花影


 白菊は二度咲くという。
 最初は花を開いた時。そして二度目は花弁の色が退色し、紫色へと変化した時。

 整然と片付けられたせいでそれ程見るべき物もない、妙にがらんとした自室で、修兵は一人、花を前にしていた。
 普段は部屋の隅で殆んど用を成さない焼締めの花器。今、書き物机の上に置かれたそれに、無造作に挿してあるのは一輪の菊。重なる花弁を広げ、高雅に空を見上げた白い菊。
 決して大きくはない。だが、八重咲きの花は、元はどこかで育てられていたものだろう。事実それは、捨て置かれ、割れた鉢から伸びていた。
 深くも考えず、折れずに咲いた一輪を手折る。狼狽えたのは、隊舎の執務室へと戻ってから。
 そして、よく言えば事務的、悪く言えば殺風景な執務室の中に、一輪残しておくには忍びない。柄にも無い気持ちになり、仕事が残っていたのを幸いに、人に見咎められないよう持ち帰った。
 小さくとも、白の花弁はその一枚一枚がしっとりと重い。それらが集まり、一つの花を成しているのは、至極当然で、それでいてとても不思議な光景だった。
 何より、菊の花は、その全てが一人の人を思い起こさせる。
 ―――気付いて、何かが凍り付いたような気がした。

 ぼんやりとした夜。僅かばかりの月と、それを黒く掠める雲の影。時折、雨露を含んだ夜気が重たげに止まる。
 眠った気は、余りしなかった。
 分かるのは、心にわだかまる名前の無い感情と、部屋に留まる空気の重さを感じていた事。そして時々ふと目を開けて、無意識に白い花を探していた気がする。
 うっすらと浮かぶ白い色は、一瞬だけ修兵を息苦しさから解放し、そして心の内に畏れに近い思いを呼び起こさせた。
 ゆっくりとした夜の移りに押し潰されそうになりながら、ようやく薄明を迎えると、修兵は倦怠感が巡っている身体を半ば強引に引き起こす。
 それ以上眠らずに済む事が、いっそ有り難い程だった。
 目を遣れば、挿した花は変わらずそこで咲いている。
 手折られてから、どのくらいそうして咲き続けていられるのだろう。
 機械的に身支度を整えながら、そんな事を考えた。

 菊花は長寿をもたらすという。
 菊に置いた露を飲む。或いは花に被せ、夜の間に露と香を移した真綿で身体を拭えば、長寿を保つのだと。
 本当に、そうであればいい。そして菊を名に持つ者が、その恩恵を一身に受ける事ができるのなら――。
 今日、当然のように居たとしても、明日もそうであるかは分からない。立場上、それは理解している。納得もしている。しかし、それを受け入れられない想いがあるなどとは、考えもしなかった。
 今は、誰かを後に残すよりも、自分独りが残されてしまう事の方が身に迫って恐ろしい。
 呆れるほど身勝手だが、最後の最後で、自分が何を選択するかは考えなくとも分かっている。それが他の「誰か」ならば、どちらでもない全く別の道を拓く事ができるだろうという事も。
 手を伸ばし、躊躇いがちに顔を寄せると、澄んだ香りが胸を衝く。
 微かに息を吐くと、突き放したようにそれを戻し、最早一瞥もくれずに部屋を出た。
 戸を閉じて。それでも心を残し、想いを引き摺る己を自覚しながら。





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