州都騒乱 弐


 遠い日。名はと聞かれて、彼女は、ランギク、とだけ答えた。
 遠い日。名はと聞かれて、彼女は、ランギク、とだけ答えた。
「どう書く?」
「知らない」
 聞いて頷き、女は水で岩の上に字を記す。
 乱 菊
「これが、お前の名」
 しみじみと、乱菊はその字を眺めた。そしてふと、女を見上げる。
「あなたは…―――?」


 風が流れる。酒楼から流れ出す音曲とさざめきが、見下ろす川音のように広がった。継ぐ言葉を捉えかねて、乱菊は只々相手を見詰める。その視線に、修兵が問うた。
「……驚きました?」
「当たり前よ。だって……十年でしょ?」
 目の前の男と、記憶にある少年。十年の隔たりは、思うよりも遥かに大きい。
「あの時、名前聞いて分かりましたよ。それで、顔見たら、やっぱり乱菊さんでした」
 名前――、ランギク。乱、菊。
「よく覚えてたわね」
「十年で、忘れたりできませんよ。松本乱菊って名前」
 名前、姓名、生命。
「………お互い、洒落みたいな付けられ方したものね」
「洒落って言うより冗談ですよ」
 小さく笑う修兵に、乱菊もつられる。微かな笑い声を、やがて収めて、彼女は静かに息を吐いた。
「……で、懐かしいのは確かだし、偶然でも会えて嬉しいんだけど、一つ聞かせて貰っていいかしら?」
「何ですか?」
「何だって山賊から金盗むのを職業にしてんのよ」
「いや、水賊からも盗みますけど」
「そうじゃなくて……」
「単に、持ち主の無い銀子があったんで、ちょっと失敬しただけじゃないスか」
「……桂芝仙(けいしせん)の小説(こうしゃく)引用すんの止めてくれる?」
「あ、ばれました?」
 邪気無く笑う修兵に呆れると、乱菊は僅かに声の調子を変えた。
「まあ、詳しい事は後でじっくり聞かせて貰うけど。……修兵、あんた、この状況に心当たりは」
「あると言えばありますね。でも、俺個人には関係無いですよ」
「なら、誰に関係あるのよ」
「絳河鏢局」
 一拍置いて、今度こそ、乱菊は深く溜息を吐いた。
「あいつらだけじゃ無かった訳ね」
「まあ、乱菊さん個人を狙うのは、あいつらだけだと思ってたんですけどね」
「何処で計画変えたのよ。どっちにしたって迷惑なんだけど」
「直接聞いてみたらどうですか?」
「仕方ないわね。そうするわ」
 言って、視線を周囲に移す。其処此処から、潜めた殺気がその姿を現した。
 剣に刀。また一見は徒手空拳と、様々な者がいる。共通するのは、闇に紛れる黒い服と面を覆った黒い布。二人に看破されたとは言え、先程の連中とはその実力に雲泥の差があるのは間違い無い。だが、黒い装束に身を固めた者達が、灯火の及ぶ華やかな楼閣の屋根に立つ。その不釣合いな場景に、乱菊の顔を失笑が掠めた。
「一体どういう趣味な訳? 深夜ならともかく、それじゃ全く意味が無いわよ」
 返答など、元から期待はしていない。嘲笑とも言うが、寧ろこれは挑発であろう。だが、
「……不慮の連続で、計画が前倒しになったからさ」
 答えと取れる言葉は、皮肉を込めて発せられた。
 散開した黒尽くめが、狼狽えたように気を乱す。乱菊も修兵も、軽い驚きを持って視線を転じた。
「……老師、何でこんなとこにいんですか」
「少しばかり、頼まれ事をされたからな」
「鏢主に?」
「当然」
 短く言うと、彼は刺客の間を抜けて二人の方へと歩み寄る。歳は三十後半だったと記憶しているが、やや童顔で、歳より幾らか若く見える。物腰は至極落ち着いており、何やら布に包んだ細長い物を持っている他は、身形も学者風のそれである。しかし、単なる学者が誰にも気付かれずに酒楼の楼閣の屋根に登り、増してやそこを軽々と移動できる筈も無い。殺気立った連中も、その静かな気に呑まれたのか、傍らを通るままにして手を出そうとはしなかった。
「――で、どういう事なの。老師」
 彼が近くまでやって来た所で、先ずは乱菊が口火を切る。
「こいつら何者? 何だってうちの鏢局付け狙ってんの?」
「いろいろと事情は込み合ってるが、簡潔に言えば、正体は雪山派(せつざんは)の残党と、彼らが集めた絳河鏢局に怨有る人間。目的は絳河鏢局の壊滅。尤も、計画が露見したと知って、急遽襲撃の時間を早めたようだな」
「成る程。そういう事ね」
 あっさりと、乱菊は頷いた。尤も、頷きはしたが、納得した訳ではない。
 雪山派は、世にある大小多数の武術門派の一つである。と言うより、一つだったと表現すべきだろう。現在、これら門派の中で主流となるのは名高い八大門派だが、五十年程遡れば、雪山派を入れた九大門派であった。しかし五十年前、雪山派の掌門(しょうもん)――総帥についての醜聞が世間に広まった事に始まって、雪山派は急速に衰えた。そして九大門派から外れ、弱小の一門派になり下がっていた六年前、何者かによって壊滅させられたという。
 その壊滅させたのが何者かは乱菊も知らない。が、確かに絳河鏢局と雪山派との間にはいざこざがあった。七年前、当時の雪山派掌門が絳河鏢主に挑戦し、敗死したという一件である。これに追い討ちをかけるような壊滅だから、まあ、恨みの一端を向けられるくらいはあるかもしれない。どう見ても完全な逆恨みだが。
 気に入らないのは、明らかに絳河鏢局だけを標的としている点だ。理由は明白。壊滅させられたからと言って、名も知られていない人間を倒した所で得る物は少ない。だが、大鏢局の一つである絳河鏢局を壊滅させ、鏢主を倒したとなれば名が知れる。所詮は悪名だが、旧怨があるのは事実だから一応の理由は付く。まあ、何にしても碌でもない話ではある。
「でも、それを教える為に老師が来る訳無いわよね」
「勿論。だが、話があるのは、乱菊ではなくてそちらの御仁だ」
「修兵に……?」
 怪訝な面持ちの乱菊から視線を外すと、彼は修兵に向かって拱手する。
「挨拶抜きで申し訳無いが、絳河鏢主から貴君へ伝言が有る」
 まず言って、手にした布包みを解いた。現れたのは一振りの太刀。一瞥した修兵が、僅かに眉を顰めたが、彼は構わず言葉を続けた。
「書状にて襲撃の報をお伝え下さったは有り難いが、断りを得ず邸に侵入した件は看過できぬ。よって我が鏢局に手を貸し、共に奸物を除いて頂きたい。此処に貴殿の太刀を持参した。承服しかねるとの事であれば、贖罪としてこの太刀を頂戴する。――と、以上が鏢主からの伝言だが……如何する?」
 淀みの無い弁舌。しかし、聞く途中から、乱菊は早くも頭痛を覚えていた。言っている事を纏めると、要は不法侵入の償いをしろという話である。が、太刀があるという事は、荷物一式押さえたと言っているも同然だ。断れと言う方が無理である。
 一方的な論理に強引なやり口。実にあの鏢主らしい。と言うより、あの鏢主らし過ぎる。だから百歩譲ってそれはいい。しかし、一体全体、この場で自分にどういう対応をしろと言うのだ。
 悩む乱菊の隣で、伝言を受けた修兵は、寧ろその言い分に呆れたらしい。当惑したように頭を掻くと、微妙な敬語で尋ねた。
「あー…取り敢えず、これは部外者の俺まで駆り出す程の事なんスか?」
「生憎だが、鏢局は人手不足らしいな」
 隠しもせずにそう述べる。確かに、鏢師と鏢頭の多くが仕事で出払っているのは事実だ。雪山派の方も、そこを狙って襲撃を計画したのだろう。だが乱菊には、あの鏢主が仔細を承知した上でそ知らぬ顔をしていたのではという気がする。とすればこれは、事のついでに侵入者の実力を見てやろうという魂胆ではなかろうか。相当面倒な話だが、あの御仁ならば興味本位でそれだけの事はやりかねない。
 考える横で、修兵は、暫しの後に諦めたように溜息を吐いた。
「まあ……これも乗り掛かった船って事で。一応聞いときますけど、今回だけ協力すればいいんスよね?」
「無論、少しばかり助勢して貰えればそれで十分だ。では、この太刀はお返しする」
 差し出された得物を受け取ると、修兵は軽く中身を改めてから背負い直す。乱菊は、どういう表情をすべきか迷った挙句に、男に向かって口を開いた。
「それで、老師はこれからどうすんです?」
「私は単に伝言を伝えに来ただけだ。その辺りで見物させて貰うから、そっちで好きにやってくれ」
 伝言とは言え、他人に協力を強制しておいた挙句に見物か――。修兵だけでなく、乱菊も一瞬そう思う。思っても突っ込まなかったのは、一連の問答を交わす間、彼の気が周囲の刺客達を威圧していたからだった。そうでなければとっくに戦いは始まっていた筈で、悠長に会話などしていられない。
 あっさり二人に背を向けると、彼は先程のように刺客の間を抜け、傍らの楼閣へ戻ろうとする。その前に立ち塞がった数人に、悠然とした仕草で拱手した。
「私は、絳河鏢主の邸に厄介になっている者。姓を昌洞(しょうどう)、名を有信(ありのぶ)と申す」
 至って穏やかな名乗り。しかし、聞いた途端に、彼らは一様に動揺した。
「な、何故、崋山派(かざんは)の前掌門が……」
 彼らばかりでは無い。修兵も、無言で乱菊に目を向けた。彼女は、頷く代わりに肩を竦める。だが、一同の反応を見なかったかのように、淡々とした口調で言葉は続いた。
「私は一切手出しはしないから、其処を引いて貰えないか。勿論、お望みならばお相手するが」
 言って見返す有信に、刺客達は明らかに狼狽えて、互いに顔を見合わせた。
 崋山派は、八大門派の一つである。八大門派とは、多くの実力者を世に送り出し、歴史と権威に於いて数多の武術門派の上に立つ存在だ。例え引退していたとしても、その前掌門と争う事は、単なる用心棒集団を相手取るとは訳が違う。下手をすれば、崋山派ばかりか崋山派と縁有る全ての勢力を敵に回してしまいかねない。それだけは御免だ。と、誰の目にも有る。
 ややあって、中の一人が恭しく前に出た。
「我等にとって、恨みあるのは絳河鏢局のみ。手出しなさらないのでしたら、崋山派の御方と事を構える気はございません」
「では、私は単なる見物人。間違って武器が飛んでも勝手にこちらで払うので、気にせずとも結構だ」
 そう、歩み去ろうとした背中に、不意に修兵が声を掛けた。
「あの、すいません。ついでに、これ持ってて貰えないっスか?」
 示したのは、右手に持った瓢箪。頷く有信に向かってそれを放ると、彼が楼閣の一つに落ち着くのを確認し、ゆっくりと刀を抜いた。
「……何だか妙な事になりましたね」
「気にしないで。うちの鏢主が物事を妙な方向に持ってくのはいつもの事だから」
 長年その行状を見ている筈の乱菊も、これには最早、溜息すら出ない。
 眼下では、音曲が興を増して高まる。しかし甍の上で聴けるのは、幾重も重なり、昇れぬままに奇妙に漂う籠った喧騒。修兵は、苦笑交じりに乱菊に告げた。
「玉樹楼は河漢一らしいですけど、今夜はとんだ災難に遭いそうですね」
「あんたの言だと、壊すなら、修理代がある人の建物に限るんじゃない?」
「仰る通りです」
 互いにちらりと視線を交わす。修兵は抜き身の刀を軽く構え、乱菊は柄に手を添える。
 始まりは、何処かで終わった一曲の、余韻が切れた瞬間だった。





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