11:BACK OR FRONT


 抜けた風。余韻の後は、雨気を含んだ空気は重い。
 僅かばかり、紅を透かした明灰色。転じて蒼い、東の雲色。
 雨を望むでもなく、湿度に溺れて気怠く揺れる。緑葉、枝葉に花の色。夏へと向かって色は濃く、光を遮る影も深い。
 降っては止み、曇りのままに地面は乾く。見上げる何処も、空を閉じた緩慢な雲。
 変化も変化と見えぬ薄闇の昼。陽射しは眩しく、影は淀んで、空の色は彼方に遠い。西の方へと光が引いて、気付けば既に宵の頃。
 明度の無さで、夜を知る。
 ゆるゆるとした冗長な移ろい。自然、映るどれにも自覚が薄い。全てが呑まれ、ただ無感動が連綿と続く。
「……いつまで続くのかしらね、この天気」
 居直ったように不機嫌な乱菊を、宥めるように修兵は見る。
「梅雨が明けたら、一気に晴れて暑くなりますよ」
「今だって十分暑いわよ」
 纏わる暑さに雨気と湿気。全身から、滲むように体力が吸われる。
 忙しさは常と同じ。それでも、余裕の無さと苛立ちに、恐らくそれとの関係は無い。
「……乱菊さん?」
「何?」
「大丈夫ですか? 疲れてるんなら――…」
「別に……」
 いつものように誘われて、いつもの店で飲み交わす。なのに、気遣う修兵が疎ましい。
 普段と違う微妙な空気も、気付かず流すか、いっそあっさり見限れば良いのに――…。
 その、行き場を無くして持て余した焦燥感。心の奥で蠢いて、別のものへと変じようとする。
「――それより、あんたも呑みなさいよ。美味しいわよ、これ」
 その場に漂う空気から、明らかに浮いた口調を自覚して、乱菊は忌々しさを押し殺す。
 口に含んで、咽喉を下った強い香り。居酒屋の、喧騒の片隅。小鉢と徳利が並んだ卓に、肘を付いて視線を落とす。
 冷えた酒でも、曇りは晴れない。
 只、尚も一層、半端な全てが厭わしかった。

 清かな風の通る外。閉ざした部屋は、重く粘着く空気が支配する。
 軽い風。乏しい音は明かり障子で止められて、内は吐息で空気が動く。
 絡むように、殺気が届いた。
 刃の冷気が皮膚へと沁みる。触れるか否かに添えられて、咽喉元が動きを拒んで呼吸を止めた。
 暗い天井を、修兵は闇に慣れない瞳で仰ぎ見る。
 続けて呑んだ強い酒。頭の隅がふわりと霞み、置かれた状況よりも、咄嗟の驚愕が先に立つ。
 右の肩口は、体重を乗せて押さえ付けてくる手で痛い。だが、それ以上に、咽喉を掻き切るばかりに構えられた刀。空気を押して止まる刃先の、細い一筋がひりついた。
 傍らに片膝立って、一振りの刀を鋭く翳す。それは、僅かに見える見慣れた人影。止まった動きに遅れるように、髪の一房がぱらりと肩から落ち掛かる。
 眼球だけを動かして、修兵は、取り巻く周囲を理解した。
 速やかに驚愕が引き、ぼんやりとした思考が戻る。反射的に粟立った背も、静かに力が抜けていく。
 何故、の疑問は出て来ない。単純に、彼女がやりたいのならばそれで良い。
 理由を探すその前に、結論はあっさり落ちてくる。
 許容なのか、諦めなのか。抗わない事が習い性になって、いつしかそれが、己の中で当然の事となっている。
 身体を動かさずに彼女を見上げ、暗さに判然としないその顔を、少しだけ残念に注視した。
 どうせならば、最期に彼女が見えれば良いのに――……。

 闇に鋭く張った気は、相手の様子を推し測る。詰めた息が静かに流れ、刃の下で力が抜ける――そうと悟って、乱菊の中で、咄嗟に怒りが突き上がった。
 やはり、と思った。
 そして、何処まで――と、握った柄が僅かに震える。何処まで受動なつもりだ、この男は。
 他に対しては、自分以外に対しては、決してそうでは無い筈なのに。
 踏み込むなと、線を引いた自分の前で、彼はその通りに立ち止まる。有る過去に触れない事で、互いの間を穏やかに保つ。
「…何の……」
 途切らせ、咄嗟に短く喘ぐ。言いようの無い苦しさに。
「どういうつもりよ、あんたは……!?」
 それで終わるつもりだろうか。敢えて背けた視線のままで、続けるとでも言うつもりか。
 思う己の理不尽さと、相手への怒りで瞳が熱い。
「諦めるワケ!? これで良いって言うんなら、あたしにあんたは要らないわよ!」
 突き放すように、肩を押さえた手を引いた。
 闇雲に振り上げ、横へと薙いだ刀が、盆に置かれた徳利を掛けて大きく飛ばす。
 深い暗闇。立ち上がった乱菊と、半身を起こした修兵と。
 息遣いが際立つ沈黙。欠けて罅割れた徳利から、温んだ酒が溢れ出た。





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