州都騒乱 陸


 河漢へ、大河は西から至る。その名は滄江(そうこう)。無数の支流を集め、支流を作り、遠大な距離を旅して成長する。それが河漢で呑み込むのが最大の支流、碧水(へきすい)の流れ。巨大な蛇行を繰り返し、東へと流れた滄江は、方丈(ほうじょう)で遥か北方の瑶台(ようだい)から続く瑶鳳(ようほう)運河を合わせ、最後に鳳来(ほうらい)の河口から海へと注ぎ込む。
 北から至るのは大街道。やはり瑶台から内陸部を南下し、首都、紫京(しけい)を経て河漢に達する。滄江一帯は水郷地帯。特に中流・下流域にかけ、数千の湖水、沼沢、複雑に分かれた川筋が広がる。殊に河漢付近ともなれば滄江の川幅は二十里近い。橋など元より掛けられる筈も無く、故に河漢に至って主要路は河川に役目を移すのが常だった。
 そうでなくとも、広大な大陸で大量の物資を運ぶに適すのは船。全土の流通路は、大河と大運河とで作られた大動脈から広がっている。そして滄江中流では、支流が南北から大きく伸びる。穀物、茶、塩、木材、鉱物、織物、薬……ありとあらゆる物品は、それらを縫って運ばれる。河漢は、その最大の中継地。
 絳河鏢局が大鏢局の一つに数えられるのは、河漢を拠点に、滄江主要流域での安全を押さえている為でもあった。
 ――正攻法だけでやって行ける筈も無い。
 鏢師、特に鏢頭の中には、世間で名の知られる者もいる。しかし、だからと言って、賊が鏢師を怖れて手を出さないかと言えばそうでも無い。寧ろ、鏢局の護衛が付くのは荷駄が高価な証拠だから、命懸けで一攫千金を狙う者もかなりいる。だからこそ、陸路、水路に関わらず、その全てと争っていては切りが無い。賊だの地域の顔役だのに通行料を渡しておいて、荷駄を見逃させるのがどの鏢局でも常道である。
「――…絳河鏢局も、江湖の機微は知っていよう」
「知らなきゃこの稼業はやってられないわね」
「だが、絳河鏢局が雪山麓近辺の山寨に礼物を送った事があったかの」
「覚えは無いけど。それを言うなら、ウチであの辺りを通る荷駄を護衛したのは、二、三度しか無いわ」
 大雪山が位置するのは、滄江を遥か遡り、その諸支流の流れる山岳地帯。一方、河漢が位置するのは滄江中流域。
「第一、受け取らないどころか喧嘩売って来る相手にまで物を送る趣味は無いけど?」
 冷然と見返す乱菊に、成る程、と、咆えるような笑いが返る。
「それで片端から潰していったとな」
「悪いけど、こっちは荷駄を無事に輸送するのが仕事なの。別に皆殺しにした訳でもないんだし。蹴散らして、暫くの間追い払っといただけでしょ」
「ならばこれは何とする? 山賊は捨て置かれたが、瑯河(ろうが)の新たな水賊には――明らかに、絳河鏢局の息が掛かっておる」
 口調が歪む。
「山賊、水賊を潰したならば、周辺で絳河鏢局の名は売れたであろう。相応の礼を取り、相手の面目を立てれば通行できぬという事はあるまい。滅多に通らぬと言うなら尚更の事。意図して代わりを送り込む必要が何処に有るか」
「誤解の無いよう言っとくけど、鏢局が水賊を配下にしてる訳でも無いわ。第一、鏢局の仕事は荷駄や人の護送よ。失敗すれば終わりなの。そうならない為なら、ある程度の事はあたしでもするわね」
 依頼の失敗は鏢局の存続に関わる。新興の鏢局ならば尚の事。そして当時、設立間も無い絳河鏢局は河漢の豪商、桑苑寺家の荷駄の護送に名乗りを上げていた。成功か失敗かで、その後の全てが決まると言っても過言では無い。請け負う仕事を待つのではなく自ら名乗り出た以上、僅かな失態も許されない。
「ほう…それはまた。てっきり、瑯河の水賊を手先に、何かやらかすつもりかと思うたが」
「何かって、鏢局の荷駄を無事に通す以外に何をするって言うのよ」
「河漢に本拠を置いておるではないか。その気になれば何なりと出来よう」
 河漢は経済流通の要だ。加えて周辺部、特に滄江を渡った南にかけては稲と麦、茶に木材、鉄を産する。だが…――嘲笑うかのような台詞の意味を取りかねて、乱菊は眉を顰める。疑問を吐こうと口を開いて、
「……一つ良いか?」
 前触れ無く、傍らから冷静な声が割って入った。
 乱菊の視線を受けた有信は、手に提げた瓢箪を意味も無く揺らす。独り言のように、言葉を継いだ。
「鏢主に潰された山賊が恨みに思って雪山派に与する、という事ならば分からなくも無い。そして山賊を味方に引き入れた以上、雪山派が鏢主の遣り方に苦言を呈する必要性も無くは無い。しかし――御老体の話は、何故か山ではなく瑯河の水賊」
 穏やかなだけの口調をふと収めて、有信は老人を見据えた。
「雪山派と雪山麓の山賊が、水賊の状況にめくじらを立てるというのは妙な話だ」
「……――おや、その様に聞こえましたかの」
 平坦な口調。だが、自然と言うには空白が僅かばかりに多かった。有信は苦笑気味に言い募る。
「下心の有る人間は、逆に他人を邪推したがるものさ。瑯河の水賊を使って……いや、若しくは山賊までもを使って何かをしようというのは雪山派の方ではないのか?」
「さて、何事にも事情と言うものがありましての。存ぜぬならば、気にせずとも宜しかろう」
「そのような訳にもいかないな」
 言外に肯定した老人に、有信の左右で僅かな緊張が流れる。それを無言で制して、猶も続けた。
「瑯河の水賊が絳河鏢局と繋がっていると、雪山派は何故困る」
 瑯河は雪山麓を縫うように流れ、やがて滄江本流を作り出す。
「水賊を掌握して雪山派が何かをしようとする、その為に絳河鏢局が邪魔なのか。それとも、絳河鏢局が入った為に元々行なっていた何事かを行う事が出来なくなったのか……」
 滄江の流域各所は乾燥期に流れが細り、水深浅い場所では船の航行を困難にするが、大雪山の麓、滄江の支流を作る幾筋もの流れは、一年を通して船の往来を留める事は無い。
「――雪山派がわざわざ絳河鏢局を付け狙うのは、一体何故だ?」
「其れをわざわざ訊く必要が有りますかな?」
「無いんなら訊かないわよ」
 うんざりと応じる乱菊に、揶揄するような視線が向く。
「掌門を殺したは絳河鏢主。仇を討つのは当然であろうよ」
「今更それを信じるとでも思ってんの?」
「御主等が信じずとも、他の者は信じる。我等としては、それで十分であっての」
「もしかして、死人に口無しって言いたい訳? その割には、今にも全滅しそうなのはあんた達の方なんだけど」
「さて、どうであろうかの」
 殊更意味深に振舞う老人に、しかし乱菊は無感動に肩を竦めた。
「無駄な演技は止めた方が良いわよ。好き好んで敵対しようとする連中を取り逃す程、鏢主は甘く無いんだし」
「では、絳河鏢局は雪山派を潰すと?」
「一度目は、掌門が鏢主に難癖付けた挙句に戦いを挑んで、二度目はその門人が、山賊を引き入れて鏢局を闇討ち。――見過ごせる理由が有るんなら、是非とも教えて欲しいわね」
「雪山派の名が如何なるものか、考えてもみるが良い」
「どういうもんなのよ?」
「分からぬか?」
「……勿論、嘗て大門派でありながら権力に尻尾を振った、武林の恥知らずさ」
 平然と、有信は面と向かって言い捨てて、老人は面布から覗く表情を強張らせた。

 ――江湖は専ら、官に対して言う在野の社会。武林は江湖の武術界を指す。武林の中心を構成するのは門派。それぞれの掌門を頂点とし、擬似家族的な師弟関係から成る。この中で主流となるのが、言わずと知れた八大門派。嵩山、泰山、霍山(かくざん)、崋山、恒山(こうざん)、武当、少林(しょうりん)、青城(せいじょう)である。
 上下関係を重んじる門派に対し、幇主(ほうしゅ)を中心として、義兄弟的な横の繋がりが強いのは幇会(ほうかい)だ。秘密結社から同業者組合まで、神農幇(しんのうほう)、軒轅(けんえん)幇、華蓋(かがい)幇、白沙(はくさ)幇……数も種類も随分と幅広い。
 それはともかく、門派はそれぞれの本拠地を持ち、其処で自らの武術を磨く事に主眼を置いている。各地の名家や有力者と知己としての繋がりは持っても、概ね官界とは隔絶しているものだ。よって、武林に在りながらにして世俗の権力者におもねり、地位を得ようとするなど恥知らず以外の何ものでもない、という事になる。しかし五十年前、掌門以下、雪山派一門はまさしくそれを行なった。
 端的に言えば、朝廷の高官に賄賂を送り、官位を得る。詰まる所は官位の売買。近付いたのは、皇帝に近く、官吏の登用を左右できるだけの権が有る者。公然と、ではない。他門派の手前、雪山派もあくまで秘密裏に事を運んだ。しかし、地方の武術門派の人間が、頻繁に邸宅に出入りする。官吏の推薦状に掌門と門人の名が挙がる……。江湖、武林では知られずとも、官界ではそうはいかない。
 そして雪山派の行動は、結果的に最悪な形を取って衆目に知られる事となる。――彼らが取り入ろうとした高官が、皇帝弑虐を企てたとして処刑されたのだ。
 権力は、それを持つ人間にとっては永遠では無い。増してや朝廷の権となれば、必ず奪い取ろうとする人間が居る。そうして意図していた相手にとって、雪山派の存在自体が好機となった。
 追求の発端は、雪山派との繋がり。そして大逆の証拠となったのは、高官の邸宅から見付かった数々の物品。金に物を言わせて掻き集めた宝物の中でも、天子だけが身に付ける事の出来る筈の竜袍。加えて、武器の仕込まれた扇子――暗器の類。刺客に対する用心をする程、政敵から憎まれている事に気付いていた男だったが、それ以上の事には気が回らなかったと見える。
 謀反は、当人だけではなく一族全てが死罪とされる、それだけの大罪だ。件の高官におもねるようになってから数ヶ月、九大門派の一角を占めた雪山派の名は地に落ちた。
「……皮肉と言えるだろうな。権を求めた結果、朝廷の権力争いに足元を掬われた」
「大逆の企みなど濡れ衣に過ぎぬ」
「だが、それを判じるのは朝廷だろう。そして有罪と判断されれば、どれほど疑惑が残ろうと事実として罷り通るのが官界というものさ。国政を執り行なう場で目先の利益を追い求め、その為に手段を選ばない――。武林の抗争などより余程性質が悪いな。雪山派が疑惑以上の追及を受けなかったのは、単に武林の門派と事を構えたく無かったからに過ぎないだろう」
 朝廷が真っ向から雪山派を処断すれば、武林との間に軋轢を生む。武林……ひいては江湖の人間は、朝廷の法の外に居る。誅伐の為に軍を派遣し、権威を示すのは簡単だが、それに対する報復は恐ろしい。いくら他人の血が流れるのに頓着しない人間でも、己が標的になる可能性があるとなれば話は別だ。
 ――結局の所、雪山派は捨て置かれたと言うべきだった。有罪とはならなかったが、はっきりと潔白を証明された訳でも無い。そして一つの疑惑として置かれたからこそ、世間ではまことしやかに関連がささやかれた。皇帝崩御の際には、暗殺説まで飛び交う事となる。大抵、皇帝の急死にはこの手の噂が付き纏うものだが、時期が時期。噂の中には、雪山派の名がちらついた。
 不名誉の謗りに加え、このような悪評。しこりを抱えた雪山派は、内紛で半ば自滅するように弱体化し、以降、武林の主流からも事実上切り捨てられた。
 それから、五十年ばかりが経つ――。
「今度は、隠れて何をやろうとしている?」
 注視する先で、老人は沈黙を落とす。しかし、
「――…教えてやろうか?」
 声が、予想外の方向から飛んだ。





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