朗月


 窓を叩く音に視線を上げると、見慣れた顔がそこにあった。
「修兵、どうしたの?」
「残業ですか?」
「見ての通りね。もうすぐ終わるけど」
「それ終わったら飲みましょうよ」
「……何だか珍しいわね」
「たまにはいいじゃないスか。それに、手土産もありますよ」
 修兵が持ち上げてみせた清酒の大瓶に、乱菊の顔は呆れつつも綻んだ。
 当然の如く窓から上がり込んだ修兵を横目に、乱菊は額に青筋を浮かべた上司から突き付けられた書類の束の最後の一枚を片付ける。
「上手く手を抜くのって結構難しいわねえ……」
「何やらかしたんですか、今度は」
「何もしてないわよ。ただ、積もり積もったツケがちょっとね」
「……要は日頃の行いが悪いって事ですか?」
「放り出すわよ」
「スミマセン、失言でした」
 間髪入れずにそう続く。笑いながら、乱菊は二人分の杯を取り出した。
「ああ、そうだ乱菊さん。それからこれも」
「何? どうしたのソレ」
「偶然見つけたんで。秋らしくていいかと思って取って来たんスよ」
 修兵が差し出したのは、一枝の黄葉。円錐形に曲線を描いた薄く繊細な葉が、互いに重なり合うようにして細い枝に連なっている。
「桂の樹だと思いますけどね」
「そう言えばそんな季節になんのねえ……。なんか、そういうコトあんま考えてなかったわ」
「って事はやっぱり忘れてたんスね」
「何をよ?」
「十三夜ですよ、今日」
「――――………あ」
 言われて思い出したのは、一月近く前の十五夜の事。その日、乱菊は寝るのが勿体無いからと、修兵を半強制的に巻き込んで飲み明かした。その飲み明かしたと言うのも比喩などではなく、本当に明け方まで飲んでいたのだが。
「そいえばあたし、十三夜も飲みに行こうとか言ってたわね………ノリで」
「ま、多分そうだろうと思って誘いに来たんですけどね。褒めて下さい。俺、結構頑張って片付けたんですから、仕事」
「あー……ゴメン。ありがと」
「まあ、俺は乱菊さんと酒が飲めれば何でもいいんスけどね」
「……下心があるんだか無いんだか分かんないセリフねえ」
 執務室には、生憎、花瓶などという都合のいい物は置いていない。湯呑みも流石に、枝を挿すには少々不足。結局、色付いた小枝は陶製の徳利におさまった。
 灯を落とし、肴は月と、黄色に染まった桂の一枝。
 満月ではないとは言え、それに近い形の秋月はやはり明るい。ただ、空には切れ切れに雲が飛び、夜闇を浮き上がらせる光は何処となく柔らかい。全てに限り無く降り注いでいた中秋の月とは、見せる表情が全くと言っていいほど違っていた。
「月には、桂の樹があるんスよ」
「コレ?」
「とは違うんじゃないスか? 想像上の樹らしいですから」
「それが月にあんの?」
「生えてるらしいですよ」
「でも、月って兎がいるんじゃなかった?」
「そういう伝説もありますよ。だから月の異称は玉兎」
「……月って、樹が生えてて兎がいんのねえ」
「どうなんですかね」
 交わす会話も、流れる空気もいつもの通り。だがあの時は、変わらず会話をしていても、何故か全てが違っていた。
「―――十五夜って特別なのね」
「だから月見があるんですよ」
「じゃ、十三夜って何であるのかしらね」
「綺麗だからじゃないですか?」
「でも、凄いのは十五夜ね」
「なら、それを確かめる為ですよ」
 懐かしいのは、思い返して惜しむ為。後の月に、過ぎた一度の月を惜しむ。





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