校舎の裏手。時刻によっては十分明るいその場所で、微妙に考え込む風情で佇む一人。
その数歩先、曲がり角の向こうから確かに聞こえる異音は――、
明らかに、喧嘩よね……。
他に考えようも無い状況に、乱菊は途方に暮れて沈黙を続けた。
とっくに始業のチャイムは鳴っている。鳴ってはいるが、帰り道が塞がれているのだからどうしようも無い。何もこんな時間から校内で喧嘩しなくても…と、乱菊は昇り切っていない太陽を見上げる。
……そりゃあね。頭痛を口実に裏庭でサボってたあたしも悪いわよ。だけど、うたた寝したからって、何も放って行くコト無いでしょ?
心の底から、マイペース且ついい加減な悪友を恨む。
っていうか授業どうすんのよ。置いてったからには、上手く誤魔化してくれたでしょうねえ?
思いながらポケットから覗かせ、睨んだ携帯は、無表情に沈黙したまま。
いい加減な癖に、外面と要領だけはやたらと良い悪友である。教師の目を盗んでメールくらい送れるだろうに。
本気で友達止めてやろうかと、うっすら思い始めた瞬間、
「っ……――!?」
――目前を通過した人影に、乱菊は危うい所で声を呑む。
しかし、それが殴り飛ばされた人間だという事に思い至る寸前、
「修兵……!?」
角の先から現れた後輩に、彼女は思わず、その場に相応しく無い素っ頓狂な声を上げていた。
成り行きで巻き込まれた喧嘩で、相手取るのは、見覚えが有るんだか無いんだか微妙な連中。ウチの制服着てんだから、多少は見覚え有っても良さそうなモンだが。……こいつら学校来てんのか?
頭の端でどうでもいい事を考えつつ、何とか最後の一人を殴り倒したその耳に、完全な不意打ちの声が飛び込んで来る。
その声に名前を呼ばれのだと自覚する前に反射的に目を向けて――修兵は思わず絶句した。
「…………えっと……」
つーか、何で授業中にこんなトコいるんですか。
心中で思わずツッコんだ相手は、一つ上の美人の先輩。こっちを唖然と見遣る瞳は、どうやらこちらと似た様な事を思っているらしい。
一体何を言うべきか。巡らせた思考を盛大に断ち切って、背後から聞こえる重い音。一応振り向くと、結果的に手を貸す形になった初対面の後輩が、喧嘩の片を付けた所だった。
「あー…、どうも」
「……ああ」
微妙な表情で謝意を示す派手な赤髪の後輩に、適当な返事を返す。しかしその後輩の、不機嫌さの残った顔が突然固まり、修兵は嫌な予感と共に視線を戻した。
「乱菊さん、あの……」
「――……派手にやったわね、あんた達……」
一瞬、その顔を、頭痛でも起きたかのような表情が掠め、次いで盛大な溜息が漏れる。
地面に伸びた人間の数は、まあ、そこまで多い訳では無いが。昼間っから見たいものでも無いだろう。第一、まだ午前中だ。
どういう反応を返すべきかと迷っていると、しかし以外にも、彼女は直ぐに表情を戻した。
唐突に出現したあたしを、どう見るべきか戸惑う一人は、幸か不幸か全く知らない相手だった。赤髪って、イヤでも目立つ色なんだけど、少なくとも去年は見ていない。
恐らく、という見当を付けて、あたしはさり気なく口を開いた。
「ねえ、あんた一年?」
「……そっスけど」
「そう。入学早々大変そうね。取り敢えず、このコトは黙っといてあげるから大丈夫よ。人来る前に戻んなさい」
「はあ……」
出来る限り、日常茶飯事に遭遇したような何気無い様子を装う。……本音を言えば、こんな日常、何が有ろうとあたしは絶対に御免なんだけど……。
その新入生の彼が、不審に軽い驚きを混ぜたような表情で立ち去った後、あたしはゆっくりと、もう一人の後輩に向き直る。いろいろと言いたいコトは有るんだけど、一応それは後回し。出来る限り、にっこりと綺麗に笑いかけた。
「それでねえ、修兵……」
「はい?」
露骨な笑顔に、修兵はきょとんと表情を返す。――そして、何はともあれ取り敢えず、あたしはその頭を力一杯張り飛ばした。
「――…イヤ、だから、あんなトコに人が居るとは思わなかったんで……」
「思わなかったから、場所も何も考えずに派手な乱闘してたってワケね? ふーん」
「あの、だから…ええと………スミマセン……」
最高に機嫌が斜方向に向いている乱菊相手に、結局謝り倒す破目になった修兵は、当然のように学校近くの自販機へと伴われる。
ちなみに、その機嫌の悪さに一枚噛んでいるのは、明らかに最悪なタイミングで届いた友人メール。
『…あー、ゴメン乱菊。自習だったから寝てたわ。って事だから、昼まで時間潰してな。まあ、出席は大丈夫だよ。恐らく、多分。駄目だったら諦めろ。…あ、ちなみに午後の英語は小テストだよー。』
喧嘩売ってんの? っていうか、売ってるわよね、コレ?
こういう性格で、普段からこんな調子のメールを送って来る相手なのだが…そして多分、こんな調子ならば出席もまず大丈夫なのだが…それでも何だか携帯を握り潰したい衝動に駆られた乱菊の、理不尽な怒り全てが修兵一人の身に降りかかっているのが現状である。
そして、
「……何だってこんな時に限って売り切れてるワケ……?」
「……………」
部分的に赤のランプを点した自販機を睨み付ける乱菊の横で、修兵はひたすら沈黙を守った。
紅茶。ついでに、気分としてはストレートティが欲しかったのだろう。――明らかに売り切れの表示が出ているが。
「コンビニ行きますか?」
「……別にいいわ。ミルクティで。だからあんたも、ミルク入りの珈琲にしなさい」
「いや、あの……」
「いいからお金! とっとと入れる!」
観念した修兵が投入した小銭で、何故かボタンを力任せに叩きながら買った缶珈琲と紅茶。売り切れていないにも関わらず、いつものブラック無糖ではなく原材料に牛乳と砂糖の加わった缶を差し出して、乱菊は無理やりな笑顔を作る。
「さ、飲みなさい」
「…………ハイ」
修兵は、大人しく受け取った。
いつもは手にすることの無い缶を傾けて、修兵は微妙な甘ったるさと後を引く味に眉を顰める。
「美味しくないの?」
「……寧ろ、苦手っつーか」
「でも、残さず飲みなさいね」
すいません乱菊さん。笑顔が恐いんですけど……。
言い掛けた言葉も何とか飲み込む。
「っつーか、これを飲ませる事に意味は有るんですか?」
「意味は無いわ。単なる嫌がらせよ」
断言すると、乱菊はミルクティに口を付ける。
淡い春の青空。ゆるゆると昇る太陽。やけに穏やかなそれを見上げて、投げ遣りな溜息を吐く。
「いっそこのままサボってやろうかしら……」
ああ、でも、小テスト有るんだったわ。午後。
憂鬱な気分で隣を見ると、どうやら珈琲を無理やり流し込んだらしい修兵が、盛大に顔をしかめて缶を見下ろしていた。
「修兵」
「……何ですか?」
「午後の授業、全部出なさいね」
「は?」
「だって、あたし小テスト受けなきゃなんないし」
「イヤ、それと俺が授業出る事に何の関係があるんですか」
「嫌なコトに他人を巻き込みたい気分なのよ」
………そんな気分にならないで下さい。
思っても口に出せる空気では無い。仕方なく、修兵は溜息混じりに頷いてみせた。
「まあ、いいですけど」
「そう。じゃあ……」
台詞を切って、傍らに鮮やかな笑顔を向ける。そしてそのまま、乱菊はきっぱり言葉を継いだ。
「コンビニで買い直して来てくれる? ストレートの紅茶。ペットボトルで」
――取り敢えず、彼女の機嫌はまだ直ってはいないらしい。