州都騒乱 漆


 風が渡る。滄江の風だった。
 乱菊の髪を、吹き抜けた風が弄ぶ。川の匂いを含み、駆け上がる風。対岸を霞めるその広大さを息を呑んで映した彼女は、僅か十歳に過ぎない。絳河鏢局唯一の鏢師。否、この時は未だ、絳河鏢局というものすら彼らの中でしか存在してはいなかった。
 大河に圧倒される乱菊に、横に立った人影が対岸を指す。
「河漢だ」
 ゆっくりと見上げた先。彼女を見返す瞳の力は、その、未だ幼さを残した顔立ちすらも念頭から払う。
 妙に清々しい顔に、ふと、常と変わらぬ不敵な笑みが浮かんだ。
「行くぞ。まずは、此処からだ」
 そして、二人は滄江を渡る。

 ――前触れ無く割り込んだ声。投げられた言葉よりも、気配を感じ取れなかった己への驚きと共に、彼らは一様に振り向いた。
 青い甍を踏んで歩み来るのは、刀を手にした長身の一人。
 一瞬の、そして長い沈黙を最初に破ったのは乱菊だった。
「鏢主……!」
 短い言葉の意味する所を捉えて、修兵は咄嗟に目を見張る。
 其処に居たのは一人の女。整った顔立ちだが、単純に美女と括るのに憚りがあるのは、鋭く毅い瞳の為。場の空気を支配する存在感は、どこか感嘆すら与える。
 だが、
「絳河鏢局鏢主、蒲生絳(がもう こう)だ」
 修兵の視線を受けて、名乗った女は明らかに若い。乱菊と比べても、そう幾らも違わないだろう。相手の驚愕を知ってか知らずか、彼女は頓着無げに言葉を続ける。
「お前の方の自己紹介は後回しだな。……――で? 有信」
「一人残っているのは、雪山派の御老体だ」
「へえ」
 頷き、そうして立った絳を改めて眺め、老人は低く呻いた。
「……絳河の小娘か」
「その通り。――それで、雪山派の狙いだのって話だったな」
 面白くも無さそうな口調に次いで、ちらりと目を遣る。後ろに居並ぶ彼らだけに告げた。
「――塩だ」
「塩?」
「……井塩(せいえん)か」
「あ、…――」
 納得した風な有信の言葉に、乱菊は大意を悟った。
 河漢の周辺、滄江中流の水郷地帯は同時に穀倉地帯でもある。そして、茶、木材、絹、鉱物、酒も有る。基本的に、河漢から南方にかけた一帯では、主要な物産はどれも産出すると言っていい。だが――その中に、塩が無かった。
 加えて塩は、茶と酒と並んで官の専売。これらは役所によって管理され、販売には許可と納税が要る。塩の産出地を全く持たない滄江中流域は、東海岸一帯で産する官塩の一大消費地だ。
 だが、専売は時として弊害を生む。値の高騰。そして、
「――…そうか、密売ね」
「あー、そういうコトか」
 東條もまた、肩を竦めた。
 専売品目の中で、最も利益が上がるのが塩である。第一に、必要とされる量が半端では無い。第二に、その流通方式だ。
 茶と酒は、それでもかなりの部分は民営の茶園、酒庫が税を払った上で生産、販売を行なっている。規制は有るが、ある程度は自由に流通していると言っていい。
 しかし塩は、塩田で生産されたもの全てが州の塩司(えんし)によって一括で管理される。為に、塩商はまず現金で役所から塩交引(えんこういん)と呼ばれる有価証券を買い、それを各所の塩司で現物と引き換える。これを販売する事で初めて、民間に塩が流通するのだ。
 塩引の買取、つまり、塩の販売許可が下りる商人自体に限定はないが、強大な資本力を有した商家が塩引を買占める事は多い。官と塩商との癒着も有る。畢竟、塩商には豪商が増え、塩の取引は一部の大商人に限定される。競争者が少なければ、塩の小売値段を殊更下げる必要も無い。――高騰する官塩に対するのが、密売によって流入する安価な塩だった。
「雪山麓周辺で取れた塩が、瑯河と滄江を下って河漢に来る。雪山派が瑯河を押さえときたかったのはそのせいだったって事ね」
「あの辺の川は、どれも最終的に瑯河と合流する。瑯河の水賊との繋がりが切れりゃあ、確かに難儀なコトになるな。それなりの量を運ぼうと思や、どうしたって船が必要だ。第一、密売の塩を流してるグループは一つや二つじゃねーしな」
 塩の不産出地が滄江中流に留まるのには訳が有る。内陸――特に西方の山岳地帯や高地には、海とは違うものが有るからだ。塩井(えんせい)と塩湖がそれである。尤も、単純に西と言っても、南北の面積も相当広い。河漢周辺には、それらの場所から運ばれた井塩、池塩、南方の海塩。または東海岸の海塩までもが塩司の統制をすり抜け、密売によって流れ込む。官や塩商がこれらの摘発に躍起になるのも当然だ。
 強大な組織力か、逆に小規模で確実な方法か。この場合、関わる者達からして、相当規模も資金力も大きいものだったと言えるだろう。だが、駆け出しと侮って絳河鏢局と敵対したが為に、結果として肝心の流通路をも断ち切られた。
「何だかもう、積もりに積もった逆恨みね……」
 呆れの強い乱菊の言に、有信が皮肉げに同意する。
「大門派が如何だと言った、其の正体が此れ。五十年経っても進歩せんどころか、一層落ちたようだな」
「――…と、いう訳だ」
 絳は、真っ向から視線を向ける。
「雪山派がこうなったのには、何が原因だの、何が悪いだのと、文句が有るなら勝手に言ってろ。あたしは一切聞く気は無い」
 無感動に言い捨てると、
「その上で、他に何か言う事は有るか?」
「…――儂を斬っても雪山派は死なぬ。嘗ての九大門派の名、世がそれ程容易く捨て去るものか」
「へえ、それは知らなかったな」
 揶揄を無視して、ひたりと貼り付くような声音が響く。
「必ず復興し、それは必ず、絳河鏢局を殲滅させるであろうよ。絳河鏢主は掌門を殺し、そして残った者達もまた、その前に敗れた。絳河鏢局在る限り、雪山派の敵として残り続ける。世は、新たな雪山派の門人が先達の仇を捨て置く事など赦しはせんわ」
 それは、脅しと言うより予言だ。しかし絳は、表情を一切動かさない。思い出したように、手にした刀を持ち直した。
「それを信じたければ勝手にしろ。ああ、それと――…これに関して門派の名がどうにかなる事は無い。雪山派はとっくの昔に復興してる。お前らは、単に雪山派を騙っただけだ」
 呆気に取られたのは、老人ばかりでは無い。
「……出鱈目を言うな、小娘」
「あたしは事実を言った。信じないのも、お前の勝手だ」
 嘲笑った、と見えただろう。怒りを凝らした目を向け、老人は剣を引き抜いた。
 対する絳も片手を払う。鞘から鍔、柄にかけて、太刀を縛めていた細い鎖がそれで解ける。――途端、
「…修兵……っ」
 鋭く促し、乱菊は腕を強く引いた。他の三人も、それぞれ無言で跳び退る。主楼の端まで大きく退がった。
「あの……」
「巻き込まれたくなかったら、離れて大人しくしときなさい」
 囁くような乱菊の言葉と、漂う軽い緊張に、修兵は開きかけた口を閉ざす。そんな様子を見せないのは、敵と対峙している筈の絳だけだった。
「そう言えば、有信」
 敵前にも関わらず、あっさりと首を振り向ける。修兵が預けたままの瓢箪を目で指した。
「さっきから持ってるそれは酒か?」
「俺のですけど。……預かって貰ってたんで」
「なら、瓢箪と酒と、両方貰うと言ったらどうする?」
「別に、いいですけど」
 拘り無く頷くと、促された有信は瓢箪を投げる。受けた絳に向かって、修兵はさり気なく告げた。
「――蓬壺(ほうこ)の及春酒なんスけどね、それ」
「瓊葉酒だな」
 銘酒の名に、しかし絳は、さらりと応じる。清明節に口切りする煮酒に対して、中秋節の清酒。
「ついでに新酒だ。――…大樽で返してやる」
 おもむろに、瓢箪を放った。
 高く舞い上がるそれと、柄に掛かった手。
 それより早く剣を翻し、肉薄する黒い影。

 一瞬―――……閃く白銀が、見守る彼らの瞳に映った。

 孤を描いて飛んだのは、剣を握った右の腕。静脈の浮き出た乾いた皮膚と、それが纏った黒い袖。
 袈裟懸けに、殆んど両断された身体が、骸となって落ちていく。光景に反して、血飛沫は無い。
 小手先の技数を圧したのは、只一撃。
 奇妙に遅い時の中、ゆっくりと、絳は刀身を翳すように傾けた。
 落ち来る瓢箪を、斜め下から斬り上げる。鍔元から切っ先まで、切り裂きざま瓢箪の中を滑るように刃が動く。音も無く両断され、芳香が舞って、甍の上に跳ね落ちる。
 酒に洗われた銀の刀身。軽く振って飛沫を散らせば、白い曇りも消え去って、只冴え冴えと澄んだ刃が現れた。
 続く音は、辛抱強く剣を持ち、飛んだ腕が落ちた音。甍の上で断面を曝した白い骨。今更のような僅かな出血。
 修兵は、今しも納められようとする刀に視線を戻した。抜刀した一瞬、気を感じた。灼熱を極めた、痛みにも似た気。
 名刀は冷気を帯びると言う。だがあれは、
「――…妖刀……」
「『赤烏』(せきう)よ」
 低い呟きに、乱菊が答えた。
「不幸を呼ぶような甲斐性は無いわよ? 単に、良く斬れるだけの刀。――とんでもなく、だけど」
 そうしてさり気なく、彼女は笑みを浮かべて傍らを見る。
「あれが絳河の鏢主よ。敵に回らなかった連中が、どれだけ賢明か分かるでしょ?」
 どこか挑戦的な乱菊。修兵は、苦笑混じりに頷いた。





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