州都騒乱 参


 僅かに湿り気を帯び、初夏の風が行く。雨の先触れか、それとも大河を渡った川風だろうか。緑は匂いを濃くし、甍の間を埋める枝葉は鬱蒼として影を揺らす。薄く刷いた雲が、上弦を過ぎた高い月を彩った。

 一閃―――そして、紅い飛沫。
 鋭い斬撃が腕を半ば斬り落とす。振り返りざま、修兵は身を沈めて敵の両足を切り裂いた。支えを失い、よろめく身体を容赦無く蹴り落とし、広いが、狭い足場を確保する。
 間髪入れず、飛び込む一撃を刀で受けた。その瞬間、別の敵に後ろを取られる。敵の技量は玉石混交。だが、連携となると厄介だ。身を捻って正面の剣を受け流し、刃を接したままの刀から片手を離した。
 懐に飛び込む形で顎に柄尻を向けると、気付いた相手は上体を開く。一瞬の隙。すかさず、柄から外した左手指で脇の下の経穴を突いた。
 息が詰まり、硬直したまま得物を取り落とした敵は、最早ものの数には入らない。そのまま横を抜け、後ろに回ると、一旦背後を取ったものの、味方の動きに咄嗟に手控えたもう一人に向かって、力任せに蹴り飛ばした。
 横に飛んで衝突を避けた相手。だがそこに、ほんの僅かの注意の乱れ。追い縋るように前進し、着地した瞬間を狙って真っ向から斬り上げる。一刀は疾く、そして烈しい。
 しかし、致命傷の一撃を与えた瞬間、上空から殺気が落ちた――。

 敵が、消え行く残像を認めた時――既に勝敗は決していた。
 一突きは、その身体を鮮やかに貫く。刃を抜き取り、次の敵へと向かう一連の動作に、無駄な要素は一切無い。乱菊の刀が続く敵を突き通したのは、最初の敵が頽れるよりも先だった。
 軒に向け、斜めに下って反る甍。主楼を中心に四つの楼閣が配される。足場が確かと言えない場所で、しかし彼女の動きに乱れは無い。身を翻し、主楼から西楼へと瞬く間に場を移す。
 だが、次なる敵の急所へ奔った鋭い一撃。それが、固い感覚に阻まれた。
「―――……!?」
 次の動きを促したのは、唐突な予感。
 届いた刃は、黒い布を切った所でぴたりと止まる。防具か、それとも硬功(こうこう)か。一瞬に満たない思考を上回り、理解したのは、自らに向かって弾ける殺気。
 乱菊は、横に向かって大きく跳んだ。
 甍を離れ、飛ぶと言うより、舞い降りる。頭上を掠めて飛び去るのは、毒を塗った無数の暗器。
 如何なる仕掛けか、それらは敵の胴体部分の布を破り、前方、左右に放たれる。そして暗器が飛んだその瞬間、乱菊の居た空間を、重い一撃が真っ直ぐに裂いた。
 通常ならば回避不能な攻撃をかわし切り、眼前に迫った数本を、乱菊は内力を発した左手で払う。掌から放った余波に巻かれ、指が届かぬ範囲も全て、飛び来る暗器は遥かに落ちる。右手は隙無く刀を構えたそのままで、彼女は中空に足先を掛けた。
 軽功で素早く舞ったその下を、主楼、西楼の屋根上から、敵が放った暗器が過ぎる。だが、咄嗟に見れば標的の消失。周囲に驚愕が走り抜けるのを確信し、西楼の甍に達するや否や、彼女は鋭く攻撃に転じた。
 口を貫き、次いでそのまま斬り払った敵を蹴り、乱菊は西南の楼へ跳ぶ。
 防御力を強化し、刃を弾く硬功でも、目や口内への直接攻撃までは防げない。そしてそこを突かれれば、どんな使い手であろうと硬功は解ける。心臓を狙った刺突が妨げられた理由を、乱菊は無意味に追求しなかった。
 そして、反撃を目に写しながらも行動に移せなかった者達は、しかし、追撃しようとする自らを逆に制する破目になる。彼女が降りる先には、周囲から取り残された一つの影。前崋山派掌門、昌洞有信。
「老師、幾つか聞いときたいんだけど……」
 背後からの暗器を気に掛ける必要も無く、乱菊は悠々と有信の傍らに降り立った。

 ――…二対の錘(すい)が、主楼の甍を屋根板を打ち壊す程に叩き割り、青い瓦が弾け飛ぶ。頭蓋を狙った危険な一撃。素早く飛び退き、修兵は散り来る欠片を左の掌で大きく払った。
 錘は、持ち手の先に鉄の塊を付けた武器。打撃を受ける事はできないが、重量のある分、一旦かわせば隙も多い。しかし、飛んだ瓦に気を取られ、反撃のタイミングを咄嗟に逃す。すかさず横から繰り出された剣を薙ぎ払い――そこで、瓦に流れた血に片足を取られた。
 引いた足が斜面に沿って大きく滑る。崩した体勢。好奇と見て、突き出そうと動く剣。
 一瞬の判断。彼は、右足で踏み切り、真後ろの空中へと舞い上がった。
 剣は、影すら捉えぬままに空を切る。だが、それと悟るや、敵も修兵を追って甍を蹴った。回避の為の跳躍と、攻撃の為の跳躍。目的の違いで、勢い、速さは後者が勝る。
 だが修兵は、不敵な微笑を閃かせた。
 放った銀光。奇妙な音に押されるように、敵は大きく宙で傾く。そして修兵は、衝突を避け、中空で更に一段舞い上がる。刀を持つ手は、変わって左。
 一方の敵は、意識を飛ばして敢え無く落下し、酒楼の前院(まえにわ)に衝突音を響かせる。その額を割ったのは、右手から飛ばした銀の杯。一見し、身をかわせない筈の状況下。逆手に取った修兵の一手で、双方の明暗がはっきりと分かれた。
 綵楼歓門。色絹で飾った表門上に、高々とした楼子(やぐら)を竹と木材とで組み上げ作った門飾り。天に向かって高く突き出た一本の竹に、修兵は軽々と立ってバランスを取る。
 耳に入るのは、騒然とした周囲の喧騒。見下ろせば、出るに出られず、一階部分にひしめく人影。楼上に残る者達は、寧ろ事態を理解できずにいるだろう。暗器に当たらない事を祈る他無い。
 西南楼を除いた、東西、東南、そして主楼の屋根上に、未だ無数の黒い影。門の内外から驚きの視線を浴びながら、修兵は涼しい顔で、手にした刀を持ち替えた。

「――…手短に言ってくれるか?」
 西南楼の屋根上で器用に胡坐をかいた有信は、乱菊の言葉に、如何にも面倒臭そうに視線を上げる。相変わらずの様子に、肩を竦めて彼女は応じた。
「じゃあ、簡潔に言いますけど……」
「前置きはいい」
「黙って聞いて」
 軽く睨んで、短く続ける。
「老師、本当に傍観してるだけなの?」
「崋山派と揉めたく無いらしいからな。私が出ても気の毒だろう。手っ取り早く終わらせたいなら、鏢主の正体教えればいいさ。雪山派はともかく、それ以外は士気が落ちるぞ」
「鏢主が言わなかった事、あたしが勝手に教える訳にはいかないでしょ。力押しで切り抜けるのが楽しいって人なんだから」
「だったら諦めて、ここにいる敵を倒す事だな」
 当然のように返されて、彼女は仕方なく話題を変える。
「それで、鏢局の支店は?」
「支店に人員を裂いて、本拠地の河漢で失敗しても困るだろう」
「じゃあ、全勢力投入してるって事じゃないの。こっちは人手不足だっていうのに」
「だからあの御仁を引き入れたんじゃないのか?」
「ちなみに聞くけど、弁償どうすんです?」
「正体不明の無頼漢同士の喧嘩だ。賠償請求しようも無いな」
「目撃者いるけど」
「混乱している人間は、応々にして見間違い、覚え違いをするものさ。最終的にはそう片付けられる」
「……っていうか、それ狙ってるんでしょ」
「そういう話は鏢主に言ってくれ。私は知らんぞ」
「分かってるわよ」
 溜息混じりにそう言って、
「ねえ、あいつらに援軍来たりはしないわよね?」
「潜伏地を潰されて、来れる筈が無いだろう」
「お気の毒ね。何年がかりかで準備したんでしょうに」
 乱菊は、絳河鏢局を敵に回した連中の、運の悪さに心の底から同情する。一方、ふと思い付いて、有信は改めて彼女を見上げた。
「……事のついでに、私も一つ尋ねて良いか?」
「何ですか?」
「乱菊。御前、自分の戦い方が誰に似ていると思う?」
「さあ。嵩山(すうざん)派の誰かとか?」
「嵩山派は剣だ。御前は刀だろう」
「じゃあ、普通の刀使った時の鏢主。一応、師匠だし」
「確かに。だが、内力の使い方は奴と近いな」
 顎で示したのは、歓門の上に立つ修兵。
「しかも、軽功に至っては殆んど同じだ。気付いてたか?」
「………この状況下で、そんなとこまで見てないわよ」
 虚を衝かれた事を憮然とした表情で覆い隠した乱菊に、有信は勿論気が付いた。
「御前は普通に使っているが、空中で跳躍し直せる程の軽功を誰でも使える筈が無いだろう。そんな軽功は、八大門派にも、ついでに言うなら雪山派にも無いぞ」
「できないんですか?」
「できないと言うより、やらないな。そもそも、単なる移動で空中跳躍をする必要性は何処にも無い。屋根だの木だのを渡る形で十分だ。敢えて軽功を極めようと思えば話は別だが……」
「老師も鏢主も使うじゃないの」
「御前が習得しようとするのを見たからだ。私は閑人。鏢主は、使えそうなものは習得しておく主義だろう。ついでに言うが、八大門派中、最も名高い武当(ぶとう)派の軽功は低空を駆ける。普通の人間でも、水に浮かべた筵の上を、走るのと跳ぶのと、どちらが困難かは分かるだろう?」
 淡々と言って、畳み掛けるように言葉を続けた。
「という訳で、奴は単なる知り合いじゃないな。何者だ?」
「幼馴染み」
「何時の?」
「鏢主に弟子入りする前よ。世話になってたとこで一緒だったの。分かりました?」
「……意外だったな。姓の由来は単なる洒落じゃなかったか」
「何の話よ」
「昔、意味を聞きに来たのは御前だろう」
「覚えてなくていいわよ。そんな事」
 不機嫌に表情を消して、乱菊は一方的に話を打ち切った。

 身を翻して敵中に戻る後姿を見送って、有信は無造作に袖を払う。偶然飛び来た暗器。それが、鷹揚な動作に、酷くあっさり周囲に落ちた。布を破る事すらできずに絡め落とされた暗器には、それが当然として目を向けない。寧ろ、先程までの予想に確証を得て、戦いを見守る彼の瞳に興味深さが加わった。





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