州都騒乱 玖


 河漢は州都。他と同様、その周囲を濠を巡らせた城壁に囲まれる。史書に於いて基準とされる所に従えば、街を方形に囲んだ城壁にある門の数は、東西南北に各三門。しかし今は、首都の紫京府ですら城門の数には異同が有った。河漢では、それに加えて水門も多い。そもそも地形の問題から、城壁で囲まれる市街も、歪な方形に辛うじてなっているのみ。増してや街道や主要な水路に面した門の外には、出入りする人や荷の為に店や宿が集まり、城内と遜色ない程の賑やかな街路が形成されていた。
 大河に沿い、支流や運河が引かれた地域では、水路も――否、水路こそが重要な街道である。河漢でも、夜となれば城門と水門は共に閉ざされる。だが、喧騒は閉門後も収まる事は無い。早朝の五更に始まる人の動きは、深夜の三更まで確実に続く。街路が特に賑やかなのは、酒楼を中心として広がる一帯。その、滲んで浮かぶ光のほぼ中心で、騒ぎが収束しようとしていた頃。

「あの野郎…何チンタラしてやがんだ! 朝になっちまうぞ!?」
 仁王立ちした幇主の目が、眼前の暗く沈んだ碧水を睨んだ。遥か対岸で溢れ出した河漢の光も、大河を渡るまでには及ばない。
「うむ…確かに、予定よりもやや遅れておりますな」
「全く、幇主の性格は十分以上に御存知だというのに、何をやっておられるのか」
 低く唸るように言葉を交わすのは、幇主の後方に付き従った、二人の良く似た風貌の大男。その片割れが、夜闇に揺れる碧水の奥に一つの船影を見出した。
「空鶴殿、あれをっ!」
 滑るように近付いてくる一艘の小船の舳先に、待ち望んだ弟の姿を見付け、空鶴は組んだ両腕を無言で解く。
「おーい! 姉ちゃ……」
「――……ッ遅えェェェェェェェっ!!」
「おおっ! 岩鷲殿……っ!?」
 欠片の遠慮も無く顔面に炸裂した飛び蹴りに吹き飛んだ大柄の男。そのせいで、碧水の水面が盛大に裂ける。
「ちょ…っ姉ちゃ……待っ……お、溺れ…――!」
「うるせぇッ! テメエは一生そこに沈んでろ!! 今一体何時だと思ってんだ!?」
「い、イヤ…ちょっと手間取っちま……っぶッ」
「そーかそーか。…だったら急ぐよなぁ、普通? なぁぁぁんで呑気に手なんか振ってやがんだテメエ!?」
 先程まで本人が居た舳先に立って、泳ぎ着いた岩鷲の頭を踏み付ける。それもこれも、空鶴が激怒している故なのだが、攻撃が果てしなく理不尽なので犠牲者が幾分憐れでもある。水泡を残して全身を碧水に沈めてしまった岩鷲に対し、同乗者は思わず合掌した。
「……うーん、苦労なさってんですねぇ…」
 曖昧な主語でしみじみと、しかし結構他人事の風情である。そんな彼女に、弟をしばき終えた空鶴が向き直った。
「で? 何か問題でも起こったのか?」
「あ、いえいえ、指定の品は、全て問題無くちゃんと倉庫に収まってます。弟さんが幾つかの倉庫の納品量を取り違えてたり停泊場所の指示に手間取ったりして余計な時間をロスしただけですから」
 他人を庇うとかフォローするとかいう思いやりの有る言葉とは縁の無い台詞が淀み無く流れ、一瞬、弟を見遣った空鶴の視線が剣呑さを増した。
「――で、まあ、それは横に置いといて。確認お願いしますね」
 一言で勝手に事を決着させ、彼女が差し出したのは書類の束である。それらは全て、官印を捺して日付と数量を記した硝石の取引証明。但し、日付は古いものでは一年以上遡り、書類全てを合計した取引数量は今回の納品量と同じ――身も蓋も無く言えば、偽造書類である。烟火(はなび)の製作に必要不可欠な黒色火薬。その原料の七割を占める硝石が官の専売品である事から、念には念を入れた辻褄合わせが必要なのだ。正式流通している高い品で全てを補うのが嫌なら、密売品で穴を埋めるしかないのが道理である。
 官吏の中には、専売品による収入は流通の独占と密売黙認の見返りによってもたらされると見なす者も居るので、このような暗躍の余地があるのだった。官吏全てが清廉潔白であれば、彼らは渋々ながらも真面目に官許の硝石を買うしかない。そうならないのだから、まあ、程よい世の中と言うべきであろうか。
 はるばる滄江上流から、穀物や鉄鉱石の輸送船団に擬して密売硝石の運送をやってのけた絳河鏢局の鏢頭に対し、空鶴は共犯じみた笑みを向けた。
「いつの間にか、滄江上流の主要水路も完全に影響下に置いたみてぇだな」
「鏢主の人徳ですね」
 ぬけぬけと、と表現されるべき台詞を、きっぱり明るく言い切ってみせるのが彼女である。明朗快活の意味を若干取り違えれば、三条西楓(さんじょうにし かえで)という人物を過不足無く表す言葉になるだろう。とは、鏢局の客分に納まっている前崋山派掌門の評す所だった。今のところ、それを否定する根拠は何処にも無い。
「……よしっ!」
 向き直ると、志波空鶴――華蓋(かがい)幇幇主は、岸辺に居並ぶ幇会の面々へ、明快に宣言した。
「要員を残して全員退避! 打ち上げるぞ!!」

 灯火の光が溢れる城壁の中。河漢一の酒楼を見上げる人の数は、いつしか通りを埋めて通行を妨げる程に増えていた。しかし、楼閣の高さによって判然としない実際の騒ぎを見上げていたのは、その中の一部。他の殆んどは、不自然な群集に興味を引かれて集まってきた人々だった。幾つもの指が楼閣の上を指し、口々に話が伝わっていくが、どれ程正確に広まったかは定かではない。
 そして、上空から轟いた大音と共に大きな光が射したのは、丁度そんな時だった。
 最初に認識したのは打ち上げ音。
 空気を打ち裂く鋭い音は、誰しもが慣れ親しんだ音である。しかし、それが聞こえる理由に思い当たらない。酒楼を取り巻いた人々が不審混じりに見上げた先で、河と街とを揺るがして、夜空に火花の大輪が咲いた。
「烟火……!!」
「一体何だ。祝い事でもあるのか」
「正月には半年早いぞ」
「何処で打ち上げてるんだ。城壁の外か?」
「まさか。街の近くじゃ許可が下りんだろうよ。下手な所に火の粉が降ったら火事になっちまう」
 打ち上げ場所は、碧水を挟んだ河漢の対岸。夏の風物詩、では無論無い。烟火や爆竹の音は、大晦日の深夜から元旦にかけて響き渡るもの。祝い事ならこれに限らないが、それにしては余りの規模である。一瞬、明るい光が辺りを照らし、それが消えない端から新たな光が打ち上がる。瞬く間に、空は光に染められた。
 呑まれたように仰ぎ見る者。人込みから抜け出して、見易い場所へと走った者も居た。
 突然の烟火。不審と驚嘆が綯い交ぜになった彼らの意識が楼閣から外れ……そして、漸くその存在を思い出した時、既に楼上からは動く人影が消えていた。

 水面に出現した華麗な松明。
 燃え上がった炎は、或いはそのように見えたかもしれない。――安全圏まで離れていれば。
 逃亡に失敗し、破壊と焼失が同時に行なわれるのは、複数の平底船。滄江を下って河漢に達した、積み荷を満載しているであろう船は、しかし今やその滄江の藻屑と成り果てつつある。
 火炎に包まれる船を飲み込む大河の上。沈み行く船を遠方に眺め、気楽な見物人と化している船上の男が、さして深刻でも無さそうな口調で呟いた。
「派手だが、折角の船が勿体無いな。どうせ不要なら私にくれないもんかな……」
「そいつは無理でしょう。密売組織の連中も、こうなったら、せいぜい証拠を隠滅して身の安全を図りたい所でしょうからな」
「――とすれば、見事に双方の利害が一致した事になるね。下手に証拠や証人が残って、身が危うくなるのは州の官吏も同じだろうから」
「と、言いますと?」
「兵の出動を指示した官吏たちに分かってるのは、井塩密売組織の船団と拠点についての密告の事実と、組織の内紛で騒ぎが起こってるという現実だけ。生憎、放置したり曖昧に済ませるには些か騒ぎが大き過ぎる。とはいえ、自分たちが金品を見返りに密売を黙認した相手だったりしたら事だしね。掃討しておけば、死人に口無しで、中央に対して密売組織覆滅の功を誇ろうと何処からも異論は出ない。という訳で、あの通りに密売組織の方々にはちょっと気の毒な事になってるって事さ」
 口調は完全に他人事であるが、井塩密売に関する流言を撒き散らして組織内部に疑心暗鬼を起こさせ、外部には不審と警戒を起こさせておいて、根拠地や船の近くで殊更騒ぎを起こしてみせる……という指示をそのままにやってのけた責任者は彼である。騒ぎを起こした上で盛大に煽った当事者の一人であるくせに、偉そうに論評してみせるのはどう考えても図々しい。
「……しかし、知州(州知事)が黙っていますかな」
「このやりようを追認するだけで、騒ぎようも無いさ。徹底的に調査して、万が一にも官吏が密売に関わっていたなんて明白な証拠が出て来たら、結局は監督不行き届き、知州の不祥事という事になって、下手をすれば首が飛ぶ。折角、勉学に励んで科挙に通り、上のご機嫌を取って知州の任に就いたというのに元も子もない。紫京府に還るなら、朝廷の重臣たるの地位に就く為でありたいだろうから。――というのが、鏢主の読みだが……」
「知州が自己の保身など顧みず、不正と腐敗を一掃する為に狂奔するご立派な御仁だった場合、どうなるんでしょうな」
「今の知州がそういう類の厄介な正義漢だ、という話は聞いたことが無いけどね」
 嫌につまらなそうに、男は肩を竦めた。
「鏢主によれば、その場合、安定した裏の収入とささやかな特権を守る為に、胥吏(下級官吏)たちが何だかんだと反抗や妨害をするだろう、という事だよ。知州の崇高な目的は、あえなく頓挫するか…成功するにしても後遺症は多い。まあ、そうやって忙しい間に密売商の方々は新たな手を打つだろうし、そもそも我々は無関係だから、諸々の暗闘を無視して本来の仕事をするだけの事さ。何にしても、ご苦労な話だよ」
 どう転んだとしても苦労するのは赤の他人なので、彼も呑気なものである。努力とか心配というものと全くの無縁ではないが、出来るだけ気楽に生きたいというのが、この男のささやかにして壮大な夢なのだった。
「まあともかく、なるべく無駄な苦労はしたくないもんだね。我が船団は平凡で堅実で平和的な下請け運送業者なんだ」
「巷で噂の絳河鏢局専属の、ですが」
「鏢主が派手で過激だから下っ端は地味で真面目でないとね」
「………そいつは初耳でしたな」
 どうも冗談で言っているつもりでは無いようなので、彼はなるべく嫌味にならない口調で返答した。
 彼らを、水上の炎とは別の光が照らしたのはその時である。
 烟火の光。そして音。街並の向こうを見上げて、太い声で感嘆の呻きが上がった。
「あれは華蓋幇ですかな」
「あそこまで見事な大輪を咲かせる烟火師は、華蓋幇幇主の他にいないだろうね」
「華蓋幇と言えば、確か鏢頭の誰かが荷の輸送を……」
「倉庫で大量の荷の出し入れをして外部からの不審を招かない為には、華蓋幇の場合、大掛かりな烟火の試し打ちをするに限る。誰でも、この為の準備だと思えば納得するからね。まあ、取り敢えずの理由はそんなとこだろう」
「という事は、他の理由も有るという事ですかな」
「さてね」
 意味ありげに格好の良い沈黙を落としてみせた後、しかし男は自らを擁護するように口調を変えて念押しした。
「言っておくが、私はしがない水上運送責任者だよ」
 関係者は誰も信じないでしょうがな。という言葉は、差し当たって口の中だけに留めておいて、部下は彼にこれからどうするかを尋ねた。
「そうだな……まあ、烟火が上がるなら、華蓋幇の依頼品輸送用に貸した船団も戻って来ているだろうし、今回の我々の仕事は一段落したと考えるべきじゃないかな。後始末はあるだろうけど」
「では帰還しますか」
「いや、滄江と碧水の結節点の方面に向けてくれ。烟火の観易い適当な場所で碇泊しよう。今夜の滄江じゃあ騒がし過ぎて休めんよ」
 悠然たる大河の静寂をこそ愛する、と公言する男、八洲時尭(やしま ときたか)は、言って一つ大きく伸びをした。
「……久々に緊張を強いられる仕事をした事だし、烟火を眺めて酒を飲んで、ゆっくり休みたいもんだね。今夜は多分、良い酒を鏢主が奢ってくれるだろう」

 河漢の各所を流血と炎と烟火とで彩色した夜。喧騒は、計画的な節度を持って収束に向かう。この日、河漢の城壁の内部では雪山派の残党が掃滅され、城外ではそれと関わりの有った井塩密売組織の拠点と船団が悉く消滅した。これによって、裏で起こるであろう僅かな流通の停滞は――しかし、他の者に利益をもたらす。
「おやまあ、州の兵士でもやる時はやるもんだねぇ」
 感心したような声は、時尭が去った後に現れた一艘の大型船の上で流れた。それを受けた相手は、幇主の姿に恐縮したように礼を施す。
「紗太君(しゃたいくん)……」
「このまま引き上げるように言っとくれ。わざわざ官吏どもに睨まれる事も無いさ」
「宜しいんですの?」
「不届き者の後始末は兵士と知州が引き受けてくれるよ。有り難い事にねェ」
 くつくつと笑って、川風に着物をそよがせるのは一人の老婆である。
「井塩密売組織の一つが、武林の門派と結んで河漢での権益の独占を狙っている――と聞いて、取り敢えず赴いた訳だけど、手を出す必要も無かったようだね。どの組織であるにせよ、世間の目は当分、井塩の密売商に向くさ」
「権益を侵されるのは我々だけではありませんわ。誰かが密告したのでしょうか」
「随分と手際が良いようだけどねェ。――と言うより……」
 寧ろ楽しげに、白髪の頭を傾ける。
「権益独占云々の話が本当だという証拠も無い。尤もらしい理由を付けて、特定の組織を潰すのが目的かもしれないねェ」
「太君?」
 当惑した問いには答えず、老婆は切れ切れに自分を照らす烟火を見遣った。
「さて、華蓋幇の娘には、硝石はともかく井塩は不要だけど……この烟火、全くの無関係にしては気の効き過ぎる演出のようだね」
 思案しながら、混乱に混乱を重ねた挙句に自分の周りには破綻をきたす事無く収拾する厄介な小娘が河漢に居る事を、努力する必要も無く思い出す。更に考えを巡らせて、思わず呟いた。
「……全く、呆れた娘だ。こちらが気付こうが気付くまいが関係無い、と言うつもりかい」
 犯罪が起こった時、それによって最も利益を受ける人間が真犯人。という論に従えば、特定の井塩密売組織が壊滅して恩恵を受けるのは、他地方の井塩、池塩、海塩の密売商である。一方、思い当たる娘は鏢局の主。普通に考えた所で繋がる筈も無い。殊更に密売組織を潰してみせたのは、その余波で自分の鏢局の関わった騒ぎをうやむやにする為か。
 恐らく、ではあるが、その辺りだろうと見当を付ける。近い場所で大きな祭が行なわれていて、無視するような娘ではあるまい。寧ろ、派手に烟火を上げた後、焼け焦げて散乱した筒や紙の始末をお役所に押し付けるような問題児だ。煙と火薬の匂いに紛れて姿を晦ますのは得意であろう。
「――おや、不満のようだね」
「太君。それでは、体よく利用されるようなものですわ」
「分かり切った事をお言いでないよ。アタシは勿論、利用されてやるのさ」
 絶句する相手に、あっさりと続ける。
「名誉の使い所を間違えるんじゃないよ。ここで自己満足を買って、ウチの連中を食わせてやれるもんかね。第一、誰に借りを作った訳でも無い。後になってあの娘が恩着せがましく交渉してきたとしても、こっちはしらばっくれるだけの事さ。……さあ、長居は無用だ。忙しくなるのはこれからだよ」
 言って、おもむろに手を振って促す幇主に、差配の一人は目礼して足早に去った。
「誰の意図だろうと、当分、河漢では密売井塩の流通が滞る。となれば当然、東海岸の海塩で裏の市場を占めるように動く。結局の所、それがウチの仕事なんだからねェ」
 独白し、白沙(はくさ)幇幇主は、再び空の烟火を見上げた。





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