それは、ある休日。
「……あ」
「…ちょ……っ!?」
「ちょいと待った」
 強引に腕を引っ張った後で呼び止める。という、どう考えても意味の無い事をする友人のせいで大きく後ろに仰け反った乱菊は、寸での所でこけるのを踏み止まった。
「危ないでしょ、梓!? っていうか、口で言いなさいよ!」
「いや、言ったじゃん。後で」
「あのね、だから」
「そんでさ、乱菊」
 非難をきっぱり無視して、彼女は傍らのショーウインドウを指で差す。
 文句を続けるよりも早く、その指先を追った乱菊は、意外な物を瞳に映して戸惑った。
「……香水?」
「そだねぇ」
 そこに有ったのは、やや青味がかったガラスが作る、すっきりした形。黒と銀色のロゴマーク。
 訳が分からず眉を顰める乱菊に、梓はそれを眺めながら、本気で何でも無さそうな口調で付け加えた。
「ついでに、男物」




「で?」
「買えば? もうすぐホワイトデーだし」
「……何でよ?」
「えーとつまり、ホワイトデーはバレンタインのお返しをする日なんだけどさ」
「いや、知ってるわよ」
 それくらい。
「じゃあ」
「あたしの訊きたいのは、何でホワイトデーだからって香水を買えって事になるのかってコトなんだけど。しかも男物」
「何でも何も、チョコ貰ったって言ってたじゃん。後輩クンに」
「…………えーっと……?」
 それはもしかしてアレなワケ? 修兵が押し付けられてたバレンタインチョコを処理するのを手伝ったってコトを言ってんの?
 あっさりと、彼女は頷いた。
「そうだけど」
「あのね。あれは単に食べ切れないからって頼まれただけで……」
「うん、だからさぁ……貰ったんでしょ? 要は」
 一瞬だけ、言葉に詰まった乱菊を見遣って、梓はさらりと続けた。
「あー…まあでも、向こうも気付いてないんなら別にいいのか」




「……乱菊ってさ、負けず嫌いだよねぇ」
 冗談だったのに。半分は。
「買った後で言わないでくれる?」
 乱菊は、しみじみ言った悪友を半眼で睨む。
「っていうか、何かにつけて、男物の小物とかアクセサリーの前で立ち止まってたのはあんたでしょ」
「いや、ホワイトデーだからって飴やマシュマロは無いしねぇ。どうすんのかなーと思ってさ」
「あたしは、修兵に何か渡すとも、そもそもあれをバレンタインと認めるとも言って無いわよ」
「そりゃまあ、そうだけどさ。……でも結局買いに行ったじゃないですか、お姐さん」
 わざわざ引き返して。ついでに人をスタバで待たせて。しかも買ったの香水だし。
 至極穏やかに指摘され、乱菊は不機嫌そうに視線を逸らせた。
「一応男物だけど、渡さなくても別に自分で使えるじゃない」
「ああ、成る程」
 取り敢えず、安めでいいのあって良かったねぇ。と、目の前でラテを啜る友人は、何処までも他人事である。
「……自分でけしかけといて」
「そだねぇ。乗ったのは乱菊だけど」
 呑気に笑って、
「ともかくさ。これからは逆を狙えばいいじゃん」
「逆?」
「うん」
 そう、真っ直ぐに目を見ると、彼女は人差し指を立てた。
「さり気なく恩を売って、十倍返しで回収する」
「…………」
 友人の忠告と言うより、寧ろ悪魔の囁きを聞いている気分の乱菊である。
 ――そして、そんな彼女がどうするのかが分かるのは、また別の機会という事になるだろう。





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