州都騒乱 捌


 この夜、河漢城内で一連の騒ぎが顕在化するより前の事。船着場に停泊する平底船から、河漢の各所へ散っていく男達の姿があった。決行時刻と詳細な目的地の情報を携えた彼らは、雪山派の門弟である。各々の潜伏場所で船内での決定事項が伝えられる頃には、夕闇は空の全てを呑み込んでいた。
「――…計画は察知されたようだが、流石に鏢局の人間全てに通達するだけの時間は無い。此処は敢えて襲撃時間を早め、機先を制して対処を講じる間を与えぬようにする。いかな絳河鏢主といえど、部下どもを統率できねば鏢局の警備も覚束ぬ。天の時は我らにある」
 声自体は密かだが、自信に裏打ちされた言葉に対し、複数の同意が空気を揺らす。
「今宵、鏢局に残っておるのは少数だ。鏢主を斬ってしまえば各地に散っておる部下どもなど根を断たれたも同然。一致団結して事を成すなど不可能なのだからな」
 つまり、それが最終的な決断であったのだが、次々に目的地へと向かう彼らの誰一人として、これより遥か以前に絳河鏢局の中で交わされた会話など知る由も無かった。

「七年経って漸くか――」
「慎重で執念深い雪山派らしいじゃないのさ。それとも単に、後が無くなったから重い腰を上げたってだけかねぇ」
「どちらかと言えば後者でござろうな」
「どの道同じだ。雪山派、その他の門派と山賊、水賊。ご丁寧にも絳河鏢局に恨みを持ってる連中が残らず集まって河漢に来る。やる事は一つだ」
「丁重に迎えてご退場願うって?」
「別に全滅させる必要は無い」
 東に園林(ていえん)を付属させた邸宅、という趣の絳河鏢局総号(本店)。正房(おもや)の起居(いま)で卓を囲んだ相手二人に、茶飲み話の延長のように断言したのは絳河鏢局鏢主、蒲生絳である。
「もともと連中は三つに分裂している。第一に、密売で得た利益を利用して門派再興を目論む雪山派。第二に、純粋に井塩密売の権益回復を目指す、山賊や元琅河水賊の残党を含んだ井塩密売の関係者。第三が、雪山派の力を頼みに絳河鏢局への恨みを晴らそうとする連中」
「そりゃまた見事な同床異夢だねぇ」
 揶揄したのは、鏢局の事務運営全てを仕切る総管、新納天海(にいろ あまみ)。一度でも目を通したものならば一字一句違えず思い出す事が出来るという驚異的な記憶力と優秀な処理能力を有する才女であった。鏢主が勝手気儘に振る舞って、それでも鏢局の運営が滞らないのは、彼女の才幹によるものであろう。
「で、江峡(こうきょう)の水瀬(みなせ)、江城(こうじょう)の季久(すえひさ)、滄江の時尭(ときたか)……打てる手ならいろいろ有る訳だけど」
「江峡の水瀬殿は瑯河と関わりが深かろう。彼女の船団を拠点とし、こちらから鏢頭と鏢師を戦力として派遣するという手もござるが」
 交互に口を開くが、意見を述べるというより結論を促しているような口調である。
 そもそも、成り行きとはいえ、雪山派と敵対した時点でその後の展開は読めていた。武林門派に属する人間というのは、概ね自尊心の塊である。つまり、過去の敗北を恥として、何代かけても復讐を成すのは当然だという厄介な思考回路の持ち主が多い。掌門が絳に敗れて程無く、別の人間によって門派壊滅の憂き目に遭わなければ、何年か前にはこの状況になっていた筈なのだ。それを見越して滄江上流域への表立っての進出を避け、中流から下流にかけての基盤を固めて雪山を探っていたのだが、それが漸く実を結ぶ事になりそうであった。しかも、随分と丁寧な事に、雪山派以外のおまけまで付いて。
「連中は馬鹿では無い。…――と、自任している。だからこそ、この期に及んで広範な戦力分散はしない。標的は鏢局総号。更に言うなら絳河鏢主」
「一鏢局の娘っ子を結構評価してんだねぇ」
「出来れば過小評価したいだろうが、そうなると、その小娘とやらに負けた雪山派の立つ瀬が無さ過ぎるからな。万全を期して、という建前で襲撃準備をするだろう」
 完全に他人事の口調で、自分自身への評価を解説すると、
「わざわざ来るというのを邪魔する理由は無い。第一、一ヶ所に集結した所を殲滅した方が効率的だ」
 要は河漢に大挙してやって来た所を一網打尽にするという事である。
「方針自体に反対はしないけどさ。単に力押しってのは止めて欲しいね。後始末が面倒ったらありゃしない」
「心配するな。こちらが基本とするのはこれまで通り情報戦。武功を競っての戦いも避ける気は無いが、単なる仕上げだ。その前に八割以上片を付ける。――大体、そうやって付け入る隙が有るから、又三郎が嬉々として出張ってるんだろうが」
 別に非難するでも無く、絳は天海の対面に座した男を見遣った。意図を見抜かれた方は相変わらず泰然としていたが、僅かに口元が緩んだようである。鏢局総号の番頭で祐筆を担当する磐座又三郎(いわくら またさぶろう)。元は州の胥吏(しょり)で、中々の能吏だったが、本質的にアウトローであったらしい。現在、鏢局の中で官や役所に対する交渉は彼が一手に引き受けている。日々書類と書簡に埋もれて役人イジメ……もとい、仕事に精を出しているのだが、権謀術策が酒より好きで、こういう計略には人一倍熱心に取り組む男であった。滄江上流域に点在した鏢局の関係者による雪山派の監視と探索も、総号では彼の管轄する所である。
「そりゃねぇ。どうせ雪山派以外の連中なんて、雪山派って実力者の下で怨恨と利益と打算で纏まってるだけの連中だろうけどさ」
「少なくとも雪山派の門弟が、他の門派や賊を同志と考えておらぬのは事実でござるよ」
 堂々とした体格に相応しい量感の有る声で、又三郎は説明した。
 雪山派の門弟達は、他の者達を自分達の力を借りねば何も出来ない無頼の輩だとしか見なしていない。彼らにしてみれば、雪山派は武林に冠絶する名門であり、自分達を賊や弱小門派崩れの粗暴な連中と同列に考えるなど論外である。というより、本来ならばそうだと考えるからこそ、彼らや彼らの先達を、現在のような屈辱的状況に落とし込んだ相手に対する憎悪は深刻なのである。そして無論、格下として雪山派から見下される方も不快であった。彼らとて、別に麗しい友愛で繋がっている訳では無いのだ。しかし、事ここに至った以上、雪山派と手を切っても益は無い。それどころか、自尊心を傷付けられた雪山派が復讐の牙を向けてくる事もあり得る。絳河鏢局に対する恨みによって、不満から目を逸らしている状況である。
「ま、どちらさんも気の毒な境遇ではある訳だね」
 軽い声音の天海は少しも同情していない口調で言ってのけると、
「で、他にも亀裂は有るのかい?」
「寧ろ、こちらの方が深いでござろうよ」
 徹底して絳河鏢主への復讐に拘る雪山派門弟の偏執ぶりは、井塩の密売権益を第一に考える者達からすれば度を越している。彼らにしても恨みは有るが、それよりも重要な事は幾らでもあるのだ。また、雪山派が武林門派の名跡に執拗に拘っている点も問題なのである。雪山派にとっては、井塩密売は門派再興の悲願を達成する為の財源確保の手段である。露骨に蔑む事は無いが、低く見ているのは明らか。場合によっては、密売組織を切り捨てて保身を図るのではないかと疑う向きもある――というより、それこそ関係者の中では既定の事実であった。単に現実化していないだけである。客観的に見て、同床異夢などという生易しいものではない。
「結論を言えば、連中がこの先、絳河鏢局の邪魔になりさえしなければいい。あくまで邪魔をするだろう雪山派は徹底的に叩くが、それ以外は何処の門派や賊が解体しようが生き残ろうが、こちらには関係無い事だ。それを前提に置いて連中の内部分裂に乗じる。――天海」
 呼ばれて、彼女はゆっくりと茶杯(ゆのみ)を下ろす。
「華蓋幇から硝石運送の依頼を受けた。船団を組んで河漢から滄江上流までを往復する。責任者としての鏢頭は楓。他にも護衛として相当数の鏢師を送れ。この船団の帰還直前に、鏢頭と鏢師の殆んどを河漢から出す。仕事の名目は何でもいい。一日だけ、鏢局総号が限りなく無防備に近くなると錯覚させろ。何故かは分かるな?」
「餌でござろう。――罠の上の」
「その通り」
 代わりに答えた又三郎に頷くと、楽しげに絳は続けた。
「それより以前は、特に鏢頭の多くを総号に詰めさせる。その後には客人を迎える予定が有ると情報を流せ。青城派、霍山派の幹部。ついでに華蓋幇や軒轅幇の幇主辺りを入れてもいい」
 鏢主が口にした面子に、天海と又三郎は思わず微妙な表情で視線を交わした。
「そんな予定が……」
「無い。が、遠からず河漢に来る人間だ。もうじき八大門派の武芸展覧試合。場所は嵩山だからな。西や南からなら水路で河漢。陸路で北上して嵩山だ。雪山派も、現実問題として武林の八大門派を敵に回した上で生き残れるとは思っていない。万が一にも可能性が有ると知れば、下手な博打を打つ馬鹿はいないだろう。第一、雪山派が主張しても他の連中が承諾しない」
 重要なのは、鏢頭と鏢師の殆んどがいなくなる一日を、唯一の、そして最大の好機だと錯覚させる事である。多少の無理を圧してでも決行するだけの魅力を持った餌を、殊更に放り出してみせるのだ。この場合、多少の無理、という点が重要になる。
「そして決行当日、絳河鏢主が襲撃の情報を得たと連中に流す。とすると、奴らは?」
「二者択一を迫られるでござろうな」
 空の茶杯を弄びながら、又三郎が目を細める。
「計画を中断し、一旦引き上げて次の機会を待つか。そのまま計画を実行に移すか……」
「で?」
「この場合は、後者でござろう」
 雪山派には大して後が無い。ある程度の財源を確保し、影響力を回復して武林の名門門派として再建を果たすつもりが、権益を侵され、井塩密売組織内部での面目も潰され、しかも密売の事実が明るみに出れば、武林から完全追放されるばかりか、官からも今度こそ犯罪者集団と見なされる。追い込まれていると言っていい。自業自得ではあるが。
「……アタシに分かんないのは、ウチを潰したって事態は好転しないってのに、敢えて賭けに出たがる連中の頭ん中なんだけどねぇ」
「思うに、雪山派もまた二分しているのではござらぬか。我らを排除した後に上手く状況を利用できると確信している者と、再興の不可能を悟り、積年の怨恨を以って絳河鏢局を道連れにしようとする者と」
「ふーん……つまり、追い詰められて視野が狭まってんのは共通してるって?」
「恐らくは。そして、不満を持ちつつ協力する他無いというのが雪山派以外でござろう」
「それなら余計に不覚を取る訳にはいかないじゃないのさ。大丈夫なワケ?」
「だからこそ、人の多い時間帯に誘き出して無関係な場所で騒ぎを大きくする」
 襲撃の情報を得て、周辺まで戻っている鏢頭や鏢師の帰還を急がせる。と見せかける。城門は夜には閉まるが、ある程度以上の軽功の能力があれば城壁の存在は問題にならない。焦りを誘って襲撃時間を早めさせ、尚且つ鏢主が鏢局以外の場所で戦闘状態に入れば、他の連中もそこに集結せざるを得ない。
「姿さえ現せば、それはあたしが始末する」
 本来ならば、その部分にこそ最大の備えが必要なのだが、彼女が言うと、些細な途中経過の一つにしか聞こえなくなるのであった。
 事も無げに出された結論に、心底嫌そうな顔をしたのは天海である。
「別に、後始末は廂軍(しょうぐん)に押し付けるからいいとしてもねぇ……。万が一にも雪山派とコトを構えたなんて広まったりすりゃ厄介事が増えるじゃないのさ」
 首都と辺境防備に配される実戦部隊である禁軍(きんぐん)に対し、州に所属するのが廂軍である。戦闘ではなく、公的な土木工事や漕運、警備業務に従事するのを主とする軍隊だが、天海の感覚からすると、明々白々な証拠さえ残さなければ面倒な事後処理を全て引き受けてくれる便利屋に近い。お役所よりも問題なのは、目下の敵の性格である。
 単に戦って勝てば良いというものでは無い。過去の敗北を恨み、執念深く復讐を企図するのを当然とする人間から、その意志を奪わなければならないのである。しかも、このような対立関係が周囲に及ぼす影響も看過できない。鏢局とて、客商売の一つである。
 深刻な懸念を、
「心配するな。だからこその情報戦だ」
 絳は台詞一つで片付けた。
「まず、この話を最低限の連中以外には乱菊含めて他言無用にする」
「乱菊まで? 後で拗ねんじゃないかと思うんだけどさ」
「雪山派にとって絳河鏢局と言えば、まず直接対峙したあたしと乱菊。当然、復讐の標的になるし監視も厳しい。しかも、あたしが情報を得れば乱菊にも流れると思ってる。うちの鏢頭の筆頭だからな」
「つまり、敵を騙すにはまず味方から……って?」
「乱菊の事は心配無い。実力も判断力も。あたしが問題にしたいのは敵の正確な情報だ。――又三郎。あたしと乱菊が囮になる。連中を泳がせて、出来る限り詳細な情報を手に入れろ。人数。拠点の数と場所。特に雪山派の門弟だ。それから、江城の季久と連絡を取れ。雪山周辺に噂を流させる」
「噂?」
「雪山派の掌門が代わった。それどころか、旧派が潰され、新派が成立した。だが旧派の残党はこれに反抗し、自らの正統性を公認させる為に八大門派が集う崇山に向かい、新派はそれを阻止しようとしている。雪山派は今、新旧両派の対立の最中。その証拠に、雪山には今誰もいない。――…まあ、こんな所だろう」
 あからさまに呆れる部下二人を無視し、絳は片手で茶杯を揺らしてみせる。
「季久なら虚実織り交ぜて上手くやる。これが広まれば、雪山に戻った残党がいても、噂が間違いだと証明しない限りは雪山派だと主張するのに最大の根拠を失う。武林門派が拠って立つのはまず、武術と根拠地。雪山の占有を疑われる雪山派なんてのは笑い話以下だ。だからこそ、一鏢局より、新派とやらの総帥を倒す方を優先せざるを得ない」
「しかしね、新派なんてのが存在するってのは……」
「あながち嘘とは言えぬでござろう。実際、一度雪山派は壊滅した。ならば、その時点で新派が成立していたとしても可笑しくは無い」
「極論を言えば、雪山派が未だに存続してるのは、新たに雪山を根拠地にする門派が成立しなかったからだな」
 武林での各門派の根拠地は、宗教で言う聖地の感覚に近い。つまり、実質以上に心理的な問題である。門派の多くが、所在地たる山名や地名を冠するのはその為だ。武林に通底するその感覚が、門派の存立にとって諸刃の剣であるのは皮肉な話である。
「雪山新派の掌門は、更木剣八」
「……顔に刀傷。刃零れした長刀。何故か子供を連れた大男。だっけね。五年前、雪山派を壊滅させた男なら全くの虚構でもないってワケか」
 脳裏で記憶の頁を捲り、天海が肩を竦める。
「その男に、雪山新派の看板を背負って貰おうって? あちらさんには迷惑な話だねぇ」
「そもそもは雪山派を窮鼠にした元凶だ。事態の責任の半分くらいは取らせないと不公平だろう」
 こと自分の事に関しては全責任を部外者に押し付けて涼しい顔をしている人物の発言とも思えない。
「それならば、例の井塩密売についての情報を滄江を往来する塩商に流すべきでござろう。予め噂が流れていれば、河漢で起こる騒ぎについても、外部に対しての辻褄合わせは如何様にも出来る。鏢局とは無関係の、井塩の権益や縄張り争い故の騒ぎとでも出来れば重畳。特に雪山派については伏せた上で、真実に近い話を流すが宜しいでござろうな」
 静かに主張した又三郎は、絳の視線に促されて言葉を継いだ。
「一つには、この場合、不完全な話の方が組織内外に対して真実味が有り、二つ目に、組織内部で密売の関係者からの疑いが雪山派に向く。よって、組織の亀裂を決定的にするのには丁度良いかと。一旦崩れれば、以降の関係修復は不可能になるでござろう」
「――分かった。その案を採る」
「いいワケ?」
「心情的にはとっくの昔に分裂してる連中だ。ひた隠しにしてる真実の一端が暴露されれば、自己防衛本能が働いて責任回避に躍起になるぞ。この場合、互いに内情を知ってる分、味方の存在の方が危機感を煽る」
「なるほどねぇ……」
 このような対処法を取るから、絳河鏢主は暇さえ有れば傍迷惑な騒ぎを盛大に起こすトラブルメーカーだという偏見でもって見られるのである。尤も、こういう論評に関する最大の問題は、偏見が完全な事実という点なのだが。
 とは言え、離れた場所で共存するのも嫌だと言うのなら、徹底して排除するしかない。
「結局の所、事実の改訂は勝者の特権でござろう」
 冷静な口調で又三郎が吐いた些か危険な台詞が、有益な対処法となりそうであった。

 急速に成り上がった組織ほど、指導者の個人的な能力に依存し、且つその人間に対する忠誠で繋がっているものである。この点、支店に人員を割くなどという無駄をせずに、拠点の河漢と鏢主を標的とした判断は完全に利に適っている。只一つ、問題があったとすれば、これらの計画と判断全てが絳河鏢主の見透すところだったという点であろう。絳河鏢主は喧嘩に勝つための努力を惜しまない人間で、勝つなら徹底的に勝つ主義であったのだ。そして不幸な事に、敵はその事実を知らなかった。
 ――かくして、州都を舞台とした決戦が盛大に行なわれたのである。





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