残雨


 空気を裂いて、影が舞った。
 刀身に似た、水気と冷気を含んだ夜気。
 それらを斑に染めるように、赤黒い液体が散る。
 黒い瞳に苦しみ悶える虚を写し、修兵は無感動に刀を払った。白い腕が飛び、少し遅れて妙に重い音がする。
 その有様は、言うなれば殺戮。誰が見たところで、最早戦いですらない。
「弱ぇ……」
 鬱陶しそうに言い放ち、修兵は仮面の真正面で斬魄刀を振り上げる。間断無く続いた苦しみの後、漸く訪れた終焉に、虚は寧ろ安堵していたかもしれない。
「殺すなら、てめぇも死ぬ覚悟でやりやがれ」
 そして、吐き捨てた言葉は宙に浮く。

 砕けて溶ける虚を眺め、転じた視線は不自然に明るい夜へと向いた。空に向かって照り返し、月影までもを消し去った、煌々とした地上の明かり。何も休まりそうにないそこを、果たして夜と呼んでいいものか。
 光を眼下に、宙を蹴る。
 現世で古人は、夜に蠢く闇を恐れた。ならば、この妙に明るい空の下で、街並を泳ぐ無数の人は一体何を恐れているのだろう。
 思いながら、修兵は街に落ちた大きな影の一つに滑り込んだ。
 並び、連なる幾つものレール。架かった橋梁と続く電線、左右の道路を見上げるそこは、さしずめ暗く沈んだ運河の底。側面を塗り固めた灰色の壁は、至る所をスプレーペイントの大きく難解な文字や絵で埋め尽くされていた。
 奇妙に静かなその場所は、街の中を抉ってできた長細い暗がり。壁に背を預けると、遠雷と振動が身に響く。右手から、不意に攻撃的なほどの光の束が飛んで来て、闇の間を強く焼いた。
 轟音を響かせた電車は、一体感の全く無い広い車内を辺り構わず見せ付けて、修兵の目前を走り去る。
 眩しいほどの光は届くが、それに霊体の死神を浮かび上がらせる力は無い。今の修兵の姿が誰かの目に見えたとしたら、それはそれで面白い事になるかもしれないが。
「――――!」
 不意に、空気が揺らぎ、強い霊圧が皮膚を撫でた。慣れた感覚が伝えるものは、新たな虚。
 有り難い。
 修兵は、歪んだ笑みを浮かべて身を起こす。
「……帰還が遅れた言い訳には、困らねえで済みそうだ」
 現れたのは白い影。修兵の周りで、霊圧が風となって巻き上がった。

 抜き身の刀をぶら下げて、暫く後に修兵は再び同じ場所へと戻り来る。
 怪我は無い。ただ、わざと被った返り血が、死覇装と肌に点々と流れている。
 落ち着かない気分で、自分の身体を見渡した。
 被った瞬間は、気が晴れたように錯覚する。だが今は、それらがどう足掻いても取れない何かを象徴している気がした。
 仰ぎ見るが、雨の気配は地上の辺りに残るのみ。望んでも、雲の切れた空からは、一滴の雨も降っては来ない。
 ふと思い付いて、湿り気を残す、硬い壁に手を押し付ける。中途半端に擦れた赤が移ったが、修兵にとっても壁にとっても、結局はそれだけでしかない。
 ぼんやりと、赤く乾き始めた手を見やる。
 何かで塗り潰せば、消えるというものではないらしい。
 ならば、洗い流せば消えるものでもないだろう。
 自分が消えれば、消えるかもしれない。
 人ならば、それでも残ってああなるのだろう。
 そうなった方がいっそ、分かり易くてよいかもしれない。
 思って頭を掠めた人影に、思わず呼吸が止まる。居た堪れずに、拳を壁に叩きつけた。
 心が無くなれば、この想いも、少しは軽くなるのだろうか―――。

 振り返って眺めた先には、しかし白い仮面の残滓すら、既に残っていなかった。





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