぽいわね」
「で、どうなんですか」
「さあ…気付いたら終わってるってパターンかしら」
「じゃあ、気付いたら考えるんですか?」
「気が向いたらね」
――そんな、情緒と全く縁の無い話。
「覚えてたんスねぇ、あんな事」
……つーか、どういう意味に解釈すりゃいいんスか。コレ。
苦笑交じりに独り言を呟いて、視線を落とした白い紙。
その上に、軽く走り書きした、それでも整った字が並ぶ。
『 今宵こむ 人にはあはじ 七夕の 久しきほどに 待ちもこそすれ 』
歌は『古今集』秋歌上 素性法師
七夕に逢ったら、次に逢うまで一年待つ事になってしまうので…という感じで。