野掛


 落ち着いた緑の所々で染め色と枯れ色が混じり合い、秋草が風にゆったりと揺れる。
 特に理由も無くそんな場所に来ていた修兵は、何故か隣に並んでいた乱菊の唐突な言葉に面食らった。
「ねえ、それってどーいう意味?」
「は?」
 指示語の意味が全く分からず聞き返すと、乱菊はやおら修兵の左の頬を引っ掴む。
「コレよ、コレ!」
「ちょっ……痛いですよ、乱菊さん!」
「ふーん。引っ張っても取れないのねえ、コレ」
「いや聞いて下さい、人の話。っていうか、刺青なんでつついても取れませんから」
「やっぱこれって、彫ってあんの?」
「他に何を刺青って言うんスか」
「それでこの数字ってどーいう意味なの? 69? それとも6と9? それにその意味の無い横棒」
 真っ当なツッコミを悉く無視した上、人の刺青に対して随分な言い草である。
「刺青の意味って……何なんですか、突然」
「だって気になるじゃないの。恋次とかイヅルによると、統学院の頃からあったって言うし」
「ああ……あいつらですか」
 そういえば、他の同僚達にも一時期よく尋ねられた。適当に流していたので、最近は聞き出すのを諦めたらしいが。
「ちょっと、勝手に納得してないで教えなさいよ!」
「だから何でそこ引っ張るんですか!」
「あんた死覇装に袖無いから掴むトコないのよ。放してあげるから大人しく教えなさい」
「しかも脅迫なんですか」
「……あんた、腫れ上がった顔で部下の前に出たいワケ?」
「いや乱菊さん何するつもりなんスか、勘弁して下さい」
「じゃあ、さっさと数字の意味教えなさいよ!!」
「分かりました! 分かりましたから放してください。お願いします」
「ホントね?」
「本当ですって。だから……」
「オーケー、いいわよ。簡潔にね」
 ようやく理不尽な攻撃から解放されると、修兵は無意識に顔に手をやり、息を吐く。
「えーっと、この数字ですよね? インコウとヨウコウです」
「…………………」
「何でそこで手が伸びるんですか!? さっき簡潔にって言ってたじゃないスか!」
「簡潔過ぎてワケ分かんないわよ! 何なのソレ!?」
「待っ……説明するんで、いちいち人の顔を攻撃対象として狙うのは止めて下さい!」
 両手で顔を防御して、何とか三度目の攻撃は避ける。
「じゃあ、分かり易く丁寧に、短くね」
「どっちなんスか、一体………いや、ちゃんと説明しますけど」
 向けられた視線に、条件反射のツッコミを慌てて打ち消す。
「だから陰爻(インコウ)と陽爻(ヨウコウ)――六が陰爻で、九が陽爻。漢字で書くとこうです」
 手近な棒切れで地面に文字を書くと、横から乱菊が覗き込む。
「ふーん……で?」
「爻っていうのは易で卦を組み立ててるもの。こういうの、見た事ないですか?」
 言って地面に、漢字の一のような横棒と、それが二つに分かれたような二本並んだ短い横棒を交互に三つ、縦に並べた図形を作る。
「この形が八卦。これを作る二種類の棒が爻です」
「そーいえば、現世の占いなんかでも見た記憶があるわね」
「で、この真ん中に描いた二本に分かれたような棒が陰爻。その上下に描いた一本の棒みたいなのが陽爻です。ちなみにこの形は『離(リ)』。火なんかを表してます」
「それから?」
「こんな風に爻を三つ並べた組み合わせが八通りあって、だからこの形を八卦(ハッケ)。この八卦を更に二種類縦に並べて……」
 言いながら、地面に描いた『離』の下に、同じ形をもう一つ描く。
「こう、全部で爻を六本にした一つの形を一卦と呼びます。この二種類の八卦の組み合わせが更に八通りあって、合計すると六十四卦(ロクジュウシケ)。普通はこの六十四卦それぞれの形で森羅万象を占うんスよ」
「…………回りくどいわね」
「だから占いが職業として成立してんじゃないスか」
「そーじゃなくてあんたの説明がよ! 結局何が言いたいワケ!? もう、前の方とか忘れちゃったじゃない!」
「うわっ、止めて下さい!」
 慌てて防御に回る。相手が相手なので、流石の修兵も迂闊に攻撃に転じる訳にはいかない。
「だ…だから、最初に言ったじゃないスか。六と九がそれぞれ陰爻と陽爻。【陰】が地、月、夜、女なんかを表してて、【陽】は天、日、昼、男……って具合に、対になる意味を持った、八卦を作る一番基本の形を示してる数字なんですよ。分かりました?」
「……最初っからそう言えばいーのよ」
「言って分からなかったから説明したんじゃ―――いや、何でもないです」
 取り敢えず、逆らわない方が賢明だと判断する。
「ねえ、じゃあひょっとして、その顔の横棒は陽爻なワケ?」
「――さあ、どうなんですかね」
「どうって……だってあんたの説明だとそうなるでしょ?」
「俺は六と九の数字の説明しただけですよ?」
「―――…………は? な…ちょっと待ってっ!!」
「だって数字を説明しろって言いましたよね? 乱菊さん」
「そりゃ言ったわよ!? だけどあたしが聞いたのは刺青の……っ!」
「俺、確かに説明しましたからね。約束は破ってないっスよ」
 いつの間にか、飄々とした余裕の表情がそこにある。咄嗟に反撃できずに口篭り、八つ当たりに顔へと伸ばした腕は、あっさりと修兵に掴まれた。
「幾ら何でも、この期に及んでそれは卑怯じゃないですか?」
「卑怯なのはあんたでしょ!?」
「嘘も吐いてないのに、卑怯呼ばわりは酷いっスね」
「だったら……」
「もう説明しませんよ? この話はこれで終わりですからね」
「勝手に決めないでよ!! ……ちょっと修兵!?」
「休憩終わりなんで帰ります。乱菊さんも、いい加減帰った方がいいっスよ?」
「待ちなさいよ!!!」
 残ったのは、土に忘れた戯書きの跡。
 それは、小風が流れる静かな秋野の昼下がり。





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